ep3

 車窓から覗く流れる景色は銀幕の世界。しんしんと降りつもる雪は大地を覆い、木々は雪だるまになったかのようにメタボリックな体形へと様変わりしていた。
 深い森の中を一列の列車が走っている。車体は相当な年期もののようで所々に錆が付き、レールの継ぎ目を通るたびにきしむような音を立てる。
 ロシア連邦、サンクトペテルブルクから平日に2本、カレリア共和国首都ペトロザヴォーツクに向かう、休日は1本あればいいような配線寸前の路線。仮にもロシア第2位の都市から都市に伸びるこの路線は利用者も少なく、車内に人は疎らだった。
 人々の吐く息は白い。暖房がかかっているわけでもなく、毛布をかぶって居なければ凍死するのではないかと思うくらい、車内の気温は非常に低かった。
 席についている二人の影。片方の少女は分厚い毛布をかぶり、白い息を吐いている。しかし、もう一人の少女は暖かそうな毛皮のコートを着込んではいるものの、吐く息は白くなかった。水分が含まれていないのだ。
「寒そうね、フランシスカ。まったく人間は不便ね」
「……そうだね」
 その二人、フランシスカとメフィストは、向かい合うブロック席に座っていた。
 席の間には旅行用のスーツケースとコンバースの鞄、長期滞在用の用意がしてある。
 二人がわざわざロシアのカレリアに向かっているのには理由がある。ヴァンから特別な任務を受けたためだ。
 先日のホワイティストによるオルギアンパブ襲撃事件。その後拘束した魔法使いに対して行った拷問によって、さまざまな情報を引き出すことができた。自白魔法剤まで使用する有様だったが。
 彼らの目的はオルギアンパブの破壊、そして予想通り不死細胞調査資料の奪取だった。
 何処から来たのかに対しては特に吐こうとしなかったが、自白剤の使用によってロシア国籍であることが判明し、さらに魔法使いに関してはロシアにある魔法学校の生徒であることも分かった。それと同時に、驚くべき事実が明らかとなった。
 彼らの入国の許可と武器の調達にはロシア大使館が関与していたというのだ。これは対ロシア外交において大いなる危機となりかねない。そこでセルビア王国政府が大使館に問い合わせてみたところ、少しばかり変わった返答が返ってきた。
 我々は一切の関与を否定するが、事件の詳細を求む。そういう微妙な解答と質問を表明したのだ。
 これにはある程度理解できる要因がある。実はロシア連邦軍は秘密裏に、殺傷力に優れる黒魔術の軍事利用を積極的に行っており、これに対して国内の白魔術師協会が猛烈な反発をしているからだ。
 今までは軍に魔法技術を提供することの嫌がる魔術宗派が多かったし、そもそも魔法の複雑な実行プロセスが軍事利用をためらわせていたのだが、最近はリデルファミリアのように「現代戦闘魔術」という志向が表れたことによってロシアも採用に踏み切ったのだろう。
 それと同時に最近のロシア政局の変化も関わっている。ロシア連邦は基本的に民主主義の国であることをうたってはいるものの、現大統領の推し進める徹底的な情報統制と反米プロパガンダから、むしろ共産主義に回帰しているのではないかとも言われている。
 そのため白魔術師協会の反発も、ある程度は力によって押さえつけられる状況だ。
 しかし、一つだけ押さえつけられない狂犬のような集団があった。それがホワイティストである。
 過去に魔女狩りが行われた際に、黒・白問わず魔法使いたちは正教会の広まっているヨーロッパの東へと移っていった経緯があり、ロシアにはそれの名残で魔法使いたちが多く存在している。それはつまり、ホワイティストの勢力も強大であるということだ。
 ホワイティストの過激なテロ行為はロシア国内で頻発しており、白と黒の共学で有名なロシア国立カレリア魔法学校の設立時にも大きな騒乱があったという。
 ロシア警察の捜査当局も、血眼になってホワイティストの捜索に打ち込んでいるらしい。
 そこで、セルビア王国政府はロシア政府に対してある提案を持ちかける。今年、ロシアのサンクトペテルブルクで行われるシナゴーグサミットの警備と、ホワイティストの情報収集にRHKを動員するというものだ。
 実はホワイティストの構成員を生きたまま拘束したのはセルビアが初めてで、RHKは対ホワイティストとして優秀であることを示したようなものだった。
 半政府半民間という微妙な立場にあるRHKの調査員派遣は、ロシア政府がテロに関与したかどうかの真意を確かめると共に、ホワイティスト構成員が潜伏していると思しきロシア国立カレリア魔法学校内での情報収集ができるという、まさにセルビア・ロシア双方にとって一石二鳥となる妙案である。
 そこで派遣されたRHKの調査員というのが、フランシスカとメフィストである。
 彼女等はこれから山奥深くにあるというロシア国立カレリア魔法学校に向い、生徒として潜入するのだ。
 悪魔であるメフィストは、頭に生えていた角と尻尾を幻術で隠し、人間であるかのように装っている。魔力も人型を取っている限り制限されているし、一見しても彼女が悪魔だとわかる人間は居ないだろう。
「ヴェーデルハイム様の命令だから仕方ないけど、人間が山ほどいる中で生活すると考えるとマジ憂鬱なんだけど」
「……よかったね」
「よかないわよ。大体あんただって白魔術師に目つけられてんだから、ちょっとは不安になりなさいよ」
「別に。小うるさい餓鬼は……殴って黙らせればいいって聞いたから」
「アリスの受け売り? 別に間違っちゃいないけど、この任務中はやめた方がいいね」
 二人は悪魔と人間とは思えないように仲良く話し、笑い、語り合っていた。別にお互いヴァンとルミナスのように対等な契約を結んでいるわけではないが、何となくそんな間柄になっている。
 そんなこんなで時間は経ち、列車は終点の駅にたどり着いた。しかし、駅のホームからはぞくぞくと人が乗車し、車内のシートに座ってゆくではないか。
 この列車は折り返しでまたサンクトペテルブルクに向かう予定だが、そんなのはあと数時間後の話だ。
