episode5

 神はいるのか、いないのか。宗教家達にとってはもちろん「いる」だろう。
 ではその証拠が天から落ちてきたら、アブラハムの子達は喜ぶに違いない。
 しかし、無垢な彼らは幼児のごとく欲するものを取り合い、いずれはそれを壊してしまう。
 そこには救いなど無い。だから苦難の地が生まれるのだと思う。

 渇いた空、渇いた空気、渇いた大地に根をはる色あせた黄色の枯れ草。
 見渡す限りに砂と砂を固めて作ったような建築物。または石を切り出して積み重ねられたような建造物。
 その日は砂嵐がひどく、男は白い布を頭からすっぽりと被り、その猛威からなんとか逃れていた。
 男は目の前に横たわる石碑を見つめ、酷く劣化した本を片手に唇だけを動かして言葉を発していた。
 彼は三日三晩その本に書かれた言葉を発し続け、やがて4日目の夜が明けたところで嵐が止む。
 声が聞こえた。それは砂が震えているような雑音が混じっているが、確実に人の声だ。やがて石碑がそれに呼応するように振動し、大きな亀裂を作った次の瞬間には粉砕してしまった。
 だけども男は眉ひとつ動かさずに言葉を発し続ける。本のページを捲り、石の破片が肩を突き抜けても、男は口を動かし続けた。
 そして閃光が周囲を包み、一呼吸おいてあたりが闇に包まれた。
「私は誰……? あなたは……何?」
「あなたはファティマ、我の理想の女性。そして我は、そなたを導く者」
「此処は何処? どうして、あなたは泣いているの?」
 男はゴーグルの向こうで溢れていた涙をぬぐい、感極まった声で答えた。
「ああ、我はあなたを待ち焦がれていました。これは喜びの雫でございます」
「私を……待っていたの?」
 目の前に女が立っていた。
 触れれば壊れてしまいそうな白い肌に、赤い瞳。月の光と見間違うくらいの銀髪。何もかもが美しく、何もかもが幻想的で、その姿に神聖なものを重ねないものはいないと断言できる姿。
 奇跡を目の当たりにした彼は、その奇跡全てを受け入れると同時に、幻想を幻想とは思わなくなった。
 祈りが伝わったのかもしれない。または、運命だったのかもしれない。
 だからこそ彼は問うた。
「コーランでも読みませんか?」

 ――やがて時は経ち、現代。

 火薬と砂煙が支配するその世界で、金属と金属がこすれ合う音が響く。同じ形で神を信じる者たちが、一人の聖女に希望を託し、それを力として立ち上がった。
 彼女は今、同士のために戦っている。
「明日、ついに同胞は開放され、自由と平等を手に入れる。……嬉しいか?」
 兵士たちがライフルを掲げて喜びの雄叫びを上げた。
「偽りの赤旗を挙げる支那の反民主的豚野郎共に鉛玉を打ち込み、震え上がらせ、我々の、虐げられし彼らの国を取り戻すのです。まず我々が成さねばならぬことはなんですか? 作戦目標唱和!」
『A365線から国境を超え、国境警備隊の排除と共に東トルキスタンに侵入。人民解放軍の拠点を占拠した後、中国政府へ犯行声明を出します。そして返答を待たずして……北京市内の爆弾5000個を起爆します』
「よろしい。いいですか? これは聖戦です。敬虔なイスラム教徒である彼らを否定することは、我等が教義を、我等が神を否定するも同じ。我等が同士は支那人共に犯されたから、我々も犯し返さねばなりませんね」
『はい、そうであります!』
「犯してやりましょう。人も、プライドも、国境も。穴という穴から汚い液体を吹き出させ、搾り出し、足りなければ7.62×39弾で増設してやりなさい。目には目を、歯に歯を、銃弾には銃弾を、恐喝には恐喝を、殺戮には殺戮を、小便には大便をぶつけてやりなさい。いいですか皆さん、この作戦で”犯す”のは誰ですか?」
『アイン=ハー=ラーアのファティマ様であります!』
「”犯される”のは?」
『支那人の腐った小龍包であります!』
「以上。皆さんの幸運を祈ります」
 聖女は今、テロリストをしていた。

 ――セルビア王国、ベオグラード。
 4月も半ばが過ぎ、暖かな春の暖気が街を包んでいた。
 爽やかな朝に街の喧騒も聞こえ出し、人々が一日を過ごし始めようとしている。それぞれの過ごし方は様々で、労働に勤しむ者や洗濯などの家事を始める者。子供たちは修復が終わった学校へと向かっていた。
 中央道路は通勤途中の人々が車に乗り、わずかではあるが渋滞している。そこには「早く職場につかなければ」と思う人達のストレスがクラクションに変換され、またある人はそんなことも思わずに半分寝ながら運転している人もいる。
 それは日常だった。ほんの少し前までこの日常は全て無に返されたというのに、半年ほど前の日常がこんなにも早く戻るなどと誰が予想しただろうか。多くの人が戦火に消えた戦争から半年も立っていないというのに、今やセルビア王国はBRICsにつぐ発展途上国の仲間入りを果たしている。ここ最近のセルビア王国全体の生活基準は今までに無く上がっていた。
 街のインフラ整備は西方ヨーロッパにも見劣りしない、むしろそれを越える。GDPは短期間で15%の成長を見せた。それは王国議会の新たな経済政策の成果でもあり、何よりも彼らの存在があった。
 今のセルビアは決して他国には漏らせない秘密の経済基盤が存在している。それは国民の生活にいつの間にか溶け込み、発展を加速させる。本来恐れるものであるはずの彼らは国民にとって何者でも無く、”天使”と呼ぶにふさわしかった。魔界より召喚されし悪魔は、例外的に、かりそめでない平和を供給している。
 そんな王国の朝に、そろそろ目覚めようとしているものがいた。目覚めようとはしているのだが瞼と疲労がそれを許さず、彼女は縄に縛られたようにベッドから拘束をされている。繊細なエッチングの施された青銅製のベッドの上で寝息を立てる女。その寝顔は年よりも少しばかり若く見えて、少女のようなあどけなさを所々に見ることができる。
「姫様、ルミナス姫様。朝ですよ、お目覚めになってください」
 ルミナス=エンキュリオール21世はやっとの思いで瞼をこじ開けた。そこに立っていたのはスーツの上にエプロンをかけた黒髪の男性、王室専属の執事「バトラー」。
 朝食の準備に忙しかったバトラーは、なかなか目覚めないルミナスを心配して、調理の途中ではあったが暇を見つけて彼女を起こしに来たのだ。
「おはよう、バトラー。……ん、私としたことが少々寝すぎてしまいましたか」
「過ぎたといえど10分程度の話です。いつもの通りならばこの時間には食堂にいらっしゃるものですから、気になってしまいまして」
「いえ、ありがとうバトラー。このままあなたが起こしに来なければ、今もまだ眠っていたでしょう。それにしても疲労のせいか、体が縄で縛り付けられたような感覚に……」
 ルミナスはベッドから起き上がろうとした――がしかし、体は思うように動かなかった。むしろ痛みさえ感じた。
 ベッドのスプリングが軋む音とは別の音が聞こえる。何事かと思って掛け布団を取ってみると、ルミナスの全身は鉄製の鎖でがんじがらめにされていたのだ。御丁寧に鎖は南京錠で施錠されており、鍵がなければ解くことはできないだろう。
「ちょっと! これは………あの悪趣味魔王めぇええええ」ルミナスが怒りに全身を震わせる。
「どう考えてもヴァンの仕業ですね。……あいつめ、姫様で遊ぶのも程々にしてほしいものだ」
 バトラーは南京錠を軽く捻りちぎり、鎖をほどいていった。御丁寧に鎖の巻き付け方は規則的で解きやすく、ヴァンが単なる暇つぶしでこのような仕業をしたのがわかった。
「ありがとうバトラー」
「お構いなく。それでは今日のスケジュールを確認させていただきますね」
「いえ……着替えるので部屋から出てほ――」
「9時半から王国議会の定例会議。11時から移動を開始してクラグイェヴァツ教会孤児院の視察」
「だから着替えるので――」
「3時からノヴィ基地の視察、その後18時からアルメニアの大臣との会談で――」
「部屋から出ていってください!!」
 突然大声を出したルミナス、それに驚くように肩を跳ね上がらせたバトラーはスケジュール手帳を落とした。
 そして視線をルミナスの方へ向け、いったい何事かと言いたいような素振りを見せた。だが次の瞬間、彼は自分が今まで主の命令を無視し続けていたことに気がつく。
「も、申し訳ございません。ただ今出てゆきます!」
 彼は慌てて手帳を拾い、そそくさとルミナスの寝室を出て行った。
 彼女の部屋から去り、厨房へと向かう廊下を歩きながら自分の異変に気がつくバトラー。元・天使である彼にとって6人くらいの会話なら同時に把握することも容易いはずなのに、今日はスケジュール説明中にルミナスの声を聞くことができなかった。
 ここ数日は周辺諸国の代表との会談が続いたため、彼も相当な負荷がかかっていた。だが人間ではない彼にとってその程度の負荷など大したことはない。
 原因は不明。だけども何処かおかしかった。
 そして、問題はそれだけでは無い。ヴァンのように男女両方の姿を取れるわけではなく、男性で固定のバトラーはある種の限界を感じていた。
 ルミナスは女性。常識的な羞恥心の持ち主である彼女は、元・天使といえど”男”の前で着替えるなどのことに抵抗を持っていた。彼女が小さい頃はそんなこと気にすることもなかったのだが、思春期の到来と共に微塵とは思わなくなっていったのだ。むしろ二十歳を過ぎるまで問題が無いことがおかしいのである。
「うーむ……そろそろ女性の専属使用人を雇った方がいいでしょうかねぇ」
 王室の使用人にはもちろん女性もいる。だけども、常に護衛などで近くにいる専属使用人はバトラー以外に居ない。
 信頼のおけて、尚且つ強い女性または女性の姿をした何かが必要だった。

 ルミナスの朝食はまず、上層階にある食堂から見えるベオグラードの街を眺めることから始まる。
 その位置からはベオグラード全体を満遍なく見渡せるようになっており、RHKの創設式を行った中央広場は特に美しく見えた。コーヒーを飲みながら街を眺めるその気分といったら、言葉で表すには足りないほど素晴らしい。しかし彼女は同時に不安になった。なぜなら最近、ベオグラードは想定とは異なった方向性の発展を遂げているためだ。
「……父上がこの街を見たらどう思うかしら」
「最近、ノヴィ・ベオグラード方面が急速に工業化しています。おまけにそれの殆どが軍事関連事業です。レオニード様は街の復興にはお喜び頂けると思いますが、苦笑いは必須ですね」
「後悔はしていません。だけどもこれほどまで富国強兵を突き詰めていって、果たしてどうなるというのでしょうか」
 ヴァンは好き勝手やっていた。人を超える力を持つ悪魔たちを作業員として召喚し、人間の優れた技術を使って次々に基幹インフラを設備すると同時に、兵器工場を含めた軍事関連施設を建築。国営の兵器製造会社は海外から優れた技術者を呼び寄せ、この国はその技術を貪欲に吸収していった。その国営兵器製造会社は地名をとって「ノヴィ・ベオグラード社(通称NB社)」という名前であり、彼らはRHKに新開発の武器を供給し、実戦データを採取、それをフィードバックするプロセスを淡々と繰り返していた。
 守りも完璧だ。国の中枢であるこのベオグラードには魔界から取り寄せた魔力結晶による防護結界が常時展開されており、秘密裏に作られた地下施設には悪魔たちのテリトリーとなる地下都市が建設され、いかなる非常事態でも悪魔たちが迅速に対処できるようになっている。
 もはやこの国は人間だけの国ではない。魔王ヴェーデルハイムとエンキュリオール家による、人と悪魔の多種族国家となっていた。
「そういえばヴェーデルハイムが居ないようですが」
「彼は魔界の定例会議に出席しています。彼は封印されているため魔界に行くことができないので、地下都市が会場だそうです。ノヴィ基地の視察には合流されるとのことです」
「あれも暇そうに見えて結構忙しいのですね。しかし人を困らせて遊んでいるくらいなら、少しは仕事を手伝って欲しいものです」
「まあ、彼は悪魔ですからね。悪魔にとっての食事は人間の不幸ですから、多少は姫様を困らせないと彼は空腹に悩むことになります」
「ああ……なるほど。そういえば悪魔はそうでしたね」
 悪魔のエネルギー源は人間の「負の感情」。不幸、怒りや悲しみなどの感情を人間が抱いてくれなければ、悪魔は食事抜きも良いところだ。
 ルミナスは思った。小腹が空いた程度ならいいが、もしも餓死寸前の状態だったらどうなるだろう。人間だったら久々にありつく飯を腹一杯に食う。悪魔なら満たすために多くの人々を不幸にするだろう。そんなことはあってはならない。ちょっとした悪戯で遊ばれるだけでそれを防げるのなら、ルミナスは我慢する以外に選択肢はなかった。
「はぁ…………憂鬱ね」彼女は大きな溜息をつく。
「では姫様。9時半から会議を行いますので、お食事がお済み次第お知らせくださいませ。お召し物を準備いたします」
 バトラーは一礼すると、そそくさと食堂から出て行った。ルミナスは目玉焼きの乗ったトーストを食べようとする。だが目玉焼きの黄身が破けてあふれていた。
 なんだか今日は厄日になるような気がしたルミナスであった。

 本日の予定一発目。王国議会の定例会議が終了したルミナスは、セルビアのシュマディヤ地方にあるクラグイェヴァツへと向かった。
 クラグイェヴァツはセルビアで4番目に大きく、シュマディヤ地方の中心的都市である。
 何故多忙な女王がわざわざ訪れるかというと、もちろん国民との交流が公務の一つであると言うこともあるが、とある人物に孤児院へ訪問して欲しいと持ちかけられたためだ。
 国内には多くの孤児がいる。少し前に終結したコソボ紛争でも多くの戦災孤児を発生させ、そしてつい半年前にあったモンテネグロ軍侵略の際にも、多くの子供たちは親を失ってしまった。
 現在、セルビア王国の孤児院は急激に増加した戦災孤児を収容するため、慢性的なパンク状態となっている。多くがキリスト教会などの宗教団体が経営するものだが、いくら数があるからと言って子供たちを養っていくために必要な資金は、信徒からの寄付金だけで補えるようなものではない。
 では養子として迎えてくれる人を募れば良い訳だが、それも難しい。
 国が焼け野原から奇跡的に復興し、生活レベルがむしろ戦前より向上したとはいえ、経済の水準は世界的に見ればまだまだ低い。だから養子を取れるような世帯は少なく、孤児が再び家族の愛に触れることはまず叶わないのだ。
 国としてこの問題を解決するためには、孤児院に対しての公的補助か養子縁組をする世帯に対しての養育費の補助などが必要と考えられる。
 安易に決めて良いことではなく、何事も実際に見て触れて見なければ把握はできない。ルミナスはその問題を解決するべく、はるばるここまで来たのだ。
 アウディが教会の前のとおりに止まった。先にバトラーが車外へ出て、ルミナスの座っている側のドアを開ける。
 そしてルミナスはヒールのかかとを土の地面に下ろし、頭をぶつけないようにゆっくりと車から出てきた。
 予定通りの時間に、予定通りの場所。クラグイェヴァツ教会孤児院。
 爆撃から逃れたこの教会はセルビア国内の教会の中でも特に古く、昔ながらの石造りが美しい外観を彩っている。
 シンプルなデザインの鉄柵の向こうには綺麗に手入れされた花壇があり、パンジーやチューリップなどの花が春を振りまいていた。
 その真中を分けているように通る石畳の道。それは木製の、教会の礼拝堂へと通じる扉へ向かっていた。
 それに並ぶように子供たちが立っていた。ルミナスがくるのを心待ちにしていた孤児院の子供たちが、彼女の姿にその丸い瞳を、これでもかと言うほどに輝かせている。手には花束。彼女を歓迎していた。
 その子供たちの真中には黒い詰め襟の神父服を着た男が一人。男はルミナスに一礼すると、優しい笑みで歓迎を表した。
「ようこそいらっしゃいました。エンキュリオール女王陛下」
「素晴らしい歓迎をありがとう、エイブラハムさん」
 ヨハネス=エイブラハム神父が子供たちに向かって頷くと、子供たちは待っていましたと言わんばかりにルミナスのもとへ駆け寄った。
「こんにちはルミナス様! これ、庭でみんなで育てた花なんです。どうぞ受け取ってください!」
「まあ綺麗なお花! ありがとうね、お嬢さん」
 ルミナスはグッドスマイルを振りまきながら花束を受け取り、その子の頭を撫でてあげた。
「ようこそルミナス姫さま!」
「デニス! ちがうでしょ、姫様はもう姫様じゃなくって女王陛下様なの!」
「うっさいなイリーナ。そんなのどうでもいいだろー……ってどうでもよくない! 違うんです姫様っ、じゃなくて王女さま? あれ?」
 てんやわんやの子供たちに囲まれたルミナス。それぞれが我こそはと花束をルミナスに手渡そうとして、まるでハリケーンのように激しく揉み合った。それでも笑顔を絶やさないルミナスであったが、ヨハネスは半分苦笑いで子供たちを見ている。
 あまりにも騒がしい子供たちを見かねたヨハネスは、一つ咳払いをして叱り飛ばす。
「皆さん! 私は最初に姫さまに失礼が無いよう騒がしくしてはいけないと約束したはずですが、神の御許に嘘をつくのですか?」
 彼の一言で子供たちが我に帰り、列を作って順番を守って花束を渡す。だけども子供たち全員がその程度の注意でまとまるはずも無く――。
「ほーらちがうだろイリーナ。姫様でも良かったんだってば」少年が一人ささやかな反論をする。
「デニス、トイレ掃除1週間」ヨハネスが強めの口調で名前を呼んだ。
「はい神父様。ごめんなさい、神に誓って僕はお喋りしません」
 少年は額に垂れた脂汗をぬぐい取り、とたんに静かになった。相当トイレ掃除をやりたくないらしい。そんなヨハネスと子供たちのやりとりを見て、ルミナスは思わず微笑んでしまった。
 冷静沈着な職業軍人。彼のイメージがそのままここで、一人の保護者として見せつけられたのだ。
「面白い子供たちですね。これなら毎日賑やかで、さぞ楽しいでしょう?」
「楽しいことは確かなのですが、それと同じくらい手がかかって困りますよ」
 ヨハネスは子供たちに道を開けるよう指示すると、教会の扉を開けてルミナスを案内した。
「では改めまして。ようこそ、クラグイェヴァツ教会へ」

 礼拝堂で子供たちが白い服に着替え、横一列に並んでいる。これから少年聖歌隊による聖歌を斉唱する予定だ。
 それを聞くためにルミナスは席に座り、周囲はバトラーを含めたSS(シークレットサービス)に囲まれている。何故教会でそれ程の厳重な警備をするかというと、国内外のマスコミも教会に訪れているためだ。
 国営テレビ局は王室議会の管轄に置かれているが、問題は国外から訪れた各種メディアだ。今やセルビア王国の女王は時の人である。国際法に触れるか触れないかのグレーゾーンを踏むRHKインターナショナルを設立し、世界中に兵士を派遣している。そして侵略を受けて間もないにも関わらず、GDPを回復どころか侵略以前の数値を超えさせた。彼女の実体を知りたいと思う人間は世界中に山ほど居た。同時に政策で軍備増強を推し進め、国外への兵器輸出量は半年前の10倍となっている。これを脅威と思わない国などあるはずが無い。
 父に代わり突如現れた女王ルミナス=エンキュリオール21世。今や彼女は注目の的なのだ。
「姫様、本当に彼らをここに入れてよかったのですか?」
「いい、とはあまり思えないけども、取材に応じるならここが最適の場所だと思います。郊外の教会なので周辺住民にも迷惑はかかりませんし、何よりも彼らにとっては私に取材する唯一のタイミングでしょう。移動中は車内ですし、ノヴィ基地では報道管制が敷かれます。ここで取材を断れば取材拒否と同義です。今私が成すべきことは、”得体のしれない指導者”というイメージを払拭することですから」
「申し訳ありません。本来ならば記者会見の場を設けるべきだったのですが、移動時間の関係で確保することができませんでした」
 ルミナスは表情を曇らせる。
「最も心配すべきなのは、彼らがこの催しを邪魔してしまうのではないかと言うことです」
 そんな彼女の心配をよそに、聖歌隊は合唱を始めようとしていた。
 子供の指揮者が指揮棒を振り始めると、聖歌隊は一斉に息を吸って歌い始めた。伴奏の無い、無伴奏声楽。
 8種類の定められた旋律を、祈祷文を区切って当てはめられたオクトエーコス。セルビアの作曲家「ステヴァン=フリスティッチ」によるオラトリオ「ハリストスの復活」。
 まだ声変わりの訪れない少年と少女が織りなす透き通った声が礼拝堂を駆け巡り、ルミナスの耳にキリストの復活を伝えた。それぞれが一生懸命に喉を鳴らし、努力した形跡が彼女の感動を呼び起こす。
 その時ばかりはマスコミの人間も素直に聞き入っていた。しかし、レンズを向けたのは国営テレビ局だけで、外人は聖歌隊にレンズを向けることは殆ど無かった。彼らの興味の対象はひたすらに女王だ。
 聖歌が終わると、直ぐ様マスコミは飢えたハイエナの如くルミナスに飛びつく。フラッシュが連続して焚かれ、目をすぼめなければ余りにも眩しすぎる。余韻を味わう暇もない。
 彼女には感動の余韻に浸る時間を与えられず、取材を許可しなければよかったと心底後悔した。
「エンキュリオール女王陛下、近年のセルビア経済の急速な発展についてお答えください!」
「殿下、モンテネグロの侵略を受けた際に悪魔が現れたとのことですが、このことについてなにか知っていることは?」
「設立されたRHKインターナショナルの事業は、国際法で禁止されている傭兵行為との議論がありますが、これについてのお考えをお聞かせください」
「軍備増強は国際平和に逆行しているのではありませんか?」
 次々と繰り返し止めどなく続く質問の嵐。聖徳太子でも聞き取れるかどうかは分からない。人と人がなんの秩序も無く言葉を発すれば、それは単なる騒音あるいは雑音でしか無かった。
 思わず奥歯を噛みしめてしまうルミナス。後悔の念に、彼女は手のひらに爪を立てながら思った。
――口を開くな。質問は後にしろ。ここが何処だと思っているんだ。
 だがその場所には、誰よりも強く不快に感じているものが居た。ここを誰よりも愛し、ここに身を捧げた彼は我慢の限界を超えていた。
 次の瞬間、ヨハネスの隣にあるオルガンから強烈な不協和音が響く。
「失礼。鍵盤に指がうっかり触れてしまいました」
 礼拝堂が静まり返る。オルガンの不協和音を聞いたものは皆、体を石のように硬直させた。突然の音に人が驚いてしまうのは良くある事だ。しかし、この硬直はその硬直とは決定的に異なるものであった。
 動かない、動けないのだ。鍵盤が叩かれてから今まで、騒がしかったマスコミの人間は脂汗をかきながら数秒前の姿勢を維持し、硬直しているのだ。
 マイクを持った手はマイクから離れず、開いた口は言葉を発する形で塞がらない。肺は動かず呼吸は停止し、人の生命活動までが完全にストップしているのだ。
「では次の曲へゆきましょう。ダマスコの聖イオアン、指揮はダヴィードにお願いします」
 ヨハネスが再びオルガンの鍵盤を叩く。今度は不協和音ではなく整った和音だ。
 その和音が響き渡った瞬間、マスコミの人間達は一斉に喉を押さえてむせ返った。空気の美味しさを痛感させられていた。何事も無かったかのように次の聖歌が歌われ始める。突然の状況にルミナスは驚きを隠せなかった。
 ――今のは一体何だ。何が起こったのだ?
 彼は何かをしたのだ。何かを起こしたのだ。キリスト正教会に明るい人が考えればわかる思うが、正教会で歌われている聖歌は無伴奏声楽が一般的である。なのにこの教会でヨハネスはオルガンを弾いたのだ。普通の正教会に属する教会であれば置いているはずのない楽器が音を出したのだ。これほど不可解なものはない。
 マスコミも突然の出来事であっけにとられ、椅子にへたり込み演奏に聞き入っている。いや、もはや彼らにルミナスを問いただす体力は残っていなかった。
 神父ヨハネスは普通の神父ではない。彼は古より伝わるキリスト教の秘術「正教会法術」を操るのだ。
 
 演目終了後、バトラーはSSと共に報道陣を教会の外へ追い出した。ルミナスは引き続き孤児院の子供たちとの交流を行った。
 女王と遊ぶとなった子供たちは非常に活発的で、芝生の上でルミナスが木の棒を使って剣術を教えていた。棒を持った小さな戦士見習いは勇敢にも突撃していくが、セルビア王家に伝わる剣術の前に、次から次へとひれ伏せされてゆく。やがて汗だくとなった戦士見習いは、汗ひとつかかないでいるルミナスを見て格の違いを思い知らされると同時に、体力の限界で倒れてしまった。
 しかし一人は立ち上がった。落ちた木の棒を拾い、少年は震える膝を立たせる。少年は真っ直ぐな瞳をルミナスに向け、雄叫びをあげながらルミナスに突進したのだ。
 そして少年が棒を振りかぶった瞬間――、昼寝の時間になって少年は棒を捨てた。
 ヨハネス神父が手を叩いて「皆さん、お昼寝の時間ですよー」と言えば、子供たちはベッドに飛び込んでしまうのだ。彼らはすぐに寝息を立てた。
 軽く事務所の掃除した後、朝では洗い切れなかった洗濯物を干す。ヨハネスが一連の作業を終えると、ルミナスとバルコニーで話すことになった。
 外を向けば庭園に咲く花。中を見れば子供たちの寝顔。それらが最も美しく見える場所がバルコニーだった。
「子供たちはお昼寝ですか?」
「ええ、朝が早いのであれくらいの年だとこの時間で眠くなってしまうんです」
「あれくらい……というと、彼らは小学校に入る前くらいですか」
「そうですね。ここで預かっているのは中学生に上がる前の子たちですから、小学生の子は日中には学校ですね」
 ルミナスは子供たちを見て目を細めた。数えると子供たちはだいたい20人くらい。他にも学校に入っているが家は孤児院と言う子供たちがあと10人はいるらしい。
 彼女は気になることがあった。孤児院の子供たちの構成が、比較的幼い組が全体の3分の2を占めている。
「エイブラハムさん。彼らは殆ど同年代のように見えますが、やはり……」
「はい、彼らはベオグラード陥落の際に出た戦災孤児です」
 別になんの不思議も無かった。しかし傷跡を目の当たりにしたことで、ルミナスは”あの光景”思い出してしまう。
 火の海とは良く言ったものだ。人の悲鳴とはこんなにも響くものなのかと驚いてしまうくらい、断末魔はやまびこのように街を駆け巡った。
 あの火の中で多くの人が死んだのだろう、焼け死んだのだろう、殺されたのだろう。銃弾は家族を引きちぎり、親無き子を銃創の代わりに作ったのだろう。
 ルミナスもあの時に父親を失った。年は違えど親無き子であり、子供たちの境遇はまるで自分のことのように捉えている。
「で、姫様。こちらにわざわざおこし頂いたのは他でもない、彼らのことです」
 ヨハネスは今までの優しい視線とは打って変わって、険しい表情でテーブルを見つめた。
「ベオグラード陥落で多くの人が死んだのはご存知のとおりですが、同時に戦災孤児も多く発生しました。セルビア王国内にある孤児院は18箇所ですが、その内の15箇所が入所者の急増で運営的に厳しい状況におかれています。もちろんここも例外ではなく、運営資金の一部にRHKからの報酬を充てている現状です」
「国からの支援が必要、ということですね?」
「はい。残酷ではありますが、善意だけで人を救うことは出来ませんから……」
 この問題はずいぶんと前から王国議会で取り上げられてはいた。しかし苦しい財政状況の中で公営孤児院への援助は十分に行えず、子時に対する支援そのほとんどをセルビア正教会などの宗教組織に任せていた。
 では今ならどうか。現在の財政は1年前のそれとは比べ物にならないくらい回復し、そろそろ福祉に対して投資しても良いのではないだろうか?
 現実は不可だ。
 発展途上の経済をさらに加速させ安定させるために、今は商業および軍需産業へより多く予算を充てている。その流れを維持するために数ディナールも無駄にはできない。
 機械は作ればモノを生産し役に立つが、人は育っても役に立たないことがある。全ての子どもが役に立たないわけではない。全体からすれば僅かな人数の孤児を助けて、その何パーセントが利益として帰ってくるのかと言うリターンとリスクの問題だ。
 もちろん医療などに対する支援は怠ってはいない。つまりは少数の”極めて報われない”人を救うよりも、大勢の”報われない”人々に手を差し伸べるほうが効率が良かったのだ。
 ルミナスはしばらくの沈黙の後、口を開いた。
「――努力はします。ですが現実は難しいでしょう」
「銃を作る金はあるのに人を救う金は無いと言うのですか!?」
 強めの口調で感情を露にしてしまうヨハネス。それに対してルミナスも黙ってはいない。
「一国を背負う私としては、より多くの人々を幸せにしたいのです。それに今の子供たちを救ったのは何ですか? ベオグラード陥落で被害を最初源にとどめてくれたのは誰ですか? 他でも無く残酷な悪魔たちと、銃です。力が我々を救ったのです。力こそが全てとは言いませんが、力がなければこの国はありえないのです……」
 ルミナスは奥歯を強く噛みしめて悔しさを露にした。そんなことはないと思いつつも、目の前で圧倒的な力による王国の再建を目にして、それを信じてしまう自分が悔しかった。
 彼女の顔は酷く歪み、ヨハネスはそれを見て我に帰った。
 ――そんなことは分かっていた。
「申し訳ありません姫様、少々熱くなってしまいました。自分も人を殺して得た金で子供たちを養っていますので、偉そうなことを言えた義理じゃありません。全く、とんだ神父ですね私は」
「……何故あなたは神父を?」
「私が聖職者たる理由ですか? そうですね、何故でしょうか」
 ヨハネスは一つ溜息をつくと、自分の身の上話をし始めた。
「元々この教会は私の父が務めていたのですが、若い頃の私は教会を継ぐことを拒んで正規軍に入りました。より直接的な方法で人を救いたかったのです」
 当時ヨハネスは代々伝わる正教会法術を操り、正規軍では圧倒的な力を持つ兵士だった。
 見えない壁で銃弾を止め、負傷した兵士の傷を癒し、神の力で身体能力を強化し、敵陣に単身で飛び込んでは多くの状況で活躍を見せた。
 一人でも分隊並の活躍をする、彼はいつしか『ワンマンアーミー』として恐れられるようになった。
「やがて私はコソボに駆り出されました。ランブイエ和平交渉が出される前の本当に末期でしたが、大規模な作戦が展開されました。当然最初は戦場へ行くことを拒んでいたのですが、クラグイェヴァツがNATOに空爆されて父と教会を失ってから、私は怒りにとらわれて戦場へ行くことを決意しました。神罰の代行者にでもなったつもりでしたよ」
「憎しみの連鎖とは恐ろしいものです」
「殺しましたよ。それはもう周りに血の池ができるくらいに、一人で数百人を三日三晩飲まず食わずで殺しました。特にセルビア正教会の教会を破壊しようとしている敵は念入りに殺しました」
 当時の彼は狂っていた。法術で自分の体を絶えず癒し続け、モルヒネを切らさぬようにし、目の前に立ちふさがる全てを血に染めた。
 一線を超えた彼はもはや神父などではなく、サタンに取り憑かれたも同然だった。
「気がつけば目の前の兵士は全て死んでいて、熱が冷めた私は何もない廃墟で気がつきました。そこで初めて気がついたのです」
 ヨハネスは額に手を当てて瞳を閉じ、深呼吸をしてから口を開いた。
「兵士の死体の山でもがく胴体が真っ二つになった少女が、私を”悪魔”と指さしたんです。私は何かを守ろうとしたわけではなく、ただ行き場の無い悲しみを、暴力で発散していただけだと気づきました」
 強烈な光景を思い出す。腰と腹が二つに別れ、焼けて焦げた断面から覗く内蔵。瀕死の少女が精一杯の力を振り絞って上げたその手で、目の前の悪魔を追い払おうとした。
 ヨハネスは全てを後悔した。
「帰国した私は正規軍を退役し、この教会孤児院を再建しました。もはや神父である資格も無く、神を信じているわけでもないのに、私は”優しい神父様”を演じているのです。私が聖職者たる理由は、その方が子供たちが幸せになると思ったからでしょうね」
 ルミナスは彼を只者ではないことくらい理解していたつもりだったが、所詮つもりだったのだ。誰もが彼を敬虔なキリスト教徒だと思っていたのに、正体は偽りの神父だ。
 彼が悪魔を受け入れた所以は、その矛盾だらけの信仰と内に潜む二面性があったからなのだろう。
「子供たちへの支援は、近いうちに何らかの形で実現させてみせます。国ができることは限られていますし、あまり大それたことはできないでしょうけど、計画進行の妨げにならない程度で成立させましょう」
「本当ですか姫様!? ありがとうございます、貴方をここにお連れして本当に良かった」
 ヨハネスは席から立ち上がり深く礼をした。表情からは嬉しさがにじみだしており、声の調子も高かった。
 だけども国ができることはルミナスの言うとおり僅かであり、全ての国民を平等に幸せにすることはできない。
 決してルミナスは彼の話を聞いて同情を買ったわけではないと言えば嘘になる。
 だけどもそれが王政の良いところだ。この国の政治には何時だって人の情があるのだから。