 だけども乗客は増えてゆく。その乗客に共通して言えるのは、誰もが同じようなローブと制服を着ているということだ。
「魔法学校は近いわね」
「もしかして……この人たちは魔法学校の学生……?」
「たぶんそうじゃない? 大体終点に着いたばっかりの列車に乗る人間なんて、ここじゃあこいつ等しか思いつかないじゃん」
 実はこの駅が本当の終点ではない。この先は許可された者のみが行くことを許可される特別路線で、終点は魔法学校の校舎前にあるのだ。
 ロシア国立カレリア魔法学校は今日から新年度が始まり、多くの在校生と新入生達がこの列車に乗って校舎へと向かう。中には教師と思しき大人も交じっており、魔法使いだらけになった車内の雰囲気は一気に様変わりしてしまった。そして駅員の鳴らす笛と同時に列車のドアは閉められ、ゆっくりと動き出す。
 列車はすぐにトンネルへ突入した。フランシスカは結界の反応を察知する。やはり部外者の侵入を防ぐために結界が、トンネル入り口に設けられていたようだ。
 銀幕の世界が閉じ、暗黒の世界に包まれる。そして、再び光が差し込んだ。
 車窓から広がる世界は相変わらず一面の積雪だが、雪は止んでいて快晴の空模様。トンネルを抜けて一山越えれば天候がまるで違うというのは良くあることだが、何よりも違うのは一つ寂しくそびえたつ巨大な建造物だった。
 古いロシアの建築様式で建てられた城塞都市。周りを深い針葉樹林で囲ったそれは、正しく外界とは隔てられているという表現がぴったりな場所だ。そう、まさしくそこがロシア国立カレリア魔法学校である。
 ふとメフィストが学生たちを眺めていると、一人の少年に目が止まった。
「ねえフランシスカ、あの人間はなかなかの美少年だと思わない?」
 フランシスカがメフィストの指差した方向に目をやると、限りなく銀に近い金髪の少年が座っていた。
 眼は北方スラブ系の典型的な淡い蒼。色白で、髪には強いウェーブが掛っていて、顔立ちはモデルかと思うくらい整っていた。座っているため正確には測らないが、身長はフランシスカよりわずかに高いくらい。
 絵にかいたような美少年だ。
 体は若干華奢な感じがするが、漂う魔力は中々の強度である。持っている杖も暗緑色のアレキサンドライトが埋め込まれた高級モデルであり、そこそこの富裕層であると同時に、白魔術宗派の「ナロードナヤ魔術」の魔法使いであることがわかった。
「魔法使いとしての能力も良さそう。顔も悪くない……、どうよフランシスカ」
「……何が?」
「恋のお相手としてよ」
「興味無い」
 フランシスカは全く興味を示さなかったようだ。しかし次の瞬間、偶然にも彼女とその少年との視線が交差した。するとその少年は全く驚いたような顔をしながら、多少の焦りを見せて視線を遠ざけた。
 彼女は何事もなかったかのように魔術書の続きを読み始める。

 駅に到着した生徒達は、真っ先に自分たちがこれから生活してゆく学生寮に荷物を置いて身支度を整える。
 学生寮も相当な年期物ではあるが汚くはなく、中世ロシア帝国時代を匂わせる部屋の作りが印象的だ。
 しかしそれでも何度か改修されたような個所が見受けられ、空調機の室外機や、インターネットにつなぐLANポートは常設され、ある程度の近代化が施されている。ちなみにテレビは小さなブラウン管だった。
 だが部屋は基本的に男女別4人の相部屋で、テレビは一人で占有できそうにない。
 フランシスカはこの部屋に文句は特になかった。自宅もごく質素な作りであるということもあるが、彼女は基本的に衣食住足りていればいいようなタイプの人間である。だがメフィストは普段からベオグラード城の一室で好き勝手な暮らしをしていることもあり、テレビはシャープ製の液晶でなければ嫌だ、などと文句を言っている。
 二人はある程度荷物をまとめると学校の制服に着替え、指定のローブをはおった。
 そしてちょうど校内放送が入り、新学期の全校集会が開かれることを告げた。寮の生徒は一斉に部屋を出て、長い螺旋階段を降りながら大講堂へ向かった。
 数分後、大講堂は大勢の生徒と教員で埋め尽くされ、生徒は用意されたパイプ椅子に着席するように指示を受ける。やがて全体は静寂なムードに包まれ、全校集会が開始された。
「これよりロシア魔法学校、新年度の全校集会、及び入学式を始めます」
 会はいたって退屈なものだった。長々とやつれた校長の話を聞き、生徒指導部から生活態度や魔法使用に関する注意などの注意がある。同時に入学式も兼ねているために、新規入学者の呼名も行われた。
 フランシスカが実際に在籍しているズレニャニン秘密魔法学校の集会と何ら変わりない物だ。
 しかし、その退屈な空気を打ち破る出来事が発生する。それは新たに移動してきた教師の紹介だった。
「では次に新しい先生のご紹介です。どうぞ壇上にお願いします」
 階段を皮靴が歩く音がする。そのリズムはどこか不安を仰ぐように不安定で、走っているのか歩いているのか、それともスキップしているんじゃないかと思うような変なリズムだ。
 壇上に上がった一人の影は異様な風貌をしていた。他の教師たちはローブをはおったり、いかにもと言った感じの三角帽子だったりと、まさに魔法使いという格好ばかりしている。しかし、彼は違った。全身をフォーマルなスーツで黒く染め、帽子などは被らずにその紫色の長髪を王冠のような髪留めでまとめている。二人からしたら実に見覚えのある顔だった。
「今日からこの学校で教えさせていただくヨシップ=ブロズです。魔術応用を担当させていただきます。これから皆さんと共に勉強していきたいと思っているので、どうぞ気軽に声をかけてくださいね」
 過去のユーゴスラビア指導者の名前を語る彼は、服装が違うだけでまぎれもなく魔王ヴァン=ヴェーデルハイム=ヴェンデッタだった。顔なんかは特に眼鏡をかけている以外そのままだが、歪んでいない笑顔に潜むものを想像するだけでフランシスカは強烈な違和感に襲われるのだった。