 玄関先に停車した車に乗り込むルミナス。数名のSSと共にバトラーも乗り込み、ヨハネスは女王を見送りに来ている。
「今日はありがとうございました。ここでの出会いは必ず政治に活かしてゆきます」
「お願いいたします女王陛下。……それと最後に一つ忠告をよろしいですか?」
 忠告。何やら不穏な響きのするその言葉を聞いた彼女は、条件反射的に笑顔を忘れてしまった。車のドアごしで耳を傾けた。
「最近、RHKを中東にも派遣しているそうですね」
「ええ、アフガニスタンの治安維持部隊に派遣したり、イランの正規軍にも派遣していますが、それが何か?」
「分かっているとは思いますが、イスラム系武装組織の動向には注意してください。我々の行動はほぼ確実に彼らの反感を買いますから、熾烈な報復が待っているでしょう」
「理解しているつもりです。入国管理局の警備も強化しましたし、万全の策は取っています」
「いえ、違うんです姫様。私が言いたいのは法術的、言い替えれば魔術的な観点から言った物です。心は何にも勝る最強も武器ですが、それは自分たちだけに限ったことではないことを忘れないでください。信仰は時に人を超えた力を与えるんですよ」
 ルミナスは彼の言葉でロシアでの作戦を思い出す。精霊を憑衣させたヴァレンチナの力は圧倒的で、人間はどこまで出来てしまうのかと恐怖した。
 思いは人を強くする。その思いがどんな形であろうと、強ければ力となるのだ。彼女の場合は精霊に対する信仰と深い憎しみだった。それに対してフランシスカが使った思いは母への愛と殺意。RHKに対する遺恨も力になりうる。それがイスラム教徒の強い信仰と合わされば、どれほどの力が出るのだろうか。想像するだけで恐ろしい。だがルミナスにも強い思いがある。それが他の誰かに劣ったことなど一度も無い。少なくとも彼女自身はそう思っている。
「彼らがもしも我々を仇なすならば、私はそれに愛国心で立ち向かいます」
 安心したとばかりに満面の笑顔をむけるヨハネス。改めてルミナスの元で働くことが出来て良かったと思った。
 自分の脅しで一国の主が情けないことを言ったらどうしようかと考えていたが、その心配はなさそうだ。
「姫様らしい言葉です」
 ルミナスは一礼をしてその場を立ち去った。 ヨハネスはそれを見送り、爽やかな笑顔で去りゆく車を見つめていた。
 彼は思った、彼女は甘いと。愛国心だけで戦えたら、復讐なんて言葉は無かったのだ。

 クラグイエヴァツから車を走らせて数時間。ベオグラードから東に離れた場所に盆地があり、そこをセルビア軍が軍事演習場として使用している。正式名称「王国軍ノヴィ・ベオグラード駐屯演習場」、通称ノヴィ基地。
 その盆地は草木も少なく非情に荒れており、地肌は砂が露になっていた。そのため人も住むことはなく、このような利用法しか思いつかなかったのだろう。近所には軍施設も隣接しており、軍としては非常に使いやすい場所だ。
 有刺鉄線の張られたフェンスには「関係者以外立ち入り禁止」の看板が括りつけられており、その向こうには装甲車やら迷彩柄のトラックやらが並んでいる。車庫らしき建物からは戦車が覗いており、今日は何台か戦車がそこから出払っている。
 現在、この基地ではセルビア正規軍とRHKインターナショナルが合同で軍事演習を行っており、最新兵器のテストから実践を想定した訓練まで、幅広い演習が行われている。遠くから響く銃声が、ここがそういう場所だと言うことを知らせていた。
 小高い丘の向こうから無限軌道の戦車が走ってきた。轟音と共に砂煙を巻き上げながら走行するその戦車は、しばらく走ったところでゆっくりと停止する。砲塔は動かさずに、ただそこに停車していた。
『こちら23号戦車。指定位置に到着。これより降車します』
 無線通信を終了してエンジンを停止した後、乗組員が戦車のドアを開けて降車した。金属部品が歪んでおり、ドアを明けた時の音は金切り声にも似ていた。そのまま乗組員は戦車から離れて行き、少し離れた土嚢の影に身を潜めた。彼ら何処か寂しそうな顔をしながら、頭を影から覗かせて戦車を見つめている。
 戦車の停車を待っていたかのように屋外スピーカーからサイレンが鳴った。けたたましいその音は人に危険を警告し、この演習を見守る人々は一斉につばを飲んだ。
 そして男が歩いてきた。男はダークグリーンの戦闘服に身を包み、その上に黒いコートを羽織っている。何よりも特徴的なのは、その人間とは思えない紫色の髪で、光があたる度にその色を変化させていた。特徴的なのは髪だけではない。手に持っているは彼の膝から胸辺りまでの大きさをした銃で、単なるライフルではなく『対物ライフル』と分類される巨大な銃だった。弾倉をグリップの手前に設けたプルバップ型で、銃身は1メートル程度の同系統の兵器と比べて銃身は短い。だが銃身の先には銃剣が装着されており、魔金属ミスリルとアルミの合金で作られた光沢のある外見からは儀礼用とも見て取れる。しかし、これは列記とした実践用である。なお反動を消すマズルブレーキは付いていない。
 50口径弾を30発装填するドラムマガジンから銃弾がチャンバーに移動し、男はアイアンサイトで目標に狙いを定める。平行に、垂直に、そして瞳孔を開く。引き金を弾く。着火・爆発・発射。急激に発生したガスが銃弾を押し出し、音速を超える速さで銃弾は発射された。目を覆わずにはいられないほど眩しいマズルフラッシュ。それには通常対物ライフルに使われる倍の火薬が使われていた。劣化ウラン弾芯の使用により最適な質量を持ち、強大な加速度もある。戦車の甲鈑に着弾するやいなや、鉄製の甲鈑は液体のような流体の特性を持ち、銃弾を内部へ通してしまった。それはただ一度だけのことではない。このライフルはフルオートで射撃サイクルを繰り返し、甲鈑を一瞬で蜂の巣にしてしまった。
 反動で人が殺せるこのライフルを、彼は平気な顔で打ち続ける。これを恐ろしいと言わずなんと言おうか。それを打ち続ける彼は口元を楽しそうに歪ませ、満足の一言を放つ。
「素晴らしい」
「素晴らしい、じゃない!」
 魔王ヴァン=ヴェーデルハイム=ヴェンデッタの後ろで一部始終を見ていたルミナスが、彼に一発の蹴りを入れる。
「満足? 満足なのはよろしいですけどね、どうして戦車を破壊する以外で満足しないのですか? 酔狂で1台数億はくだらない戦車をスクラップにするバカが何処に居ますか? ええ、ここに居ますよあなたですよ!」
「酔狂ではない。ノヴィ・ベオグラード社新開発の対物ライフル『RM99-AMR ”Haborym”』の実射テストを行っていたのだ。”物”に対するテストでより良いデータを得るためには実践に使われる戦車を標的にした方が良いだろう? それにあの戦車は老朽化していたのだ」
「直せば良いでしょう。あるいは使える部品だけを取り除いてリサイクルすべきでしょう。何も破壊することはありません。テストなら想定される材質の甲鈑だけを使えば良いのです」
「お怒りですなぁ、お姫様。朝にちょっと遊んでしまったことに腹を立てているのか?」
「アレで喜ぶのはマゾヒストです。私はマゾヒストではないので嫌に決まっているでしょう」
 職業スマイルが怒りに歪むルミナス。眉が痙攣したように小刻みに震えた。しかし彼を相手にしてもキリが無いことを思い出したので止めた。
 深い溜め息をついた後、彼女はノヴィ基地を改めて見回す。
 フェンスの向こうからでは見えなかったが、小高い丘の向こうでは軍の兵士たちが演習を行っていた。
 湿地帯を想定した、ぬかるんだ泥の中での移動訓練。数百メートル先にある標的への射撃訓練で放たれた銃声。小隊単位で行うペイント弾を使用した模擬戦闘。廃墟を想定した障害物が点在する場所で行われている模擬戦闘は、実践さながらの緊張感を以て行われている。魔道兵達の訓練は特に目を引いた。複数人の魔法使いが杖と魔導書を片手に呪文を詠唱し続けている。はたから見れば何かの儀式かと思うものだが、これは正確に呪文を詠唱するための訓練である。
 しかし彼らの訓練は可愛いもので、ヴァンの配下である悪魔兵の訓練は強烈だ。ルミナスがその訓練を視界に入れると、悪魔同士で血で血を洗う鮮血の戦いが繰り広げられていた。内蔵だか骨なのだか分からない何かをばら撒きながら戦っており、人間では扱えないような強大な魔力による魔法で、地面は黒く焦げていた。もちろん不死身の彼らは遊び感覚だ。流石の彼女も見るに耐えず、すぐに視線を別の方向へ滑らせた。
「さて、ノヴィ基地の案内をしよう。今日は特別にツアーガイドを用意してある」
 ヴァンが指を鳴らして合図をすると、彼の後ろから軍服姿の女性が姿を表した。赤毛の髪にオリーブグリーンの帽子。背丈はルミナスよりも若干高く、体つきは軍人であると軍服の上からでもわかった。
「ご機嫌麗しゅうございます、女王陛下! 基地の案内はこの私、サラ=ジェンドリンにお任せください!」
 ルミナスに対して姿勢正しく敬礼する兵士、サラ=ジェンドリン。元ベオグラード城内警備部隊所属だが、RHKに入社するまでルミナスと面識は無かった。しかし最近はその活躍もあってか、ルミナスも一目置く存在となっている。
「御機嫌よう、ジェンドリン軍曹。お仕事の方はよろしいのですか?」
「陛下のためにやるべき事は全て終えてきました。ですので今日は陛下のために全力で案内させてもらいます!」
 鼻息を荒くしてやる気充分のサラ。憧れの姫様に付きっ切りの仕事とあって、普段の仕事とは力の入れようが違う。しかし、夜遅くまでこの時のための準備をしてきたためか、目の下にはうっすらと隈が出来ている。
「では早速ご案内しますね。お車を用意してございますので、どうぞご搭乗ください」
 悪路に強いオフロード車に乗り込む一行。運転席にサラが乗り込み、補助席には護衛のバトラー、後ろの席にはルミナスとヴァンが乗り込んだ。
 エンジンスタート。車が走り出し、車体に小石がぶつかる音がする。泥沼に車輪が突っ込み、揺れが酷い。走り出してすぐ、車の右手に巨大な倉庫が現れた。
「右手に見えるのがノヴィ・ベオグラード社の兵器廠です。軍で使われる兵器の大半がここで整備点検・保管されています」
 ルミナスが兵器廠を見る。すると彼女は疑問を持った。
「そう、兵器で思いつきました。先程実射テストを行っていた銃についてですが、あれは見たところ人間に扱える代物ではありませんよね。一体何のためにあんな銃を……?」
「ロシアでの作戦の後に思ったのだ。我々悪魔は圧倒的な力で噛み付いたり、爪で引き裂いたり、火を吹いたり出来るが、人間が使う銃器のように遠距離で直接的な加害をする術を持たない。あるいは高度な科学技術を用いた兵器を持たない。必要としていなかったからだ。しかし、我々もそれを使うことができたらどんなに素晴らしいと思う?」
 ヴァンはルミナスの顔を覗く。口元を歪ませながら問を投げかけていた。ただでさえ恐ろしい悪魔たちが人間には到底扱えない強力な兵器を所有しているのだ。長い間人間を敵としてきた人間にとってこれほど解り易い恐怖はないし、悪魔にとってはより残酷に殺すための一手段である。おまけに対物ライフルの対人使用は道徳的な観点から条約で規制されているが、ヴァンはそんなことお構いなしだろう。理由は前述の通り、重要なのは殺せるかではなく、如何に人を残酷に殺せるかである。それが彼にとってどれほど素晴らしいかなどルミナスには想像出来ないし、したくなかった。
 車内に漂う良からぬ雰囲気。それを察知しながらも案内役のサラは笑顔を保ち続け、与えられた仕事を「早く終わらないかな」と考えながら続けた。
 兵器廠から暫く走ると殺伐とした雰囲気には似合わない、青く美しい光が荒地を照らし始めた。その光源は突然現れた灯台のような建造物。高くそびえ立つそれの頂上から青い光が降り注いでいた。サラがそれを指してはきはきと説明を行う。本日のメインディッシュである、
「こちらが最近稼働し始めた防護結界の祭壇です。魔界産のブラックアメジスト結晶を頂上部に安置しており、専門の悪魔が術をかけることによってベオグラード近郊6箇所に存在する祭壇の間に強力な結界を展開します」
「その結界は一体何を防ぐものなんですか?」ルミナスが眉間にシワを寄せながら質問する。
「良くぞ聞いて下さいました! 実はこの結界が中枢ベオグラードのグレートウォールなのです!」
 サラが咳払いを一つしたあと、何処からとも無く取り出した資料を見ながら説明を始める。何やら重要なポイントのようだ。
「魔界式完全防護結界『HYMEN』は、ミサイルなどの攻撃から街を完全に防御します。活性時は結界が地獄へのゲートとなり、あらゆるものをベオグラードではなくあの世に転送し、街に危害が及ばないように出来ます」
「あらゆるものを転送すると? では仮に弾道ミサイルが飛来してきたとしても、ベオグラードには着弾しないということですよね?」
「はい、結界の範囲内であれば爆風も寄せ付けません。核爆発でも結界の範囲内だけは絶対安全が保証されます」
 そして横からヴァンが補足の説明をしてきた。
「この結界は世界のパワーバランスを揺るがす存在になるだろう。なんせ圧倒的な抑止力を持つ核兵器を、限定的な範囲であるが完全に無効化するのだ。これに関してはお前も素直に喜べるだろう?」
「ええ、しかし貴方が平和を愛しているはずが無いので、素直には喜べませんね」
「その通り。近々この防衛サービスをRHKで提供する予定だが、”面白そうな”国にしか相手をしないさ」
 彼の言う面白そうな国とは抽象的な表現だが、つまりは核抑止力によるパワーバランスで平穏が成り立っている複数の国の、どちらか一方ということだ。
 もしも核の脅しが効かないとあれば、もはやそこに遠慮は要らない。カオスな戦火があがるだろう。その時入用になる兵士として、RHKの兵隊を貸し出す。非情な雇用創出である。
 そしてサラはその後も結界の説明を懸命に続け、ルミナスはそれに答えるように良く聞いた。次々に紹介される最新の軍事設備。たとえば地下シェルターの設備説明、戦闘機の訓練の見学。どれもこれも積み重ねてきた犠牲の上に編み出した生き残る術であり、目の当たりにしたルミナスは軍事と言うものに改めて触れた気がした。
 そして同時に、彼女は自分が成そうとしている凶悪の一端を垣間見た。