 メフィストが「ヴェーデルハイム様!」と叫ぶ前にフランシスカが彼女の口を押さえ、なんとか静止させる。
 二人はヴァンも学校に潜入してくることなどは知らなかった。全く予想外の出来事だ。
 しかも女生徒達は黄色い声をあげて彼に見とれている。無理もない。老人老婆、よくて中年の教師しかいないようなこの魔法学校で、20代位の若くてカッコいい男性教師が赴任してくることは思ってもみなかったことだろう。
 男子生徒も驚きを隠せない。
 しかしそんな中、フランシスカの視界に奇妙な人物が写った。一人だけ壇上に立つヴァンに大口を開けて驚くオーバーリアクションな男子生徒がいた。
 電車内で見たあの美少年だった。
 まさか、とフランシスカは思った。電車内では気がつかなかったが、まさか見ているそれが悪魔かどうかがわかってしまう人なのではないかと。
 魔王ヴェーデルハイムとなればその魔力量は膨大、かなり敏感な人であれば気がつく可能性は捨て切れない。
 少なくともあの反応は普通ではない。驚きではなく、恐怖を感じている。
 フランシスカが彼のことを不審に思い始めるには、至極真っ当な材料だった。

 集会が終わった後、二人は自室へ戻る。するとそこにはもう2人のルームメイトが到着していた。
「あっ、あなた達が噂の転校生ね?」
「……そう」
「おおおおっ、謎の美少女転校生とは君のことでしたかっ」
 二人のルームメイトが好奇心旺盛に反応してくる。予想の範囲を超えない、普通の反応だ。
「私はマイヤ=ブレジネフ。ピーテル出身。そして隣のは……」
「オレーシャ、オレーシャ=エルモレンコ。あたしはモスクワ生まれだよ。二人はどこから来たの? 確か留学生だったよね」
 二人は特にためらいもなく答える。セルビアからの留学生ということになっているし、実際フランシスカはそのようなものだ。
「フランシスカ……フランシスカ=ヘクセン……」
「メフィル=ファウスト。あたしたちはセルビア王国から来たんだ」
 マイヤとオレーシャはクエスチョンマークを絵にかいたような表情をした。どうやらセルビア王国が何処なのかわからないらしい。世界史の勉強をしていればある程度わかってもいいものだが、今は何も有名なことがないので知らないと言われればそれまでだろう。おまけにセルビアで最も広まっているベスディーロイヤ魔術は隠匿されているので、相当高位な魔術師でなければ知らないだろう。
「バルカン半島……南東ヨーロッパに位置する……旧ユーゴスラビア」
「あーあー、ユーゴスラビアが分裂したところね。へぇー、王国だったんだ」
 どうも王国というところで引っ掛かっていたらしい。社会主義国から王国に乗り換えた国はなかなか無いだろう。
 乗り換えたというより、元に戻ったの方が正しいが。
 自己紹介が済んだあとは他愛ない会話と共に趣味や趣向の質問を受け、何気なく時間が過ぎてゆくのだろう。
 フランシスカはそう予想していたのだが、次に聞かれたことは少しばかり変わったものだった。
 いや、むしろ自然な問だった。
「ところでさ、黒……だよね?」
「……黒? 白魔術か黒魔術か……?」
「ほら、白と黒って過去の因縁がどうとかで仲が悪いでしょ? 学長は白黒融和をうたってはいるけど、実際のところ対立は生徒間でも少なからずあるのよね」
「私達は一向に構わないんだけど、近くに別宗派がいるだけで嫌がる人が多くてね。寮も東棟は黒、西棟は白魔術師って感じで部屋のテリトリーが決まってるの」
 何も変わっていなかった。誰もが自分と違う存在を恐れ、過去のしがらみから何も抜け出せず、いがみ合い続ける魔法使いの派閥。ズレニャニンにもここまで明確には存在しなかったが、少なからずそのような派閥対立はあった。魔女狩りから続く憎しみの連鎖は未だ断ち切れていない。一般的な表の世界では魔法使いなど居るか居ないか疑問視されるような存在であるため、そこには何の偏見もないと言っていいだろう。しかし、数十年前まではそうではなく、文化の発達した都市部から離れる農村部あたりでは差別の対象であった。
 白なのか黒なのかなど関係ない。魔法が使える「魔法使い」であれば畏怖の対象となり、一度俗世に出れば神に仇名す者として忌み嫌われ、商売もできなければ働くこともできない。彼らは人間として扱われず、女は特に慰み物として重宝した。ベスディーロイヤのような実際に藁箒にまたがって空を飛ぶ魔法宗派はあるが、一般人が抱く魔女が箒にまたがって空を飛ぶイメージは、魔女が娼婦として”棒にまたがる様”が元になって広まったようなものだ。
 普通の精神であれば自殺をしてもおかしくない状況でも、彼らは必死に生きて今のような時代がある。
 しかし、彼らが苦境を乗り切ってきた背景には、ある思いが根幹に根ざしている。それが黒魔術に対しての憎しみだった。
 魔法使いの親から子へ語り継ぐ、悪い黒魔術師を正義の白魔術師が倒す物語。まさにロシア政府もやっている反米教育のような、反黒魔術プロパガンダこそが彼らの精神を支えてきたのだ。ファンタジー小説に出てくるような魔法使いなど、たった一握りの存在にすぎない。
 先祖代々受け継がれた恨みは、そう簡単に払拭できるものではない。
「西棟に行ったら殺されそうね」メフィストがつぶやく。
「さすがに殺されはしないだろうけど、確実に嫌がらせは受けるから注意してね。校則で生徒同士の私闘は禁止されてるから、もしも嫌がらせを受けたとしても反撃も無し」
「白の人が東棟に来たら?」
「今までそんな人見たことないけど、別に普通にしてたらいいと思う。拒絶してるのはあっちの方だしね」
「それもそうね」
「ごめんね。まあ、こんな湿ったい話題は置いておいて……」
 その後彼女等は留学生である二人に学校のくだらないローカルルールの説明や、怖い先生の話、購買の人気商品の話と、いたって学生らしい話題で盛り上がった。フランシスカは相変わらず口数が少ないためテンションは低めだが、メフィストに関してはその会話に合わせて陽気に反応している。しかし内心は「生意気なガキだな」とか、「食ってしまおうか」などと思っているあたり性質が悪い。
 フランシスカはいつボロが出るかと気が気じゃなかった。

 翌日から本格的な学校生活が始まった。二人は第3学年に留学生として組み込まれる手はずになっている。
 よりによって初日から魔術応用。つまり担当があのヴァンならぬブロズ先生というわけで、二人は教室に入る前に彼と話をしていた。
「おはよう、留学生諸君」
「おはようございますヴェーデルハイム先生、今日も凛々しいお姿を拝見させていただき、このメフィストは歓喜であります」
「俺はヴェーデルハイム先生じゃない。ブロズ先生だ」
「はい、ブロズ先生。ハイセンスな偽名素敵ですわ」
 何事も形から入ることが重要だと考えているヴァンは、教科書とノートパソコン片手に眼鏡に中指をかけている。
 ステレオタイプではあるが、まるで有名進学校のエリート大学出教師のようだ。メフィストはそんな彼の姿に目を輝かせている。
 そしてこの機会にフランシスカは、全校集会から思っていた疑問を彼にぶつけることにした。
「……なぜここに?」
 全くその通りの疑問だった。何故彼とあろうものが単なる情報収集にわざわざ赴くのか、フランシスカにはその理由がいまいち思いつかなかった。先日、オルギアンパブを襲撃した魔術師はここの生徒であり、情報を収集するのに最も効率的だと思われるのは生徒として潜入することだろう。何故なら今回の事件はここの教師陣も把握していなかった出来事であり、生徒間で秘密裏にことが進められていたと推測されるからだ。
 もちろんこれは推測にすぎないのだが、とにかくヴァンが教師として潜入し派手に登場するような場面じゃない。
「居てはまずいか? 私も少しは学園生活を味わってみたかったんだが」
「いえ……特に問題はありませんが……」
「確かにここに教師として潜入しても得られるものは少ない。しかし、今回の事件にロシア大使館が関わっていたという情報がある限り、セルビア国内からの調査では限界がある。お前たち以外にもセルビアからの調査員は派遣されている。我々も外交上の懸案事項を、一人の小娘と小悪魔に委ねる訳にもいかんだろう?」
 ヴァンはメフィストの頭に手を乗せて、優しくなでてあげる。それに対してメフィストはくすぐったい様な猫なで声をあげた。顔の筋肉は緩みきっている。
「別にお前たちを過小評価しているわけではない。普通に授業を受け、普通の魔法学校生であることを装い、逐次情報を伝達してくれ。小難しい詳細な調査と裏付けは他の調査員が担当する」
 フランシスカは無言で頷くと、ヴァンに撫でられて幸せな放心状態になっているメフィストの額を、箒の柄で軽く叩いた。メフィストは正気を取り戻し、解けかけた幻術を再びかけなおした。
 教室に入ると大勢の生徒が机に座っている。ヴァンはまず教卓に立ち、自分の自己紹介を済ませた。
 そして留学生であるフランシスカとメフィストにも、自己紹介をするように指示する。
「今日から皆さんと勉強するフランシスカとメフィルだ。どうぞ仲良くしてあげてくれ」
 二人は軽く自己紹介をする。クラスの人間は興味深々の反応を示し、その中にはルームメイトの二人も居た。
 ヴァンは二人に空いている席に座るように言う。教室は巨大な黒板に向かって机が段を作るように配置され、前の席に人が座っていても邪魔ならない立体的な構造をしていた。プロジェクターも設置されており、学ぶ環境としては十分な設備だろう。
 ちょうど席はルームメイトの二人の隣に2人分空いていて、一応はクラスに早くなじめるよう配慮されているようだ。ちなみにここでは一見しても分からないが、席は白でも黒でも分け隔てない配置になっている。
 さすがに寮では区分けすることができるものの、教室ではそうもいかない。教員も白と黒の友好を望んでいるからだ。
 二人は空いている席に向かう。メフィストがルームメイトの二人に笑顔を作った。
 メフィストがルームメイトの隣に座ったため、フランシスカは必然的に隣の人が知らない人となるわけだが、彼女はその隣の人を見た瞬間少しばかり驚いた。
 ここでまたも偶然、いや運がいいことにと言うべきか、フランシスカが座ろうとした席の隣には集会で不審に思っていた、あの少年が座っていた。
「あっ……」少年は思わず声を出す。
 フランシスカは表情にも声にも出さず驚いており、その少年もまた驚いているようだ。あっけにとられたかのような顔をしている。彼女は早速彼に質問して真相を突き止めたかったが、なにぶん話すことが苦手であり、おまけに相手は黒魔術を嫌っているかもしれない白魔術師だ。
 あまりに気軽に話しかけてはまずいし、そもそも話しかけることができない。だが、思わぬ展開で活路が開ける。
 彼から彼女に話しかけてきたのだ。
「きっ……きみ、留学生だったんだね。ほら、列車の中で向かいに座ってたでしょ」
「……………………」フランシスカは予想外の展開に言葉が思いつかない。
「僕はミロン、ミロン=アファナシエフ。ナロードナヤの白魔術師だけど、非差別主義者だから警戒しないでいいよ」
「……ふーん」
 ミロンは少々ぎこちない笑顔を浮かべて、口調もわずかながら緊張しているように聞こえる。別宗派とはいえそこまで緊張する理由は解らないが、とにかく彼は彼は緊張していた。
「い、いやー留学生二人に新しい教師まで同時に来るなんて驚いたよ」
「……」フランシスカは相変わらず無言で、ミロンの顔をじっと見続けている。
 対するミロンもこれ以上何を話しかけたらいいのか解らなくなり、二人の間には微妙な空気が漂いだす。
「ごめん、気易く話しかけて……」
 このままではいけない、彼女はそう思っていた。恥ずかしがり屋で軽く人見知りなところのある彼女にとって、最初の会話というのはとてもぎこちなくなる。しかも言動からして、ミロンもそんなところがあるようだ。