 基地をちょうど一周回ったところで、車は開けた演習場に到着する。
 すこし離れたところでは射撃訓練が行われており、銃声と共に硫黄の匂いが漂ってくる。ルミナスはそれを嗅ぐと久しぶりにライフル射撃がしたくなった。ライフル射撃もスポーツとして嗜んではいたが、何よりも王家伝統の戦闘訓練で銃の扱いには長けている。しかし最近は多忙で時間がとれず、それもおざなりになっていた。
 と、思った瞬間にサラが気の利いた提案をしてくる。
「陛下、射撃場で銃撃の体験はいかがでしょうか?」
「いいアイデアね。ちょうど私も腕がなまってきているのではないかと心配でしたから」
 車を降りて射撃場に向かう。そこでは兵士たちが訓練に勤しんでおり、ただひたすらに銃声が聞こえる場所があった。
 兵士たちは立ったままの通常射撃やうつ伏せの精密射撃など、様々な姿勢・状況を想定した射撃訓練を行う。
 ルミナスがその場内に入ると、すぐさま訓練担当の士官が駆け寄ってきて敬礼をした。
「ご公務おつかれさまであります姫様……失礼、エンキュリオール陛下」
 ルミナスも答えるように敬礼し、眩しい笑顔を見せた。余りの美しさに、士官はそれを見て思わず口元をゆるめそうになる。立場は変われどルミナスは未だに国民のアイドル的存在だ。
 ふと士官の装備をみると小銃を装備している。FN社の自動小銃『SCAR』。RHKの標準装備としても採用しているものであるが、もともとはセルビア正規軍の標準装備であり、あくまでRHKは流用したに過ぎない。
 そして彼の装備しているSCARはNB社がライセンス生産をしているモデルであり、曲がりなりにもメイド・イン・セルビアの銃で、ルミナスとしてはどれほどの性能を持つのか興味があった。
「もし宜しければ私にも撃たせてくださらない?」
「陛下にはいささか大物過ぎます。鍛えていない者では反動で怪我をする恐れがありますので、陛下には……」
 彼は手に持った小銃とルミナスを交互に見ながら難しい顔をする。しかしルミナスはそんなことお構いなしに、その手から小銃をもらった。
 そのまま開いている射撃場に移動し、的となる人形の板に数十メートルの位置で対面した。
 肩にストックを軽く当て、反動を全身で受け止める姿勢をとる。安全装置を解除し、コッキングレバーで初弾を装填、引き金に指をかけて、光学サイトで的を見る。引き金を引き、発射。三点バースト。銃声と共に銃弾が飛翔し、3発の銃弾は的の頭に命中。続けて撃たれた銃弾も的の胸辺りに着弾しており、彼女の見事な銃の腕を見せつけた。
 士官は言葉を失う。
「良好な感触です。重量も思ったより軽いですし、精度も良いです。これならあなた方に持たせるに足ります」
「驚きました……。射撃の心得があるとは聞き及んでおりましたが、まさかここまでとは」
 驚きのコメントを言う士官。すると傍で見ていたヴァンの顔がにやりと笑い、彼は突然ルミナスの持っている小銃を奪うと、片手で少銃を構えて照準を合わせた。
 そして引き金を引いて発射。世にも奇妙なことに、フルオート射撃のはずなのに腕はピクリとも動かず、まるで反動が伝わっていないように見えたが、伝わっていないのではない。彼は反動を腕一本で打ち消しているのだ。
 これには士官も呆然としている。おまけに銃弾は全て的の頭だけに命中していた。片手で対物ライフルのフルオート射撃をこなしてしまう彼にとって、この程度の小銃は水鉄砲に等しい。そんな彼の顔は、どこか不満たらたらといった感じだ。
「我々には物足りなすぎる、撃った気がしない。人を撃てば多少は分かるだろうか?」
 ヴァンは士官に銃口を向け、口元を大きく歪ませた。危険かつ禍々しすぎる彼の言動に、士官は顔を真っ青にして硬直した。彼が「冗談だ」と言って銃口を下げた途端、士官は硬直から開放された。
 ルミナスはヴァンの行動に冷や汗を書きながら、安心と呆れを込めた溜息をつく。
「ヴェーデルハイム……洒落にならない冗談は謹んでください」
「悪い悪い。最近は殺しもできなくて欲求不満だったのだ。理解してくれ」
 彼女の肩をたたきながら不敵な笑みを見せつけるヴァン。ルミナスはそれに対して睨んで返した。
 ふと気がつくとサラがいないことに気がつく。案内を放棄したわけではないだろうが、一体何処へ行ったのだろうとルミナスは当たりを見回した。
「さて、ルミナス。ちょっとついて来い」ヴェーデルハイムがにやりと笑って建物のある方へ歩き出した。
 ルミナスは彼について行き、建物の中に入る。
 内部は倉庫のように広々としており、差し込む光も少なく薄暗い。そして埃っぽく、居心地の良い場所ではない。
 奥の方へゆくとそこには精密機器に囲まれた黒く大きな箱があった。周りには異形の悪魔も入れば白衣の人間もおり、妙な空間がそこにある。
 するとそこには居なくなっていたサラの姿もあった。
「これは……、開発中の兵器などの類でしょうか?」
 ルミナスが箱を見てサラに質問する。だがサラはそれに答えられる回答を持ってはいなかった。
「私も良くは知らないのであります。これがヴァンさんが陛下に見せたかったものらしいのですが……」
 彼女もまた黒い箱を不思議そうに見ていた。彼女の案内はこれで終了らしい。
 ヴァンはその黒い箱に近づき、周りに居た悪魔に指示を出す。すると鍵が開いたような金属音と共に、黒い箱に亀裂が入ると同時に割れるように開かれた。
 箱の中に入っていたものは、人のシルエットをした得体の知れない物だった。全体の形状としてはドレスであるが、上半身は所々に鎧のような形状をしたものが付いている。鎖帷子と鋼板、あるいは何かの生物の皮など、様々な素材が使われている。防弾チョッキにも似た素材であしらわれたスカートの下には鎖帷子のレギンス。鎖に根を生やすように、得体の知れない肉が纏わり付いている。グロテスクだ。
 だが紫色の宝石が散りばめられており、怪しい美しさにも満ちている。前述の通り防具としても使える、用途の分からない、謎の着衣だ。それをヴェーデルハイムが説明した。
「”ドレス・オブ・アスモデウス”。通称、肉鉄のドレス。我々がルミナス専用に調整した、戦闘用ドレスだ」
「戦闘用ドレスですって? いいえ、問題はそこではないわ。私のための物なの?」
「今後エンプレスソード隊が出撃する仕事では、お前も最前線で戦ってもらう。このドレスは司令官が最前線で戦うために必要な装備・機材が内蔵されており、ゴーグルのHUDを通して情報を得ることができる。戦闘に関しても問題ない。私の魔力によってドレスがパワードスーツの役割を果たし、HYMENと同じブラックアメジストを用いた防護結界を展開するため、あらゆる物理攻撃を無効化する。生命維持装置も内蔵するため化学兵器対策も万全だ」
 ルミナスが首を振る。
「違います、何故私が最前線に臨む必要があるのか、ということです。中世じゃあるまいし、司令官が最前線で戦うなど聞いたことがありませんよ」
「理由がある。RHKの戦力に”人でないもの”が居るということを知っている組織が存在するようなのだ」
 ルミナスは目を丸くして驚いた。最高機密であるはずの悪魔兵の情報が、外部に漏れていると言うのだ。
 これが公になればセルビアという国は、全人類から敵視されるに違いない。何故なら本来人間が敵対するはずの悪魔と手を組んでいるからだ。これを敵と呼ばず何と呼ぼうか。
「まさか……そんなはずはありません。RHKの悪魔兵は人の皮を被っているし、契約者には兵士の個人情報は秘密です。それに悪魔の姿を見たセルビア人以外の人間は記憶を失うように術をかけてあるのでしょう? 何処から情報が漏れるというのですか?」
「情報漏えいの詳細は現在調査中だ。しかし、誰かが知っていることは確かとしか思えん。思い出してみろ、今までの作戦で特にエンプレスソード隊が出撃したもので、不可解な戦法を取られた事例があるだろう?」
 ルミナスは眉間を指でつまみながら過去を振り返る。そして、彼の言うとおりに不可解な事が多々あることに気がついた。
 全ては報告書からだ。隊員たちの報告書には時折妙なものが書いてあったのを思い出す。

 モンスターハンティング作戦――執行地、グルジア共和国のレポート。
『――通常歩兵に対し、敵は戦車などの対物兵器を多用していたように思える。しかも弾頭は体魔物用のオリハルコン弾を使用していたようで、悪魔兵にも被害が及んだ。人と戦うにしては効率が悪いように思える』

 シナゴーグサミット警備――執行地、ロシア連邦・カレリア共和国ペトロザヴォーツク、クロンシュタット軍港でのレポート。
『――薄氷結界による魔力の隠蔽は、魔力を視覚化できる悪魔にのみ効果がある。人間はそもそも見えないので、隠蔽したところで意味がない。しかし、ホワイティスト構成員はこの結界を使用していた』

 いずれの事例も敵が悪魔対策を取っていたということを記したものだ。対策とは対向する策であり、対向するものが何なのかを知らなければ策を撃ち出すことは出来ない。すなわち、敵はRHKに悪魔がいると言うことを知っているはずなのだ。ルミナスは別のあらゆる可能性を考えたが、これ以外に思いつかなかった。
「確かに……敵は悪魔の存在を知っていたように思えます」
「敵が我々の存在を知り、対策をとる。これは由々しき事態であり、我々もそれを考慮した行動が求められるようになる。そうしなければ対人戦闘の優位性が失われ、確実に隊員が死ぬだろう」
「その通りです。ですが、このドレスはそれとどういう関係があるのですか?」
 彼女はその”考慮した行動”と、自分がドレスを装備して前線で戦うことの関連性が良く分からなかった。
 するとヴァンは近くで待機していたサラに合図を送った。
 サラは頷くと黒い箱の隣にあった機械を操作する。するとドレスが自動的に動き、人が着れるように変形した。
「陛下、取り敢えず着てみてください。そうすれば彼の言っていることが理解できる……かもしれないです」
サラの言うとおり、取り敢えず着てみるのが一番だ。
 しかし問題はどうやって着ればいいのかが判らないところだ。見てみると裏地は牛の腸内にも似たグロテスクな形状をしており、触ってみると湿っていて粘り気があった。少なくとも肌で触れたくはない、生理的嫌悪感を具現化したようなデザインだ。
「内部の腺毛は魔界式生命維持装置の一部で、肌にふれてなければ意味がありません。ですのでなるべく薄着での着用が原則ですね」
「まさか……これを裸で着ろというのですか!?」
 何時の間にやら周囲で働いていた人たちは姿を消し、ここにはヴァンとサラのみがドレスを囲んでいた。まさに服を脱いで着替えてくださいと言わんばかりの状況だ。ルミナスはヴァンをちらりと見る。彼なりに気を使っているのか、何時の間にやら女性の姿を取っていた。
 しぶしぶ彼女は服を脱いで下着姿になり、改めてドレスと対面した。
 ドレスの裏地にびっしりと生えた腺毛。僅かだが蠢いており、無臭だが糸を引き、生暖かい。そんなところに裸同然の格好で飛び込むには、かなりの勇気が必要だった。
「ヴェーデルハイム、変なことしないですよね?」
「しないさ。慣れれば気持ちよくなるらしいぞ」
 何がどうして気持ちよくなるのか是非とも知りたくないが、とにかく彼にそんなことを聞いたことを激しく後悔した。
 だが今更引き下がれない。意を決したルミナスは、そのグロテスクなドレスに素足を突っ込んだ。
 ナメクジのような感触に鳥肌がたつ。我慢に我慢を重ねてそれを全身に纏い、ドレスは彼女を包み込むように変形した。そしてサラがヘルメットを被せて、各種装置の電源を入れた。
 まるで生きたナメクジが一杯にたまった浴槽に飛び込んだような状況で、ルミナスは気を失いそうになったが、着てすぐに蠢いていた腺毛がおとなしくなり、むしろ全身を包みこむようなフィット感で安定感を得た。
 気持ちよくはないが、慣れれば快適なドレスのようだった。
「着終わったようだし機能説明と行こう。簡単に言ってしまえばこのドレスは、ルミナスに俺と同等の力を与えるものだ」
「貴方と同等というと、怪力を得たり、銃弾を無効化したり、魔力も無尽蔵に湧き、空も飛べると?」
「その通り。お前は今、悪魔を着ているという状態だ。あるいは俺を着ていると言ってもいい」
 サラが横からフライパンを差し出してきて曲げてみるように言った。ルミナスはそれを受け取ると、両手で軽くフライパンに力を込めた。
 するとフライパンはまるで粘土のような柔らかさでひしゃげてしまった。決してフライパンが柔らかいわけではなく、ドレスの補助によってルミナスは怪力を得たためだ。
 次に銃を撃ってみる。外に出てから射撃場に向かい、サラが予め用意しておいてたマシンガンを構え、ルミナスに向かって射撃する。
 向けられた銃口に緊張したルミナスだったが、防護結界が働いて、銃弾は自分には届かなかったようだ。
 これならば戦場のど真ん中でティーセットも広げられるだろう。
 彼女は他にも様々な体験をする。詠唱なしに各種魔法を使用したり、背中に折りたたまれた羽で空を飛んだり、とにかく生身では到底実現不可能なことを軽々とやってのけた。
 そして最後は元の建物に戻り、やっとドレスから開放されることになる。
「素晴らしい性能です、ヴェーデルハイム。しかし、未だこれを私が装備する理由が良くわかりません」
 ルミナスはドレスを脱ぎながらヴァンに問う。
「ロシアの一件のように、あれほどの緊急事態が同時に二つの場所で起こった場合、今の俺だけでは対処し切れない。ただでさえ対悪魔対策を敵がしてくることが想定される以上、より強力な力が必要になるのは明らかだ。だから契約によって強力な魔力を供給できるお前に、最前線で俺と戦って欲しいのだ」
「つまり、私に貴方の代わりをしろと」
 彼の言うとおりだった。あらゆる局面で柔軟に対応するためには、切り札が2つあることに越したことはない。
 より高位の強力な悪魔を召喚することもできるが、凶悪になればなるほど人の姿とかけ離れた外見になるらしく、そんなものを戦場で戦わせたら、RHKは悪魔だと宣伝しているようなものだ。
 よってここは人であるルミナスが切り札となればいい、というわけだ。
「それが私に務まるのであれば、喜んで引き受けましょう」
「それでこそ王だ。やはり指導者たるものが率先していかなければ、仕える者も着いては来ないのだ」
 ヴァンは腕を組みながら偉そうに頷いている。
 すると今までルミナスの後ろにつき黙っていたバトラーが、腕時計を見て時間が押していることに気がついた。
 次の予定は隣国のアルメニアから来た大臣との会合で、ベオグラード城で晩餐会を行う予定だ。
 料理の準備はとっくのとうに始まっているだろうが、大臣がすでに到着している状況は避けたい。ホストであるルミナスが彼を迎えるというのが礼儀だろう。
 大臣の乗った飛行機の到着予定時刻は今から1時間後。そろそろベオグラード空港に向かった方が良い時間だ。
 バトラーがそれをルミナスに伝えた。
「陛下、あと1時間で大臣が空港に到着します。そろそろ向かいましょう」
「あら、もうそんな時間? ではヴェーデルハイム、少なくとも大人しくしていなさいよ」
 ヴァンは含みのある笑顔を作る。手を横に振って”そんなことはしない”と言っているようだが、ルミナスは何処と無く不安だった。
 そしてサラの運転によって、乗ってきた車で基地を出ることにした。