 何か話しかけなければ会話が続かない、それでは彼のことも知ることはできない。フランシスカはそう思って、口を開く決心をした。
「そんなこと……ない」
「えっ?」
「私は……フランシスカ=ヘクセン。よろしく……」
 フランシスカがそう返すと、ミロンはとても嬉しそうな笑顔を浮かべた。悪魔や薬物中毒者には見られない、とても純粋な笑顔が眩しかった。
 しかし次の瞬間、ヴァンが「授業を始める、静かにしろ」などと言うものだから会話は続けられなくなった。
 最悪のタイミングではあるが、これでまた次に話す機会があるだろう。
 それ以降二人は黙ったまま時間を過ごすことになる。いつの間にかヴァンも教科書を開いて軽い授業を始めており、教室内は至って静かな雰囲気に包まれる。新任の先生がする初授業ということもあるが、基本的に生徒はまじめである。しかしその雰囲気の裏では、醜悪な争いが生じていた。
 淡々と進められる授業にしびれを切らせたのかは判らないが、一人の生徒がミロンに向かって消しゴムのかすを投げる。それに続くように他の生徒も投げ、彼の後ろの生徒に至っては魔法で水玉を作り出し頭に向かって落としている。
 何処かで見たような光景、”虐め”だった。
 学校機関である限り集団生活を余儀なくされ、何処でも少なからずそれは存在する。だが魔法学校というのはその中でも特殊なもので、一人一人は何処かの魔術宗派に必ず属している。つまり、大抵虐めの対象となるのは異端者、すなわち黒魔術師だ。白魔術師が黒魔術師を虐めるのだ。
 だが今は違う。不思議なのは嫌がらせの対象が、白魔術師だと名乗ったミロンであることだ。
 やがて所々から影口のような話声が聞こえてくる。その影口は、明らかに彼に対しての侮辱だった。
 その内容は単純だ。クラスの白魔術師達は、彼が黒魔術師であるフランシスカに、親しく話しかけたことが気に入らないようだった。
「……」フランシスカは黙って見ているしかなかった。止めようものなら嫌がらせの対象が自分に代わるだろうし、だからといって反撃するわけにもいかない。後ろの白魔術師のように水玉を発生させるようなくだらない魔術などは知らず、ちょっとした魔法で懲らしめることも叶わない。
 この時ばかりは殺すしか能のない自分の魔術を呪った。
 ミロンの笑顔は、いつの間にか消え去っていた。だけどフランシスカではどうすることもできず、その苦しそうな顔を眺めていることしかできずに居る。
 しばらくするとヴァンはこの雰囲気が気に入らないのか、非常につまらなそうな表情を浮かべ、教科書を勢いよく閉じてしまう。生徒達が一瞬だがざわついた。
「まったく、この教科書にはろくなことが書いてないな。白だの黒だの、本質的には同じようなことをしているのにどうにかして差別化しようとしている著者の意図が丸見えだ。よし、今日から私の授業は教科書は使わん」
 教室内が騒がしくなった。日頃から年老いた教師達による、アグレッシブでも何でもない授業に慣れてしまっているのもあるが、何よりヴァンの言った事の対しての発言がそうさせたのだ。
 ヴァンは教卓に閉じた教科書を放り投げ、チョークを持って黒板に魔法陣を描きだした。描き方からするに黒板全体を埋め尽くすほど巨大なものだが、彼は高速且つ正確無比に描画してゆく。生徒達はあまりに優れた彼の魔法陣に静まり返り、呆然と見つめていた。
 彼はその巨大な魔法陣を描き終わると、持っていたチョークを、ミロンの後ろから魔法で嫌がらせをしていた生徒が持っている木の触媒に投げつけて弾き飛ばした。
「そこの暇そうな君。この魔法陣は何だか知っているか?」
「えっ……、えぇーと……そうだ、アイルランドに伝わる古い魔術、『ケルト魔術』の『ヤドリギの舞空術』を使用するための準備魔法陣です」
 ヴァンはさらにつまらなそうな顔を浮かべる。答えられないことを期待していたが、案外優等生だった。
「くだらない魔法で遊んでいた割にはよく勉強しているな。そう、これは白魔術宗派の一派であるケルト魔術の魔法陣だ。このままではよくわからないが、実はこの魔法陣はある法則にしたがって書き換えると、とある魔術の魔法陣と瓜二つな魔法陣に変形する。ではまずこのケルト語文字をゴール語文字に置き換え……」
 ヴァンは描かれた魔法陣を黒板消しとチョークを巧みに操り、一定の法則にしたがって改変してゆく。最初は見たこともないような目茶苦茶な物だったが、作業が進むにつれ教室内のざわつきが大きくなってゆくのがわかる。それはすなわち、その魔法陣はありえないと思っていた変化をしているのだ。
「最後に線分を黄金比で直角に折り曲げ、よし、完成だ。最初の魔法陣とは共通する点はあまりないが、説明しながら書き換えたから一定の法則で変形していたことはわかると思う。この魔法陣が何であるか答えられるものは手を挙げろ」
 すると手はすぐに挙がった。フランシスカが挙げたようで、彼女は席からゆっくりと立ち上がって答える。
 その解答は驚くべきものだった。
「ガリア……黒魔術」
 教室が騒然とした。
 無理もない、今まで授業でも習ったことがなければ、魔法学者でさえ検討していなかった学説がそこに証明されてしまったのだ。さすがに千の時を生きている魔王は知っていることが違う。
 現代において魔術というのはさまざまな宗派が存在するが、その多くがある一つの呪術をルーツとして存在すると言われている。あらゆる武術と同じように、地方や民族によって流派があるのは当然のことである。
 だが、今まで否定され続けてきた説がある。それは白魔術から黒魔術への分岐だった。
「魔術への恐怖が一般の民衆を魔女狩りに狩り立たせたことは一般に知られていることだが、そのあと白魔術師は一方的に迫害され続けたという説には少々穴がある。普通に考えてみろ、不当な扱いを受け続けているものが、何もせずただひたすらに耐えていられると思うか?」
「先生、いったいそれはどういうことですか」生徒が質問する。
「簡単なことだ。反旗を翻すために、より攻撃的な魔術を研究しだすのさ。自衛のために迫害する者を殺し、実験台にし、魔物と契約してでも自分たちを追い詰めた元凶である黒魔術への復讐を誓った。やっていることは黒魔術の何ら変わりはないのに、自分たちこそ善だと言いながらな」
 教室中が静まりかえる。さっきよりも騒音は無く、もはや無音に近い状態だった。
「お前たちは何も変わらない、同じ魔術師だ。自分たちだけが被害者であるという帰属意識が、異端を廃絶しようとする行為につながり、結局は魔女狩りと同じことをしようとしていることに気がつくべきだ」
 ヴァンはそうやって力説すると、机に放り投げた教科書をまとめて帰り支度をし始めた。まだ授業終了まで時間があるのだが、これ以上やっても何も学べないと彼は感じたのだ。教師のまねごとなど所詮潜入任務のカモフラージュに過ぎないが、あまりに愚かすぎる人間を見て呆れ果ててしまった。いくら魔王といえど、やる気は無尽蔵ではない。
「全員、明日の授業までに2千字以上のレポートを提出しろ。テーマは何でもいい、魔法について自分の思うところを書け。出席番号24、13、9、30番は追加で3千字書いて提出だ。あと……」
 ヴァンがその鋭い瞳をミロンに向ける。彼は一瞬にして背筋が凍る感覚を覚えた。
「留学生2人と出席番号10番は後で私の研究室に来い。話がある」
 フランシスカとメフィストはお互いに顔を見合せ、ミロンは目を丸くした。潜入捜査の二人はいいとして、何故にミロンがヴァンに呼ばれる必要があるのだろうか。いや、ヴァンも気がついたのかもしれない。彼が何やら只者ではない雰囲気をかもしだしていることと、そのファミリーネームに聞き覚えあるようなことを。

 ヴァンの研究室はいたって簡素だった。
 鉄とビニールの机に、アルミフレームの本棚。魔術書も数えるほどしか無く、魔法研究者にしてはすっきりとした部屋をしている。だが本当の目的はスパイまがいのことであるし、何にせよ新任の教師であるということでそれは気にならなかった。しかもここは他の教師等は使用していない旧研究棟であり、人の気配は他に全くない。
 しかしここで気まずい空気を存分に吸っている者が居た。ミロンがヴァンの目の前で、椅子に座っているのだ。
 ヴァンは彼の瞳をじっと見つめながら、その中から何かを見出そうとしている。しかし、見られ続けているミロンからすればその行為は意味不明であり、ただひたすらに訳の解らない時間が過ぎてゆく。
 数分の沈黙を破り、痺れを切らしたミロンは口を開いた。
「あの、何か僕に話があるんですよね」
 それに返すようにヴァンは僅かに歪んだ笑みを返す。嫌な表情だった。
「聞きたいことがあるのは、君の方だろう。ミロン=アファナシエフ」
 ミロンは何やら真剣な表情を浮かべている。フランシスカが集会のときに見たあの表情と言い、仲間の反感を買うというリスクを負ってまで黒魔術師に話しかけるところと言い、彼は普通の少年ではないようだ。
 すると彼は思いがけない行動に出た。フランシスカでさえ反応できないような速度で、椅子から素早く立ち上がり杖を構えたのだ。その輝くアレキサンドライト宝玉を、ヴァンの眼前に向けながら。
 メフィストも懐から拳銃を取り出そうとしたが、迂闊に行動すればこちらの本性が明かされてしまう。フランシスカもそれは同じで、魔法を使う体勢を取れずにいた。
「僕の目はごまかせませんよ、この悪魔め! 人の姿を取っていれば見破られないとでも思いましたか」
「ほう……」
 ヴァンはこんな状況でも感心するように頷いている。対してミロンの表情は嘘偽りのない、ただただ真剣な表情をしている。しかし、それは徐々に揺らいでゆくこととなる。
「人をたぶらかす悪魔が学校に何の用だ。僕がこの手で成敗してくれる!」
「ほうほう、それでそれで?」
 ヴァンがミロンに凍りつくような視線を送り続けている。あまりの恐怖に彼は最初の勢いから見事に失速し、今では持っている杖も震える始末だ。彼の表情も真剣と言うよりか、底知れぬ恐怖を目の当たりにしているような、とにかく青ざめていくのは目に見えてわかった。
「仮に悪魔である私がこの学校に用があったとして、君は私をどうしようというのだ?」
 ミロンは震える腕を押さえつけようと、杖を持つ腕に一層の力を込める。そしてもう片方の手を複雑な手順で動かし、動作呪文を完成させた。すると杖の先につけられたアレキサンドライト宝玉が青緑色の強い光を放ち、それが一筋の閃光となってヴァンに襲いかかった。だが動作呪文を指で動かし始めた時点でヴァンはその魔法を見切っていたため、まるで闘牛士のようにひらりと体を横にそらせて回避する。そしてそのまま流れるように体勢を変え、ミロンの背後に回り、持っている杖に手をかけるとそれで首を絞めた。
 身動きが取れない彼の耳元にヴァンが口を近づけ、ささやく。
「君は、私を、どうしようと、いうんだ?」
 ヴァンは杖を奪い取り、すぐさま解放した。そしてせき込むミロンを横目に、再び椅子に腰かける。フランシスカとメフィストも一旦は緊張を解き、この緊迫した状況は終息を迎えるのであった。
「君が私をどうしようと構わんが、敵かどうかもわからない相手に中途半端な殺意を向けるんじゃない。強い魔力を視覚化できる君が見たとおり、私は人間ではない。だが怖がることは無い、とにかく話をしようじゃないか」
「話……だって?」
 苦しそうにせき込んでいた彼もやがて息を整え、冷静になるためにも再び椅子に座った。ヴァンはこの場のパワーバランスを見かけ上均一にするため、ミロンに奪った杖を返す。彼は驚いた様子でそれを受け取ったが、これで話ができる空気が出来上がった。
 正体を見破られたヴァンはすぐさま自己紹介した。もちろんそれには考えがあってのことで、今回の潜入任務に魔法学校の事情に詳しい元々の生徒であるミロンを引き込みたかったからだ。もちろん彼に断られる可能性もあったのだが、今この部屋で行われた”面接”によってその心配もなさそうだった。