 基地の入口で降車する。門の向こうには王家の専用車が停車している。
「案内ありがとう、ジェンドリン軍曹。年も近いようだし、今度は個人的にお話がしたいですね」
 サラはそれに敬礼をしたまま答えた。
「光栄であります。しかし、私が陛下のお相手を勤めるなど、身に余る名誉ですよ」
「硬いことは気にしないで。王家の生まれだから、私、世俗には疎くって。良ければベオグラードでの、普通の暮らしというのを教えて欲しいわ」
「でしたらお時間のある時に、クネズ・ミハイロヴァ通りを案内しましょう。そこに新しくユニクロができたんですよー」
 ルミナスはユニクロが何なのかをさっぱり知らないので、”ユニクロって何処の料理?”とでも言いそうな顔をして悩んだ。サラはその滑稽な顔を見て思わず笑ってしまう。それにつられてルミナスも笑った。
 二人の、女の子の声が殺伐とした基地に響く。時は夕暮れ。太陽は沈みかけで、影も伸びていた。

 ――影が、伸びていた。

 サラはルミナスの後ろに影が伸びたのを見た。だがそれは影ではなく、黒く染まった霧。その霧はどこかで見たことがあった。サヴァ川にかかる橋の上、ベオグラード陥落の時、ヴァンの登場とともに立ち込めた謎の黒い霧だ。
 いつの間にかその黒い霧は晴れ、その向こうには人が立っていた。黒い布を被った人影。銀色に輝く毛髪と、赤い瞳を持った女性。布を頭からすっぽりとかぶっている為に詳細は判らないが、確実にその形状は見覚えがあるもので、それはイスラムの女性が身につけるヒジャブだ。正教会クリスチャンが多いこの国では珍しい人目を引く格好。そして何よりも、彼女がルミナスに向けていたものが異質だった。
 銃だ。
「避けて!」サラはルミナスを蹴り、すぐ横に飛ばした。銃声が響く。
 引き金を引く速さよりサラの判断が優ったため、ルミナスは掠り傷一つなかったが、サラは銃弾を脳天に直撃させて粉砕された。散弾を発射するショットガンだ。
 突然の出来事に言葉を失うルミナス。しかし彼女には考える暇など与えられず、すぐさまホルスターから拳銃を取り出した。だがヒジャブの女が構えたショットガンの銃口は動き、銃を構える暇すらも与えてくれそうに無かった。回避行動に移る。同時にバトラーがヒジャブの女の持ったショットガンを掴み、彼女を取り押さえようと試みる。しかし予想外の事態に陥った。女の力は凄まじく、ショットガンを手から奪い取るどころか、関節技を決めようにも体が銅像のように動かない。凄まじい力で動かすことが出来ないのだ。女はバトラーの顔面を拳で強打し、力が緩んだところで後方に蹴り飛ばした。
「なんだこいつは!?」
 バトラーは彼女の存在に疑問を抱いた。しかし現に存在しているために疑問に思うだけ無駄だ。そして彼女は再びルミナスに向き直り、初めて言葉を発する。
「貴様の命もここまでだ、愚かな気狂いサタニストよ。我はアイン・ハー・ラーアのファーティマなり。今ここに、お前を神の意志によってファックする為に参上仕った」
 女は極めて丁寧に、そして汚いスラング混じりのセルビア語を発した。同時に自分をイスラム教開祖の娘の名である”ファーティマ”を名乗っている。少なくともこんな物騒な奴を理想の女性とは言わない。
 バトラーはチタン合金製のメリケンサックを懐から取り出して右手に装着。ファーティマに向かって殴りかかった。しかし、そこにはいなかった。拳を突き出した先にはただ空気があるのみで、何の感触も伝わってこなければ何が見えるわけでもない。女は消えていたのだ。
 あたりを見回すバトラー。すると彼は背中に冷たい金属が通る感覚を覚えた。背後に視線を向ける。女がいた。女が湾曲した刀をバトラーの背中に突き刺していたのだ。すぐさま体を回転させて女の手から刀を振りほどく。バトラーは背中から胸に貫通した刀を見て戦慄する。元・天使である非人間の彼にとってはそれほど致命的な傷ではないが、悪魔ほどの生命力は持たないため、無視できる傷ではない。いとも簡単に背後をとられるようでは、死期は目の前に迫っている。
「馬鹿な。人間ごときに私が遊ばれるとは」バトラーは傷口を手で押さえて嘆く。
 女は再び消えていた。だがここから居なくなっているわけではないだろう。どこかに隠れているに違いない。しかし人が隠れられるような障害物は見当たらない。不可思議だが、少なくとも基地の最外周部であるこの場に居るよりは、中央部に向かった方が良いだろう。ルミナスもそれを察して立ち上がる。
「失礼します姫様。取り敢えず安全な場所まで避難します!」
 バトラーは自分に刺さった刀を抜き取ると、倒れているサラの死体を両手で抱えて、ルミナスと共に一目散に走り出した。ルミナスは携帯電話を取り出して基地に連絡をとる。
「もしもし、エンキュリオールです。謎の刺客の襲撃を受けています!」
『銃撃を聞いた時点で、基地に非常事態警報ケースAを発令しています。陛下の元に一刻も早く兵を送りますので、どうかご無事でお願いします!』
 全速力で走る二人。すると正面に人影が見えてきた。応援の兵士だろうと判断したバトラーは声を上げようとしたが、もう少し接近したところでその姿に声を止めた。ファーティマがカラシニコフを向けていた。
「さらば愚者。歯を食いしばれ」
 周囲に遮蔽物がないために、飛び込んで回避することは不可。このままではバトラーはともかく、ルミナスがロイヤルゼリー入りの蜂の巣になることは必須だ。だが盾がないわけではない。バトラーはすでに、両手を振って走っているのだ。
 銃声と同時に現れたもう一人の影。二人の盾になるよう疾走する彼女は、血と肉をまき散らしながらファーティマに突進する。サラが首のない状態で突っ込んだ。激突。サラはファーティマを見事に捕らえ、土埃のすごい地面にねじ伏せた。懐からナイフを取り出して、サラは女にそれを突き刺そうとする。ファーティマもそれに対抗し、再び曲刀で切り裂こうとする。同時に振り上げられた刃は同時に接触し、至近距離での鍔迫り合いとなった。しかし力はサラ、ではなくファーティマが圧倒し、サラは腹を切り裂かれ内臓が飛び出た。さらにファーティマは肋骨の隙間に手を突っ込み、それを掴んでへし折り、肺を潰す。
 だがサラは一向に離れない。瞬時に頭部を再生した彼女は、ファーティマを睨んだ。
「私を殺さないと先には進められません。肺もなければ心臓も無いし、殺せるとは思えないけどね」
 蠢くものがあった。飛び出た内臓の隙間から湧き出る白い虫、ウジ虫。彼女が契約している蠅の悪魔「ベルゼブブ」のソルジャーマゴットだ。
 ウジ虫は湧き出て数を増し、ファーティマの全身にまとわりつく。そして皮膚を食い荒らそうとした。
 だが女は動じない。眉を少しも動かさない。それどころか、ウジ虫達の動きも食っているふうでは無かった。何処か食べることに躊躇しているようだ。
「何をしてるのベルゼブブ!? こいつを食ってよ!」
 念話を通じて応答する。
『駄目だ姉ちゃん。こいつの皮膚は固すぎて食えねえ……。魔力量も物凄いし、まるで人間じゃねえみたいだ』
「人間じゃないの!?」
 サラはまさかとは思ったが、この女も精霊なのだろうか。布から覗く美しい白銀の髪。雪の様に白い肌が発する雰囲気は、聖女の名にふさわしい神聖さを持っている。だが先程の黒い霧は禍々しいもの以外感じられなかった。
 するとファーティマの体に驚くべき変化が訪れた。黒い何かが彼女の体を包み始めた。まるでそれは黒い水に体が沈んでゆくような、どこかへ消えてしまうような変化。そして黒が女を完全に包みこむと、そこには暗い影しか無かった。女は影に沈んだのだ。
 ありえない。そう思ったサラは影の落ちた地面にナイフを突きつけ、土を掘り返した。しかしそこには土があるだけで、誰が埋まっているわけでもない。
「影に消えるなんて……」
 サラは飛び出た内臓を腹に戻し、夕日を背にして立ち上がる。しかし次の瞬間、彼女は足元に落ちている4個のグレネードが炸裂する音を聞いた。