 得体のしれない侵入者から自らの学び舎を守ろうとする、正義感に裏打ちされた大いなる勇気。彼の瞳をよく観察すれば、魔王ヴェーデルハイムにとってそれを察知することは造作もないことである。
 ヴァンは自分の名前と目的、そして留学生二人もセルビアからの調査員の一員であることを話す。セルビアの魔術関連施設がホワイティストの攻撃を受けたこと、裏でロシア大使館が関連していたこと、ホワイティストの一人がこの魔法学校の生徒であったこと。これらを聞いたミロンは驚いたが、特にヴァンの名前を聞いた時の反応はさらに激しかった。彼は古の勇者王伝説を詳細に知っており、魔王ヴェーデルハイムの名前も知っていからだ。
 博識なミロンに感心する。
「そんな……ホワイティストだなんて。僕等は何も進歩していないのか」
「進歩していないと憂うならば協力してほしい。テロリストがこの学校に潜伏しているとなれば、これからのロシア魔法界の未来は決して明るくはないだろう」
「悪魔に言われるのも癪ですが、確かに僕は白と黒の対立なんて望んでいません。皆が仲良く出来るように僕が手助けできるのであれば、協力しない理由は無いですよね……」
 悪魔に痛いところを言いたい放題されて、ミロンは少し落ち込んだようなそぶりを見せる。
「で、何か知っていることは無いか?」
「上級生とOBの間で胡散臭い噂があります。OBが結成した白魔術振興会なる組織が、ある基準で選ばれた優秀な生徒に高性能な魔法触媒を配布しているらしいです」
「振興会の存在は調査済みだ、経済的不利のある生徒達に高額な魔法器具を格安で販売する組織だろう? 高性能触媒が配布されたと見られる生徒に関しても調査している。だが問題の高性能触媒は発見されなかったという報告だったぞ。これはどういうことだ」
「僕の単なる憶測ですけど、その触媒は普段見えないところに身につけているんじゃないですかね。大体、あなた方はホワイティスト構成員の魔術師を捕まえたんでしょう? 触媒はその時に手に入らなかったんですか?」
「我々悪魔は人間の魔力を視覚化することができるが、それらしき物は見つからなかった。強力な魔力を帯びた物体があれば、それを見つけるのは難しいことではないはずなんだがな。魔力を遮断できれば話は別だが」
「魔力を遮断……できますよ。そうだ、その魔法は存在します!」
 ミロンは何か閃いたかのように椅子から立ち上がり、部屋中を見回し始めた。
「水はありますか?」
「ペットボトルのミネラルウォーターならあるぞ」
 彼はヴァンから渡されたミネラルウォーターを受取り、蓋を開けて手を器にして注ぐ。そしてもう片方の手で杖を持ち、手に溜めた水にその杖の先端を浸して呪文を唱え始めた。
『ツンドラの精、ナロードナヤよ。我はここにある、凍土の魂はここにある』
 するとどうだろうか。杖の先に取り付けられたアレキサンドライト宝玉が突如高速振動し、触れているその水に波を発生させている。どうやら宝玉にツンドラ地帯に凄む氷の妖精「ナロードナヤ」が憑依しているようだ。
 波は非常にきめ細かい物だった。振動周波数がどんどん高くなり、やがてそれは甲高い音へと変化した。
 だがしばらくするとその高温も止み、水の振動も停止する。彼の掌に溜まっていた水は、振動でこぼれたせいで少なくなっていたものの、色・匂い共に全く変化が見られなかった。おまけに魔力も感じられない。
「なんだ、派手な魔法だった割には何の変化も無いな」
「まあ、そう見えますよね。あの……ヘクセンさん、悪いんですけど、この水を頭から被ってもらえますか?」
 フランシスカは特に躊躇はせず頷き、掌を器にしてミロンに差し出す。ミロンは手に溜めた水をそれに注ぎ、フランシスカは受け取った水を頭から被った。
 効果はすぐに表れた。ミロン自身はその変化を実感することはできないが、魔力が見える悪魔二人には一目瞭然の視覚的変化が表れたのだ。
「これは……素晴らしいな」
「少量の水に魔法をかけ、一時的に過冷却に似た状態にします。それを人間が被ると、衝撃と同時にきめ細かい氷になり、被った人の全身に分子レベルの魔法陣を水で描画するのです。その魔法陣は熱をエネルギーとして結界を張り続け、魔術師から発散される魔力を遮断します」
「素晴らしい。魔法で魔法陣を描くわけか。そしてこの効果……フランシスカほど魔力をもつものであっても、悪魔でさえ見分けがつかなくなるとは、ナロードナヤ魔術とは恐ろしいな」
 ミロンは予想外の絶賛ぶりに鼻高々で、表情にも自信のほどがうかがえる。だが魔力を視覚化できないフランシスカ本人は、何がどう凄いのかさっぱりだ。
「その魔法陣を描いて見せてくれないか? 非常に興味がある」
「せっかくナロードナヤが数百年かけて編み出した対悪魔魔法を見せるのは忍びないですが、事情が事情だけにしょうがないですね……」
 しぶしぶ紙とペンを受け取り、ミロンは魔法陣を描いてゆく。ヴァンほどではないが慣れた手つきで書いてゆくと、単純ではあるが洗練されたナロードナヤの魔法陣が完成した。
 ヴァンはその魔法陣を見て何かに引っかかる。何処かで見たような形状なのだ。キリル文字の暗号化形式と言い、連続した8角形と氷の結晶と言い、記憶に残る独特な陣形。ヴァンは思い出した、それはグルジアでの一件の時、ムガロブリシビリ大統領に掛けられていた精神結界の魔法陣と酷似していたのだ。
「ミロン、この魔法陣に似た形状で殺意を遮断する結界は存在するか?」
「殺意を遮断ですか。ありますよ、と言うかこの魔法陣を精神そのものに展開すれば立派な結界になりますね」
 ばらばらに散っていた情報のピースが、少しずつ線で繋がり始めた。グルジアからの作戦直後のトラブル、ロシア大使館の関係、ナロードナヤの魔法陣、そしてこのミロンのファミリーネーム。すべての線は一つのピース、グルジアで出会ったあのヴァレンチナ=アファナシエフという外交官に向かっていそうだ。