 疾走するバトラーとルミナス。サラがファーティマを捕らえた方向から、甲高い爆発音が聞こえた。
「彼女は無事でしょうか!?」ルミナスが全速力で走りながら叫ぶ。
「不死なので心配はありません。彼女が上手くやってくれてるといいのですが」
 前方に人だかりが見えた。バトラーが目を凝らすと、彼らはセルビア軍の兵士のようだ。二人は全速力で彼らの元に駆け寄る。これでルミナスの安全は確保された。息を切らせながらルミナスは状況を報告する。
「敵は一人で、女で、ヒジャブを着ている。非常に身軽のようですぐに姿を消すし、バトラーを軽く突き飛ばしてみせたわ」
 続いてバトラーも補足する。
「あれが人間とは思えない。あの手強さは悪魔じゃないかと疑うほどだ」
 兵士は驚愕する。バトラーが人間を超越した身体能力を持つということは周知の事実で、それを軽くいなしたとなると相当の猛者と言うことだ。そして彼の言うとおり人間ではないとすれば、人間である彼らが手におえる相手ではないだろう。ルミナスもそれは理解していた。
「人間の兵士は退避! 代わりに悪魔兵を呼びます!」
「了解しました。我々は職員の避難を補助しに行きます」
 兵士たちは命令に素直に従い、非戦闘員を護衛しに向かった。そしてルミナスは契約者であるヴァンに、念話による通信を試みた。
「ヴェーデルハイム、聞こえますか?」
『感度は良好だ。肝を冷やしたな、ルミナス』
「肝だけじゃなくて色々冷やしたわ。冗談はさておき、悪魔兵を向かわせてください。相手の力は人間のそれとは比べ物にならないようです」
『報告は聞いている。間もなくそこに部下が到着するはずだ。俺も同行しているから、お前たちは何としてでも耐えるんだ。間違っても死ぬようなことをするなよ』
 ルミナスの危機はヴァンの危機でもあるため、彼も心配しているような言葉を吐く。なんせルミナスが死んだら、彼は再びあの地下宮殿で新たな契約者を待つはめになるのだ。
 念話を終了し、二人は再び疾走する。肉鉄のドレスを試着した射撃場に到着すると、そこには無数の異形の者達が待ち構えており、二人は今度こそ安全な場所までたどり着いた。後ろを振り向いても追っ手はない。だがいつ現れるかも分からない。そして悪魔兵の集団の中から一人の男が出てくる。ヴァンがルミナスのために駆けつけてきていた。
「おい、敵は何処だ」
「神出鬼没よ。後ろにいたと思ったら前で待ち構えてたりする。貴方なら止められる?」
「俺が負けるかと? 愚問だな」
 ヴァンは自信たっぷりに答える。顔は何時になく歪んだ笑顔で、早く敵を殺したいとうずうずしている。だが敵は一向に現れない。爆発音が聞こえた以来、銃声の類は全く聞こえず、ファーティマの足取りはつかめていない。上空で監視しているガーゴイルからの報告も、常に『敵影見えず』の連絡ばかりだ。
 監視カメラの映像に写っているのも、ただひたすらに殺風景な基地の風景が写っているばかりだ。死角が全く無いとは言い切れないが、決して警備は手薄なものではない。むしろ厳重だ。なのにそれらしき姿は全く見えなかった。
 ヴァンはある可能性を導き出した。そのファーティマとやらが、人間ではないとすれば一体何か。もしも人間ではないとすれば、彼女は悪魔か、天使か、精霊だろう。彼の知る限り、それ以外の可能性はない。地球外生命体と言う可能性に関しては、ヴァンでも半信半疑だからだ。
「姿を表すが良い……我が要塞に無謀にも飛び込む、愚か者よ……」
 ヴァンがそうつぶやいた瞬間、彼は足元に違和感を覚えた。何かが足を掴んでいる。
 影から、手が伸びていたのだ。地面に落ちた影から、ヴァンの足首を掴み、引きずり込もうと手がのびる。辛うじてそれを振り払い、彼は腕を掴んで引き抜いた。すると腕から先、頭、胴体と見え、ファーティマが目の前に現れた。彼女は影から出てきたのだ。
「我が国、我が要塞にようこそ。どこぞの精霊か知らないが、一人で乗り込んできた度胸は認めてやろう。真っ当な余生を過ごすことは認められないがな」
「私はファーティマ。敬虔なるムスリム達の思いを蹂躙した、貴様等の罪は重い。よって、私が神罰の代行者となりて、貴様等を抹殺する。覚悟せよ糞野郎」
 ファーティマは両手をヴァンに掴まれて持ち上げられているのにも関わらず、強気の口調でヴァンを威嚇した。
 そこでヴァンは気がつく。布から覗く彼女の目元は、このような状況であってもピクリとも動かない。強気なルミナスでさえ、ヴァンにこの至近距離で睨まれれば怯むというのに、まるで全く動じていないかのようだ。
 それだけではない、彼女からとてつもなく強力な魔力と殺意が感じられる。その力は人間のものではない。何よりもヴァンは彼女を見ると、記憶の中から強い既視感を覚えたのだ。
 しかしここで思考は一時中断される。ファーティマは強い力でヴァンの拘束から逃れると、後方へバック転しながら後退し離脱、取り出した曲刀を構えると呪文を詠唱した。
『陰なる力を貪る不浄な者らよ、あるべき世界へあるべき姿となりて帰郷せよ』
 詠唱が完了した途端、悪魔兵の一人が彼の視界から消えた。何かが起きた。
 ヴァンは悪魔のいた筈の場所を見ると、そこには地面しか無い。空を見ても何が飛んでいるわけでもない。敵前逃亡するはずはないので、悪魔は文字通りその場所から消えてしまったのだ。
 一度や二度ではない。次々に悪魔たちは消えて行ってしまった。
「送還だと?」
 いつの間にか悪魔兵は全て消え、ヴァンとルミナスとバトラーだけが残った。
 妙だった。
 法術を含めた魔法の中には、悪魔や精霊をあるべき場所へ返す効果を持つものがある。それを送還魔法と言うが、大抵の送還魔法は極めて複雑なプロセスを経て実行されるため、そう連続的に、且つ短時間の間で複数の悪魔を送還することは出来ない。
 しかし、それは人間が使う言語で詠唱したらの話。別の、ある言語でならば可能だ。
 ヴァンは彼女の唱えた呪文の言語の、意味が手に取るように理解できている。理解出来るとはどういう事か。精通していると言う程度ではない、彼女はヴァンの母国語でもある『魔界言語』で呪文を詠唱していたのである。
 それを考慮し、彼は無線機で全部隊に指示をする。
「全隊へ連絡。ケースENHに変更。悪魔兵は装備Tで指定座標に集合、拘束封印解除陣描写を要請する」
 彼女は、悪魔だ。
 ヴァンは地面を蹴り、ファーティマに急接近。彼女はそれを尋常でない反応速度で回避するが、顔を覆っていたヒジャブを引きはがされてしまった。
 そして顕になる顔。ヴァンは再びその顔を見て、懐かしき同胞との再開を喜んだ。
「ああ……なんと懐かしい。我が同胞、我が部下、我が戦友のルシフェル=ナタス=イブリースよ」
 ルシフェル。それは天界から魔界へと堕天した、魔王に次いで恐れられる超高級悪魔である。
 人間からはサタンと同一視されているために、ルシフェルが魔王であると考えられているが、実際は魔王ヴェーデルハイムの部下である。1500年前の人間界侵略の際も、ヴァンが最も信頼の置く悪魔であった。
「何を言う、私はファーティマだ。堕天使ルシフェルなどではない」
「ルシフェル、やはり記憶を失っているのか? 誇り高き魔王ヴァン=ヴェーデルハイム=ヴェンデッタを忘れたと言うのか?」
「なるほど、貴様が全ての元凶か。天罰を与えてやる」
 ルシフェルはヴァンの言葉には耳を傾けず、曲刀を構えて襲いかかる。もはや影にまぎれることは無用と判断したのだろう。
 それに対してヴァンは両手を広げて見せた。手から銃は放り出され、彼は全身を無防備な状態にしたのだ。
 ルシフェルはお構いなしに襲いかかり、その刃を彼の体に深々と突き刺した。しかし、その程度の傷が魔王である彼にとって痛いものであるはずも無く、彼は彼女を見つめ続けている。
「1500年前、お前は私より一足先に勇者の一行に封印されたはずだ。記憶が無いということは、おそらく中途半端な拘束封印解除術式を使ったのだろう。だが安心しろ、私がお前を真の姿へと戻して見せる」
 ヴァンはそう言うと、ルシフェルの額に指を当て、高速に呪文を詠唱する。
『最外拘束封印解除術式、再履行開始。錠を外せ、拘束はいらぬ。世、恒久に平和なり。汝、もはや縛り付ける者あらず。我等、聖者の御言に従い、その者を開放することを、ここに了承せよ』
 ルシフェルの額、指の触れている箇所から黒い光が放たれた。空気の振動が砂煙を舞わせ、彼女の足枷となっていた無数の魔法陣が光となって具現化し、次々に悲鳴を上げて拡散していった。
 勇者がルシフェルにかけた拘束封印は、彼らの正義を受け継いだ意志を持っている。ヴァンはその意志に、拘束がもはや必要ではないと嘘をつき、自己崩壊を促している。これはヴァン自身が初代エンキュリオールに封印を解かれた時と、全く同じ方法である。
 砂利が飛び、鉄の板を貫通する。とてつもない力がルシフェルの中から沸き上がり、本来の姿を現そうとしていた。
 そう、彼は拘束封印を第2段階まで解除し、彼女に彼女自身が悪魔に変貌する様を見せようとしているのだ。
「……何をした。私に何をしたのだ。何を私にしたのだ?」
「鏡でも見るか? 自分の本当の姿を見せてやろう」
 ヴァンは指を軽く鳴らすと、極短い呪文を詠唱。ルシフェルの周囲に水晶の結晶を出現させた。
 それが鏡の役割を果たし、ルシフェルはそこに写る自分の姿を見ることになる。そして彼女は絶句した。
 そこに居たのは得体の知れない化物。焼けただれた様な皮膚におおわれ、所々にむき出しの内臓らしきものや骨が覗く。服と体の境界が曖昧になる。
 肩からは巨大なベージュの角が生え、手の爪は黒く変色していた。腕は右に2本、左には3本。足は無く、黒いジェル状の物体が地面から直接生えている。手に持っていた曲刀が体と同化している。全身に目と思われるものが無数に開き、彼女が瞬きをする度にそれも開閉した。
 しかし肩からは全身の醜さとは違う、天使のように白い翼が片方の背中に生えていたが、その羽根も良く見れば抜けて落ちていたりしてかなり傷んでいる。
 ルシフェルは自分の手を見て硬直する。そこにあるのは8本の指。両手をあわせて40。人間の物ではない。
「貴様、私を穢したな? そうなのだろう? そうなのでしょう? 覚悟してくださいマザーファッカー」
「そうだ、怒りを増幅させろ。全力で俺にかかってこい」
 ヴァンも同じく拘束封印を解除し、凶悪な悪魔の姿へと変貌する。さすがに人間の姿のままでは、拘束封印を解除したルシフェルを相手することは出来ない。
 片翼の堕天使は地面に指を当てて、鋭い爪の先で魔法陣を描いた。
 その魔法陣は幾何学的な図形の中に、人語ではない魔界言語が書かれている。本人は無意識の内に書いているようだが、本来ならばその言語は悪魔にしか使えない。
 ルシフェルが魔法陣を完成させると、ヴァンの周りに突如火柱が上がった。それはヴァンを取り囲むように発生し、退路を塞ぐように立ちはだかり、火勢をましてゆく。その様はまるで炎の嵐だ。
 しかし、そんなものはヴァンにとって温風マッサージでしかない。視界を悪くする位の効果しか無く、少しばかり燃える音がうるさいと感じた彼は、高速で呪文を詠唱して周囲の酸素および魔力を断ち、その炎を鎮火させた。
 そしてヴァンが反撃を試みた瞬間、ルシフェルは居たはずの場所からは姿を消し、彼の死角へと紛れ込んでいた。
 影から影への瞬間移動、それが彼女の持つ特殊能力。彼女は持ち得る力を駆使してヴァンを殺そうとする。
 だが、甘い。
 ヴァンは持っていた対物ライフルの銃口を死角だったはずの方向へ滑らせ、フルオート射撃をお見舞いした。
 目を覆うくらい激しいマズルフラッシュがルシフェルの視界を遮り、大口径劣化ウラン弾が分厚い皮膚を貫通。
 肉と思しき破片をコンクリートに散りばめながら、そのグロテスクな体は弾けた。
 しかし、見た目ほどルシフェルには効いていないようだ。彼女の皮膚はヴァンの強靭なそれとは真逆でジェル状であり、たとえ破壊してもすぐに修復されている。
 ふと気がつくとヴァンの脇腹に剣が刺さっていた。この分厚く鋼鉄さえも凌駕する強度を持つ、その皮膚に突き刺さっているのだ。彼は顔色一つ変えず、賞賛の言葉も口にしない。何故ならば、彼女はこれくらいのことが出来て当たり前なのだから。
 体が完全に再生したルシフェルは再び影に消えた。ヴァンは銃口を下ろし、その場で直立不動となる。
 光あるところ影あり。すなわち彼女は光が当たる殆ど全ての場所へ瞬間移動することが可能なので、彼が動いたところで無駄だ。だから彼は動かない。無意味なことはしない。むしろ楽しみにしている。ルシフェルがどのような手口で自分を殺しにかかるのかを想像すると、心の底から歓喜してしまう。
 それは正面に来た。ヴァンの影から飛び出してきたそれは、勢いに任せて彼の胸に剣を突き刺した。貫通。彼女はそのまま彼を地面に倒し、仰向けの状態で、地面に剣を突き刺すことによって身動きが取れないようにした。このまま剣に力を入れて上のほうへと滑らせてやれば、晴れてヴァンは真っ二つになる。真っ二つになればいくら魔王だろうと、自己再生する間は非常に大きな隙ができる。その間にルシフェルはルミナスを殺すだろう。彼女を殺せば、ヴァンの拘束封印の解除は無効となり、再び地下宮殿に幽閉されることになる。そんなこと、有ってはならない。
 だが、ルミナスは信じていた。彼がその歪んだ笑を絶やさない限り、彼は、決して負けない。
 何故なら彼は恐怖の大王だからだ。
「さようなら、悪の権化。ヴェーデルハイム」
「さようなら」
 ヴァンは別れの言葉を告げた。それと同時に、消えた。彼の体は地面に吸い込まれるように消えてしまった。忽然と姿を消したのだ。何故消えたのか、何処へ消えたのか、ルシフェルは突然の状況にも冷静に対応し、周囲を隈なく見回した。何処にも居ない。何処にも見えない。彼はまるでルシフェルが影に消えてしまうように、彼は消えてしまったのだ。そして索敵をするルシフェルの真下に、彼女のものとは思えない黒い影が広がった。黒い影は単なる影ではなく、溶けたタールのように黒く、べと付いている。
 すぐにルシフェルは、ここから離れなければならないと言うことを直感的に感じた。しかし、そう感じるよりも先にその黒い影は動いた。影が平面から立体になる。しかしそれは一瞬のことで、ルシフェルの周りには黒い霧の刃が浮遊している。刃は高速でルシフェルの周囲を飛び交い、彼女はその動きの中で完全に身動きが取れなくなった。脱出を試みる。四つん這いの体を体重移動し、前進しようとした次の瞬間、彼女の体に異変が起きた。
 四肢が、綺麗に分断された。
 胴体とは断絶した手足が地面に転がり、支えを失った胴体も同じくそこにひれ伏した。ルシフェルはあくまで無表情だが、危機を感じていないわけではない。拘束封印も再び有効となり、醜い体は人の姿になる。それはさらに醜くなる。これほどの傷を人間の姿の状態で追っていれば、再生は一瞬でと言うわけにもいかない。
 足掻く彼女を見下す一人の影があった。地面に広がっていた影はすでに無くなり、代わりに夕日を背にするように彼は彼女を見下していた。
「我は全智全能の魔王なり。お前に出来ることは俺にも出来るのだ。そんなことも忘れてしまったのか?」
 ヴァンは彼女の髪を鷲掴みにし、それを引っ張って胴体を持ち上げた。ルシフェルは身動きが取れない。
 それを待ち構えていたかのように周囲の建物の屋根から人影が現れる。彼らは一様に黒い翼と銃を持ち、それの照準をヴァンとルシフェルに向けて構えていた。
『魔法陣の型は4式拘束封印対応型、術式強度は特6級。半径10メートル、密度666。描画開始せよ』
 ヴァンが無線でそう指示した瞬間、彼らは銃をフルオート射撃でもって地面を撃った。
 しかし、あくまで照準は二人に向いていない。銃痕は二人の周りのみを走り続け、決して銃弾は当てなかった。
 銃痕が地面に曲線や直線を描き、複雑な図形を描画してゆく。
 線は非常に正確なものとなっており、20メートルも上空から離れてみてやれば、その精密さに圧倒される。
 人間には読めない魔界文字が線になぞって書かれ、あらゆる図形と記号に、人間の言葉に訳せば数千行はくだらない、非常に圧縮された意味が持たされる。
 銃声が止むと、ヴァンの周囲には巨大な銃痕の魔法陣が描かれた。
『記憶封印解除術式、詠唱開始。対象、ルシフェル=ナタス=イブリース』
 ルシフェルの瞳孔が開く。ヴァンは彼女を後ろからだき抱える形となり、彼女の顎を掴んで強制的に魔法陣の中心に顔を向かせた。開かれた瞳孔がさらに開き、瞳の中のもう一つの瞳まで浮き出た。
 瞬きも許されなかった。もがく事も許されなかった。1500年前に勇者の従者である「聖者アントニオ」によって掛けられた記憶封印が、文字情報として魔法陣に書き込まれることによって実体化してゆく。
 彼女の意識に、あらゆる全ての記憶が蘇ってゆく。それは彼女が、自分自身が何者なのかを思い出し、思考させ、肯定させ、確信させ、意識させた。
 記憶封印が解かれ、ガラスが砕けるような轟音がすると同時に魔法陣は火に包まれた。
 ヴァンが目の前に跪いた、四肢と記憶を取り戻したルシフェルに聞く。
「気分はどうだ?」
「最悪の気分です。干し肉はありませんか?」
 何の干し肉かは人の想像出来るところではない。

 時間はすでに18時をとうの昔に過ぎている。ルミナスの公務予定も大幅に狂い、アルメニアの大臣との会談はキャンセルされた。
 土壇場でこのようにキャンセルしてしまうのは決して良いことではないが、暗殺されそうになってそれどころでは無かったと大臣に連絡したところ、彼は声を大にして驚いていたと言う。
 後にルミナスに直接電話して安否を確認したらしく、幸いにして悪いようには思われていないようだった。むしろルミナスが平然と自分が暗殺されそうになったことを話していることに恐怖すら感じていた。そして記憶を取り戻したルシフェルは、例によってベオグラード城で匿うこととなり、命を狙われたルミナスには複雑な心境があった。
「改めて紹介しよう。俺の信頼の置く部下、ルシフェル=ナタス=イブリースだ」
 ルミナス達は基地を後にし、ベオグラード城へ帰宅していた。そこで初めてまともな説明が行われる。
「初めまして、エンキュリオール。私はルシフェル。傲慢を司る悪魔です。先程まで記憶を失っていたようで、貴方にはとても素敵な体験をさせてしまったようですね」
「素敵ではありません。貴方の攻撃によってどれだけの犠牲者が出たかお分かりですか? 二度とやらないで欲しいものです」
「駄目ですよ、あまり怒ってはいけません。ただでさえ醜い顔がトロール並になりますよ」
 ルミナスは血管が切れたような音を聞いた。生まれてこの方、可愛いや美しいとしか言われてこなかった彼女を、醜い怪物に見えると言ったのだ。百歩譲って外見をどうこう言うのは許すとしても、明らかにルミナスが憤慨しているというのにこの悪魔が平気で人を罵ったことには、どうしても許せないものがあった。
 彼女の顔は引き攣り続ける。
「ルシフェル、幾ら何でも酷すぎるぞ。彼女と比べるなどトロールに失礼だ」
 ヴァンは楽しそうに笑いながら、続けてルミナスを嘲笑する。ルミナスはもはや文句を言うのを諦めてしまった。
「まあルミナスの顔のことは置いておいて、ルシフェルは知っての通りの大悪魔だ。1500年前の件で勇者たちに一足早く封印されてしまったから、伝承の方では殆ど伝えられていないがな」
「確かに伝承では主に貴方と勇者のことしか聞きませんね。しかし……私が見る限りでは、外見はまるで天使のような神々しさがありますね。拘束封印を解除した時も、翼は白い羽でした」
 基地での戦いを思い出す。ルシフェルが拘束封印を解除した時の姿はたしかに禍々しかったが、痛んではいたものの、白く美しい翼は印象的であった。そして人の時の姿はこの世のものとは思えないほど美しく、まるで宗教画の天使をそのまま立体化したような姿だ。誰もがこれを邪悪なものだとは想像出来ない。
 そこで彼女の疑問に答えるべく、側に居たバトラーが口を挟んだ。
「ルシフェルは元々天界の住人。いわゆる天使の中でも上流階級である、大天使ルシフェルとして有名でした」
「元・天使? 堕天使と言うことですか?」
「我々からすれば”堕ちる”と言う表現は正確ではありません。天界と魔界の関係は人間界で言う国家間の関係に似ています」
 二つの世界には大まかに分けて二つの種族がいる。人間の不幸を糧とする悪魔と、幸を糧とする天使だ。
 人間は悪魔の働きによって苦しめられ、人間はその苦しみから逃れるために神に救いを求める。両種族が人間をひたすらに幸せにしたり不幸にしたりすると、その対象としての人間の取り合いとなるのではないかという問題が考えられるが、そこはこの世界がうまく出来ているところである。
 もしも悪魔が人間を過剰に苦しめた場合、追い込まれた人間は自殺するか、他人を殺すだろう。それがエスカレートしていけば人類種が滅亡するハルマゲドンに繋がり兼ねない。種芋まで食べるようなものだ。
 それに対して、もしも天使が人を幸せにしすぎたら、人はその幸せに慣れてしまい、神の救いを必要としなくなる。だから適度に人を痛めつける存在が必要不可欠だ。
 悪魔あっての天使、天使があっての悪魔。このようなある種の食物連鎖から、両種族の利害は一致しているために、二つの世界間の関係は良好なものだ。だから天使が魔界に旅行にいくこともあるし、逆もまた然りである。人間の言う堕天とは、国籍を変えて食生活も変える程度の話である。
「明日から礼拝をやめようかしら」
 ルミナスは聞きたくない話を聞いてしまったと、心底後悔した。
 彼女がため息をつくと同時に、ヴァンが口を開く。
「と、言うわけでルシフェルの紹介は済んだな。これからはこの城の住人となるわけだし、お互い仲良くな」
「ヴェーデルハイム様。こんな乳牛と一つ屋根の下で暮らすならば、私は外に居たいと思います」
 再び血管が切れる音がした。本当に切れたわけではないが、堪忍袋の尾は切れかかっている。
「牛は牛でも、こいつは良く訓練された牛だ。ここも慣れれば快適だぞ。それに、こいつの匂いは最高に食欲をそそるんだ……。実に良い”付け合せ”になるぞ?」
 ヴァンがルミナスを見ながらそう呟く。喉を鳴らして唾を飲む。自分をそんな風に見ていたのかとショックを受ける一方、そう思いながらも食べようとしないことに、わずかながら配慮があったことに安心した。
 だが、唾を飲む音はもう片方からも聞こえた。
「これは……」ルシフェルがルミナスに詰め寄る。
 顎を手で持ち上げる。そして目を見る。上から順番に見ていく。ふっくらとして淡いピンク色の頬、透明感のある水水しい唇、掴めば折れそうな細い首、大きく豊かな胸、細すぎないがたるみも無い二の腕と、柔らかそうな臀部。放つ香りはポルトガルワインのごとき甘さだが、頬を舐めると生ハムにも似た塩気と香りがある。
 一言で言えば極上の素材だ。
「先程から良い香りがすると思えば、これは素晴らしい……。生かしておくには勿体無い代物です。生でもいけますが、ここは塩漬けでも良いかもしれませんね。いや、生が最良の選択か?」
「私は食べ物ではありません!」と、ルミナスがルシフェルを突き放して言う。
「黙りなさい食材。あなたが主張していいのは味だけよホルスタイン女」
 そこでヴァンが止めに入る。
「ルミナスを食うのは無しだ。そいつの後継者が出たら考えてもいいが、今はまだ用が有る。そんなに人が食べたいのなら用意してやろう」
 ヴァンが指を鳴らす。するとテーブルの上に幾何学的魔法陣が描画され、光の柱が上がった。
 光が徐々に消えてゆくと、中から手足をロープで縛られた男が現れる。ルシフェルの使った瞬間転移魔法の一種で、男は牢獄から転送されてきたのだ。男の風貌は全身をベージュの布で包んだような、中東地区ではよく見かける姿の人間だ。
「今日、空港の検査で引っかかった男だ。我が国に対する悪意を察知したらしく、捕まえて調べてみるとスーツケースの中いっぱいに”パイナップル”が詰まっていたそうだが、心あたりがあるだろう?」
 ルシフェルが男を見る。対して男も彼女を見ると、ガムテープで塞がれた口を必死に動かそうとした。彼女はそれを引き剥がし、側に転送されていた鞄の中身を見て、それが”パイナップル”であることを確認する。
 男は切羽詰った様子でルシフェルに訴える。
「ファーティマ様! これは一体どういう事なのですか!?」
「たしか、貴方は私のために国内へ爆弾を運んでいた人ですね。覚えていますよ」
「神の使いでは無かったのですか? 我々は貴方を信じてここまでやってこれたのに、あなたは、あなたは!」
 もがく男。手足が縛られているために前に進むことができず、思い切り前のめりに倒れる。ルシフェルはその男の髪の毛を鷲掴にし、頬を舌で舐めた。
 彼女の舌はアリクイのように細く長いもので、ねっとりとした唾液が滴る。ルミナスを舐めたときには分泌しなかった強酸性の唾液は、男の皮膚から煙を上げさせ、悲鳴がテーブルの上から上がる。
「ふむ……泥臭いけど及第点。香草とナッツ詰めがベターか」
 するとルシフェルはなれた手つきで男の口をナプキンで塞ぎ、首根っこを鷲掴みにしてみせる。
「バトラー、とか言いいましたっけ。厨房は何処にある?」
「そのドアを出て左に行ったところですが……、何をしようと?」
「厨房で何をするのかと聞くとは。勿論料理に決まってます。夕食はまだなのでしょう?」
 ルシフェルは男を引きずりながら厨房へと歩いてゆく。彼女は魔王の最も信頼する部下であると同時に、魔界屈指の料理研究家として知られていたことを、バトラーは思い出した。
 これは期待できそうだと一瞬思ったが、一つ問題があることに気がつく。彼女は今から料理をすると言って厨房に行ったが、一体何の料理をするかと考えたところ、余りに都合の悪い事実に行き着く。
 ヴァンは「食材を用意する」と言った。ルシフェルは捕まえた男を味見した上で、厨房へ引きずり込んだ。
 答は一つである。バトラーは全速力でルシフェルを追った。

 厨房には王族着きの料理人達が、本日の夕食の準備を行っている。アルメニア大臣との会談がキャンセルされたためにせっかく用意した夕食が冷めてしまったため、それらは従業員が美味しくいただいた後、女王のためにまた夕食を作り直している。会食のための料理ではないために、それほど凝った料理を作っているわけではないが、それでも彼らは女王により美味しく栄養バランスの良い食事を提供しようと意気込んでいる。
 緊張感あふれる厨房。そこは食の何たるかを追求した者たちの聖地、あるいは縄張り。そんな所に本来聞こえるはずの無いような声が飛び込んできたときはもう、料理人達を目を丸くして驚いた。
 ナプキンを口に詰められた男が、殆ど酸欠の状態で叫び、濡れたタイルの床を引きずられてくる。それの首をつかんでいる女は薄汚い服を着ているが、顔だけは天使だ。顔だけ見ていれば天使だが、行為はSMプレイである。縄で縛られた男を片手で持ち上げると、調理台の上に叩きつけた。その後ろから全速力でバトラーが走ってきて、ルシフェルの肩を掴んで言い放つ。
「どういうつもりだ。ここが何処だか解っているのか?」
 ルシフェルは周りを見回し、自分の体を確認する。彼女は何かを解釈したが、バトラーの意図とはまったく別の解釈をしたようだ。
「ああ、私としたことが。ここではこの格好は似つかわしくありませんね」
 ルシフェルは魔界言語で素早く詠唱した後、薄汚い服を黒い霧に包み、それを白を基調した使用人の服へと様変わりさせた。城内の女性使用人の服とはデザインが全く違って、清楚さよりかスーツにも似たスタイリッシュさがある。これで近くにあったエプロンを身にまとうと、彼女はバトラーに問うた。
「衛生上は問題ありません。ところで包丁は何処です?」
「そうじゃない! ここは人間用の料理をするための厨房だ。人間を料理するなら別の場所でやってくれ。以前ここでそれを料理した馬鹿が居たが、3ヶ月は臓物の匂いが取れなかったんだ」
 しかしルシフェルは動じない。むしろバトラーを見下すような目で自信満々の反論をした。ちなみにその馬鹿というのは例によってヴァンとメフィストである。
「私はプロです。匂いの移らないような調理を行います」
「仮にそれができたとしてもだ。他の従業員が姫様のために料理を作っているなかで、人体解剖ショーを開かれたらどうなるか想像してみろ。ほら、あたり一面が嘔吐物のプールだ!」
 ルシフェルは一瞬考える素振りを見せたあとに口を聞く。
「むしろ歓迎です。魔界には嘔吐物で作られたソースと小腸を絡めた料理があってですね――」
 バトラーは諦めた。彼女にはバトラーの言葉は全く届いていない。あるいは届いていたとしても、それをことごとく無視しているだろう。このままでは前述の通り嘔吐物のプールとなる。これを解決するには、この厨房から人間を出て行かせる必要がある。どうせ作るのはルミナスひとり分の食事なので、バトラー一人でも十分に用意できるだろう。そう考えた彼は厨房のコック達にその旨を伝え、彼らにはもう休んでもらうことにした。
 堕天使が二人の厨房。ある意味貴重な時間となることは間違いない。
「さて、まずは首を落とします」
 ルシフェルはナタのように重く幅広の包丁を取り出し、躊躇なく男の首に振り下ろした。身動きが取れずにもがいていた男は、自分の首を飛ばされた途端に大人しくなり、時折痙攣するように動く程度になる。だがその痙攣も作業の障害になるため、さらに脳髄から伸びる脊柱を、細身の鋭利な包丁で丁寧に取り出す。前身の筋肉から力が抜ける影響で腸内及び膀胱の排泄物が出るのを防ぐため、出てくる穴に紙を詰め、陰茎はひもで縛る。次に男の体を仰向けにし、肋骨の真ん中を砕いて胸を切り開く。そこから肺、胃腸、膀胱などを素手で傷つけないよう掻き出すように取り出し、バトラーの要望通り匂いの強烈な胃腸・排泄器官はビニール袋に詰める。流しにその人間の血液で魔法陣を書き、臭いがつかないようにするための魔法をかける。それをした上で、もぬけの殻になった男の体を洗浄する。排水口には赤い水が流れこむ。
 続いて皮を剥ぐ。人間の体毛はその細さにしては非常に固く、これを取り除いておかないと食感は悪い。綺麗に剥ぐためには真皮に魔力を流して細胞を破壊し、表皮と真皮の結合をもろくして毛根ごと取り去る。ベスディーロイヤ魔術のエキシビジョニズム皮剥術の威力を弱めたようなもので、その魔法をかけたあとは足先の皮膚を引っ張ってやれば、服を脱がすように皮を剥ぐことができる。これで人体を調理するための下準備は終了した。
 それを見ていたバトラーは冷や汗をかきつつも感心をしている。
「……かつて人々から絶対的な尊敬をあつめていたという大天使長セラフィム=ルシフェルが、今は人の肉をさばいているとは。一体何があったというのでしょうかね」
「私は同僚と折り合いがつかなかったり、天界の社会に飽きて魔界に移住しました。それで悪魔となり、人を食べたところ、なかなか美味しかったという話です。そういう貴方も羽根を無くしてこの地に居るようですが」
「私も同じく、天界の生活に飽きた身です。今はここで一人の人間に仕え、つかの間のバカンスに興じています」
 ルシフェルは包丁を止めて、視線をバトラーに向ける。
「貴方、名前は?」
「私の名前はバトラーですよ」
「”執事”なんてふざけた名前ですね。元・天使ならばアンゲロスやらウリエルやらの名前があるでしょう?」
 天使にとって名前は重要である。彼らの名前には役職と階級を意味するものが含まれており、名前さえ判れば天界でどのような立場にいたのかをすぐに想像することが出来る。例えばルシフェルが天使だった時のヒエラルキー『セラフィム』は熾天使を意味し、全ての天使をまとめる最上位の位であることが伺える。
 だがバトラーは自分のことを話さなかった。ヴァンならば知っているのかもしれないが、問題は彼が名前を偽る理由が考えられないということだった。
「非情に気持が悪いのです。得体のしれない同族ほど薄気味悪いものはありません」
 バトラーはその言葉を無視し、フライパンで熱した油にスライスしたニンニクを入れた。同時に彼は口を開く。
「鉄の心臓を持ち、青銅の心を持つ者。このような喩えをされたことがあります」
 ルシフェルはその言葉を聞いた瞬間、スープをかき混ぜるお玉を動かすことを止めた。その言葉は余りにも強烈な意味を持ち、バトラーの”正体”が彼女にとっても信じがたいものであった。
 しかし彼女は納得がいかない。何故彼程の者が人間に仕えるという極めてくだらないことに興じているのか、ますます見えてこない。できる事なら真意を知りたいルシフェルであったが、恐らく彼はこれ以上を話さないだろう。
「そのことをヴェーデルハイム様は知っているのですか?」
「もちろん。彼は私が言わなくとも、出会った時には知っていたようです」
「あの人間、ルミナスとやらには?」
「彼女は時が来るまで知ることはないでしょう。そう、時が来るまで……」
 バトラーは包丁のリズムを一定に、消して乱すこと無く維持している。

 厨房から運ばれてきた料理は、とても食欲をそそる香りを発散しながらテーブルに並ぶ。ルミナスの目の前にはバトラーが、ヴァンの前にはルシフェルが皿を置く。後から食器類が並べられた。どれも食欲を誘う香りと彩りで、ルシフェルの料理も材料と調理工程さえ知らなければ人間でもうなりそうだ。
 バトラーが持ってきたのはデミグラスソースのかけられた豚肉のソテー。マッシュポテトも添えられており、赤ワインは地下のワインセラーから持ってきたブルゴーニュワイン。手間こそ掛かっているものの、それぞれの材料は高級なものなど何一つ使っておらず、ワインも特に上級という訳でもない。
「いつもながら素晴らしい料理ねバトラー。毎日感謝しています」
「礼には及びません。冷めないうちにお召し上がり下さい」
 ルミナスがナイフで食べやすいサイズに豚肉を切り分けた後、フォークでそれを口に運ぶ。特製のデミグラスソースのまろやかさとともに、豚肉の甘みと、ほのかな生姜の風味が来る。飛び上がるほど美味しいというわけではなく、毎日食べても飽きないような絶妙な味付けが、フォークに乗せるマッシュポテトの量を増やす。
 バトラーが飛び上がるほど美味しい料理が作れないわけではない。彼は日々の栄養バランス、ルミナスの健康状態、何よりも飽きないことに重点をおいているのだ。
 彼は料理人である以前に、女王の執事である。主のあらゆる世話をし、時には危険から守る存在だ。この料理にはその彼のスタンスが味として出ている。だけどもルミナスの幸せな時間をぶち壊す存在が、テーブルを挟んだ向かいで食事をしている。その光景は凄惨たるものだった。
「ヴェーデルハイム様。本日は私をお救いいただいた記念とし、腕によりをかけたこの料理を捧げます」
「ご苦労。ところでこれは何だ?」
「はい、本日のメニューは右脳と左脳のペーストで作ったムースと、脊髄を圧力釜で煮込んでダシを取ったスープ。メインディッシュは腹筋のステーキを脳漿ソースでお召し上がりください。ワインはスロバキア産のアイスワインでございます」
 清涼感あふれるガラスの皿に、薄いピンク色をしたムースがある。それは人間の脳をペースト状にした後、型に流し込んて蒸したものだ。ヴァンはそれを銀のスプーンですくい、アイスクリームを食べるように口に運ぶ。
 ヴァンは笑った。いつものような邪悪な笑いではなく、どこか安らぎを覚えたような柔らかい笑み。
「美味しい」と彼は一言、それだけをつぶやいた。
 次に手を伸ばしたのは脊髄のスープ。赤黒い、妙にとろみのあるスープには白い軟骨が浮いている。ヴァンはそれをスプーンで口に含み、また安らかな表情を浮かべる。腹筋のステーキを食するとき、一緒に皿の上に乗せられた眼球を手に取り、それを握りつぶして内容物を降りかける。透明な液体と血液のような何かが滴る。その光景は凄惨たるものだ。見た目はルミナスでも喉を唸らせるように見えてしまうものだが、その材料が何かを知っている限り、湧いてくるのは食欲ではなく吐き気だ。ルミナスは吐き気に耐えながら食事を続ける。だけども料理の味を理解できるのは、日頃の訓練のおかげだ。ヴァンが彼女の目の前で人肉を頬張ることは、それ程珍しいものではないからだ。
 その様子を見たルシフェルは素直に感心する。
「食人を目の前にして吐かない人間を初めて見ました。さすが主人が認めた人間だけはあるようですね」
「伊達に悪魔と衣食住共にしてません。どうです? これで貴方も私を認めてくださる?」
「私の股ぐらを嘗めたら考えてあげなくもなくてよ」
 再び脳漿が沸騰しそうなほどの怒りを覚えたルミナスだが、グラスのワインを一気飲みして心の平静を保った。2人のやりとりを見ながら楽しそうに食事をするヴァン。同じくワインを飲み干した後、彼は話の本題に入ることにする。
「さて、腹も膨れたところで話をしようじゃないか。ルシフェルは1500年前に勇者一行の生臭坊主に封印されたそうだが、一体誰がその封印を解いたのだ?」
「パレスチナに本拠地を置くイスラム系武装組織『アイン・ハー・ラーア』のリーダー、その名を『アル=フワーリズミー』といいます」
「アイン・ハー・ラーアのアル=フワーリズミー。最近インターネットのニュースで聞いたことのある名前だな」
 ルミナスが口を挟む。「先月に中国のウイグル自治区が独立しましたよね。その際にアイン・ハー・ラーアが示威攻撃として、北京で大規模な爆弾テロを行ったという記事ですよ。私も見ました」
 先月はそのニュースで各国の報道機関が盛り上がっていた。中国のイスラム教徒が主に居住しているウイグル自治区が、突如アイン・ハー・ラーアを名乗る武装集団を中心として武装蜂起というものだ。通称アインは中国政府に対し、ウイグル自治区の独立を認めるよう求め、拒否されれば北京市内に設置された数千個の爆弾を起爆するという脅迫を叩きつける。しかし、爆弾数万個というはったりにも近い脅しは、政府側にとって信憑性の薄いものであり、中国政府は事態を軽視していた。
 だがそれが仇となった。アインは中国政府に対して分からせてやるために、設置された爆弾の半分を起爆してみせた。市内数万ヶ所で爆発が発生し、多くの人々が瓦礫の下敷きとなり、ガスは引火して街は火の海となる。アインは要求が飲まれ、独立の手続きもろもろが終わるまで爆弾を起爆し続けると発表。中国政府は逆らう術を失い、独立の要求を飲むこととなった。
 ルシフェルは続ける。「フワーリズミーは知性に溢れ、信仰深い。そして道徳を欠いている。ウイグル自治区の武装蜂起も彼が計画したもので、私はあくまでも実行部隊の先頭で戦っていただけだった。ムスリムたちは私が悪魔だとも知らずにファーティマと称え、記憶を失っていた私はそれに答えていた。フワーリズミーも同じく、私を天使だと思い込んでいる」
「まあ、お前を天使だと思い込む奴は今までも腐るほど居ただろう。なんとなくアイン・ハー・ラーアが行っている活動は把握できたが、何故彼らが我々に牙を向けたのかはいまいち良く解らないな。RHKは様々な紛争地帯に派兵しているから、何かと因縁をつけられるのは承知しているんだが」
「最近、イスラエル政府との契約をされましたよね?」
 ヴァンは頷く。ほんの数週間前の話だった。
 中国とはまた遠く離れた中近東の国、イスラエルの政府は領内に「パレスチナ暫定自治区」という爆弾を抱えていることは有名だが、最近になってその話題が再燃し始めたのだ。2007年にレバノンでの武力衝突以来、さほど大きな衝突は無かったのだが、最近になってパレスチナ自治区の政党「ハマース」の武闘派が東エルサレムの奪還に乗り出したのを皮切りに、武力衝突が各地で勃発した。そのハマースの武闘派というのがアインであり、ルシフェルが絡んでいることは時期的にも明らかだ。
 ハマースは少し前までパレスチナで最も高い支持率を得ていたが、最近の世界経済危機の影響か、支持される所以である社会福祉の政策が揺らぎ始めた。そこでもう一つの政党「ファタハ」が力を付けていた。ファタハはPLOを前身とする政党であり、イスラム主義を掲げるハマスと異なり、宗教的には寛容だ。この二つの政党が実質内戦状態にあり、現在のパレスチナ自治政府は未曾有の混乱に陥っている。イスラエル政府軍はこれをきっかけに、自治区の完全な領有権獲得のための行動に出た。長く続いたこの争いも、経済状況の悪化を防ぐためにも、いい加減に終止符を打ちたがっているのだ。そのために大規模な増兵を行うのだが、コストパフォーマンスで優れるRHKにも協力の要請がされた。
「ハマースの一派であるアインとしてもRHKの参加は望ましくありません。ですのでRHKの派兵を取り消させるために、フワーリズミーはセルビア王国のRHK会長であるルミナスを誘拐する計画を立てました」
「一国の代表を人質とするとは、そのフワーリズミーという男は見上げた根性の持ち主だな。同時に敬虔だ」
「しかし、彼の目的は他にあります。彼はそれ程敬虔ではありません」
 深い意味を持った言葉だった。経験なイスラム教徒であるフワーリズミーが何故テロに走るのかといえば、それは自信の宗教的思想に基づくものに違いない。迫害されるムスリムを開放するためであったり、聖地を取り戻すためであったりするわけだ。
 なのに、敬虔ではないはどういう事だろうか。ヴァンはそこが不可解だった。
「彼は、自身が預言者になることを望んでいます」
「預言者だと? ムハンマドにでもなるつもりなのか?」
「はい。彼は神の使いと遭遇し、啓示を受け、パレスチナを神の国として成立させようとしています」
 イスラム教において、ムハンマドは神の啓示を受けた教祖であり預言者であり、そしてアラビア半島を統一してイスラム帝国の礎を築いた人物である。
 神の啓示を聞きたいと願う人間は多いだろう。彼らは救いを求めるから、悩める時に道筋を提示して欲しいと思うだろう。だがそのフワーリズミーという男は違うようだった。
 預言者、すなわちより教祖に近い役割を持つ人物を目指しているというのだ。これはすなわち新たなる信仰の教祖となる手段にほかならない。それを1勢力がやろうとしているというのは、大変恐ろしいことだ。
「まあ、その野望も今日で終了だ。なんせ天使だと思っていた奴は悪魔だったのだから、啓示なんて受けられないからな」
「いえ、彼らはもう一つの切り札を持っています。天使に会えないなら呼べばいいのです」
 ヴァンは目を細めた。鋭い魔眼がさらに鋭利になり、ルシフェルを見つめた。彼女はとんでも無いことを口にしているのだ。
 天使に会えないなら呼べば良い。その言葉が意味するものは、天使を天界から召喚するということだ。
「ありえん、天使の召喚術式は人間にとっては複雑怪奇で、人間がまともに使えるものじゃない。仮に使えたとしても大規模な建造物を必要とし、広大な面積に精密な文字によって術式を書き込む必要がある。どうやって呼ぶというのだ?」
「東エルサレム旧市街にある3宗教の重要施設、嘆きの壁・聖墳墓教会・岩のドームの建造物には塗装などで隠された呪文が書かれており、全てが魔法的意味を持っています。数百年前からその呪文は各宗派の僧侶によって書かれ続けており、先日、遂に術式を完成させたのです」
「アブラハムの天使召喚術式なんて面倒なものを良くやろうと思ったものだ。しかし、それが成功するとなれば我々も黙っているわけにはいかない。フワーリズミーはその術式をいつ頃開始する予定なんだ?」
「今日は何日でしょうか?」
 ヴァンは壁に掛けられた日めくりカレンダーを指差す。ルシフェルはそれを見たあとに時計に目を移す。そして眉をひそめた。
「式自体は先月完成しています。既に開始されたはずです。いや……既に終了しているかもしれません」
 ヴァンはその言葉を聞くやいなや、携帯電話を取り出して電話をかけた。番号は777、魔王のみが使用できる天界への直通ナンバーである。応答したのはコールセンターの天使であり、ヴァンは要件を告げるとすぐに電話を変わってもらった。
 そう、彼である。
『私は在る』
 電話に出た彼はそれだけを口にした。イカレていない人間であればこのように電話にでないが、彼は多くを語らずして自分のことを表せる存在である。
 彼は全智全能。人々は彼の名を直接は呼ばないが、願うときは必ず彼の名を呼ぶだろう。それほどまでに重要な存在であり、あらゆる信仰の中心に在る者。魔界とは対極の世界を統治する、天使たちの長である。
「YHVH、久しぶりだな。元気にしてたか?」
『ヴェーデルハイムか!? 私は最高にエンジョイしているぞ。お前こそ人間界での生活を楽しんでいるか?』
「勿論だとも。それにしても周りが騒がしいな、また天界に居ないだろ?」
『ベガスだよ、ベガス。さっきスロットで大当たりした金でポーカーを楽しんでいたんだが、余りに強運過ぎてロイヤルストレートフラッシュが連発してな、先程カジノからつまみ出されたところだ。今はホテルで姉ちゃんとお楽しみ中だ」
 神はラスベガスで豪遊中のようだった。親しいものはYHVHと呼ぶ彼は頻繁に視察名義で人間界に降り立ち、このように下界でのバカンスを楽しんでいる。ヴァンも昔は良くYHVHと遊びに行ったものだが、最近はヴァンが封印されているのもあってご無沙汰である、といってもここ数ヶ月の話。だが今日の人間界は1500年前に比べても圧倒的に娯楽が増えたため、YHVHのバカンスへ出かける数は激増していた。
『まあ、お前が電話を掛けるというと仕事関係か遊びのどちらかしか無いわけだが、後者の方ならベガスに来れば済む話だ。身元不明の女なら食べ放題だぞ』
「人間なら先程食ったところだ。折り入って聞きたいことがあるのだが、最近天界から行方不明者が出たりしなかったか?」
『最近も何も今連絡が入ったぞ。天使降臨の術式を何処かのアホが行ったようで、住人1人が人間界に強制召喚されたらしい。ヒエラルキーは最下位のアンゲロスだが、天使であることに変わりはない。人間等に認知されるのは芳しくないな』
 ベストタイミングである。時期、設備、人員すべての条件が満たされている。こんなご時世に天使降臨の術式を行う馬鹿はまず居ないので、消えた天使がフワーリズミーの元に居るのはほぼ確実だ。
 彼一人が天使を目にするのならばまだ良い。問題はそれを多くの信者、大衆に向けて見せてしまうことだ。もしも2枚の羽を持つ天使を公衆の面前に晒してしまえば、天使の存在は多くの人間に認知されることになる。それによってより多くの信者を集めることが出来るかもしれないが、現代人が素直に天使を信じるはずがないのだ。考えられる事態としては貴重な研究用のサンプルとして捕獲されるか、何処かの宗教団体が悪魔だとか言い出して殺されかねない。逆に熱心な宗教家は天使の存在を目の当たりにして、一勢力がそれを独占することを好としないだろう。それらは一例として、今まで想像上の存在だと思われていた天使が、突然現れたらろくなことにならなことは明白だ。
「よし、では私が天使を救出してみせよう。ちょうど現場に向かう用事が出来たものでな」
『それはありがたいな、こちらとしても必要な支援はさせてもらうよ。おっと、シャワーから出てきたみたいだ。じゃあよろしく頼むよ』
 YHVHは電話を切った。同時にヴァンは奇妙な笑い声を上げる。
「実に、実に面白くなってきた。来週よりRHKエンプレス・ソード隊はイスラエルに向かい、現地の派遣部隊と合流する。ルミナスはイスラエル政府にその旨を伝え、派兵の手続きに入ってくれ」
「増兵するのですか? そうなるとイスラエル政府からの契約金に対して予算が足りないと思われますが……」
「間もなくパレスチナは中近東で最もホットな場所になる。それに備えてというのも理由としてあるが、これはある種の世界の危機と言っても良い。今回のミッションが失敗すれば、世界の宗教構造が一変するかもな」
 一変する、それはつまり革命である。その革命はアブラハムの宗教であるユダヤ・イスラム・キリスト教の根底にある「神」という存在に触れることであり、これをある一派が独占することは決して許されない。何故ならそれは自らの宗教観を破壊されかねないからだ。
 イスラエル、パレスチナ自治区は3宗教の聖地である。その地はまさに地獄と化そうとしていた。
「”ゲヘナ”に天使を助けに行くぞ」