「おい、お前のファミリーネームはアファナシエフと言ったな。姉は居るか?」
「居ますよ、すでに成人して社会人です」
「職業は何だ。どこで働いている」
 ヴァンがそれを聞くと、ミロンは突然目を輝かせながら自慢げに話しだした。
「ちょっと自慢なんですけどね、なんと外務省の高級官僚にまでなってるんですよ。すごいでしょう?」
「ヴァレンチナ=アファナシエフ、だな?」
「ええ、そうですけど。もしかしてお仕事で一緒になりました?」
 ヴァンは質問を無視して懐から携帯電話を取り出し、ある人物に電話をかけた。その表情はさっきまでの含みのありそうな微笑ではなく、真剣でもなければ笑ってもいない無表情になった。
『はい、バトラーです』電話にはバトラーが出た。
「俺だ、身辺調査をしてほしい。対象はロシア連邦特命全権公使ヴァレンチナ=アファナシエフ。この前のグルジアの一件で世話になった、あの外交官だ」
『なんと……あの外交官ですか。了解しました、調査員に伝えておきます。情報は追って連絡します』
 通話終了。ヴァンの口元が大きく歪み、実に楽しそうな表情へと様変わりした。それはまるで獲物を見つけた獣を連想させると共に、人間には生理的な嫌悪感を抱かせるものだ。そんな彼を見て、電話の話も聞いていたミロンは、身の毛がよだつような悪い予感を感じる。
「姉さんが……どうしたんですか?」
「まだ確定事項ではないのだが、とりあえず面白いことになってきたということは言っておこう」
 ヴァンはそう言うと、突然席を立ちあがり部屋の出口へと向かった。ミロンはその背中を引きとめる。
「先生!」
「外交上の機密事項だ。それでも貴様が知りたいというのであれば、調査に協力してもらうが」
「僕だって馬鹿じゃありません。姉さんが事件に関与していると言うのでしょう?」
 背を向けていたヴァンが振り向き、鋭い目つきで刺すよう見る。
「察しが良いな。心当たりでもあるのかな」
「別に……とにかく協力はしますよ。こんな事態を見過ごすわけにはいかない」
 ドアを閉めても不気味な笑い声が絶えなかった。靴底が地面に当たる音さえも、彼を嘲笑うかのようだった。

 所変わってモスクワ、ヴヌーコヴォ空港に一機のジェット機が着陸した。
 黒地のボディにセルビア王国の国旗、家紋まで描かれたエンキュリオール家のプライベートジェットだ。
 乗員の乗り降りに使われるステップ車がハッチにドッキング、同時にロシア当局のガードマン達やらスーツの官僚とみられる人物でその場は埋め尽くされ、周囲は物騒な雰囲気がたちこめ始める。
 ハッチが開くと、そこには金髪の女性が二人。一人はルミナスで、もう一人は魔女アリスだった。後ろにはいつもどおり護衛に勤めるバトラーの姿もある。
「ありがとうございます、姫様。わざわざプライベートジェットでお送りいただけるなんて」
「いいえ、何事も命には代えられないものです」
 ヴァンは事前にルミナスへ、サミットに向かうアリスの安全を保護するために、プライベートジェットで同乗して来るように頼んでいた。今回のRHKが行う任務はサンクトペテルブルク某所で行われる大規模サバト「シナゴーグ・サミット」の警備補助であり、ルミナスがロシアに訪れるのも司令官としての仕事を全うするためだ。
 3人が階段を下りるとロシアの外交官が出迎えに来た。ルミナスは彼女に見覚えがあった。ウェーブのかかったロングヘアー、太陽の光を浴びて金色の燐粉を振りまくように輝き、ロシア伝統の民族衣装を身につけた外交官「ヴァレンチナ=アファナシエフ」。先日、グルジアに宣戦布告を言い渡しに現れた彼女だった。
「ようこそいらっしゃいました、エンキュリオール女王陛下。長旅ご苦労様でございます」
「これは……アファナシエフ公使ではありませんか。先日はどうもお世話になりました」
「いえ、我々こそ優秀なRHKのエージェントに助けられましたわ。それよりもホワイティストの一件は本当に申し訳ないです、私達外交に関わるものとして恥ずかしいかぎりです」
 ヴァレンチナは軽く頭を下げて謝罪する。そして再びルミナスに向き合うと、彼女の後ろに立っていたガードマンが、色鮮やかな包装を施された箱をルミナスに渡す。ルミナスがそれを受け取るとヴァレンチナが「どうぞプレゼントです、お受け取りください」、と言った。
「何かしら、開けてもよろしいですか?」
「どうぞ」
 ルミナスは嬉しそうな笑顔を浮かべて包装を解き、箱の中身を取り出す。そこには可愛らしい少女の笑顔が描かれた、ロシアの人形マトリョーシカが笑っていた。
「まあ、マトリョーシカですね。ありがとう、城のギャラリーに是非展示させて頂くわ」
「ちなみにそのマトリョーシカは私の手製ですの。実はエンキュリオールの歴代党首が描かれていまして、見えている一番外側のお顔はあなたを描いたものなのですよ」
 かなり可愛くデフォルメされているものの、良く見るとルミナスの顔と良く似ていた。素直に感動し、同時に手先の器用さに驚かされた。
 すると用意された警護用のリムジンが目の前でドアを開け、ヴァレンチナが3人に乗ってもらうよう案内する。
 しかし、一人だけはそれに従わなかった。アリスである。
「あら、あなたは陛下の護衛では無いのですか?」
「申し送れました。私はアリス=リデル、セルビアの魔術集団リデルファミリアの現総代でございます」
「ああ、あなたがそうなのですね。まさか陛下と共に来られるとは、此処にいらしたのはどの様なご用件で?」
 アリスの眉が歪んだ。政府に近い官僚であれば知っているはずだろうに、わざわざ言わせようとしている。
 ヴァレンチナもまた白魔術師であり、黒魔術の代表であるアリスに対してあまり好意的でないのも分かる。
「政府高官が、まさか今回RHKの兵隊が国内に入った理由を知らないとは言わないでしょう。公共の場でくらい、白も黒も意識しないほうがいいわよ」
 アリスの言うとおり、プライベートジェットの向こうではRHKの輸送機が着陸している。目的は勿論戦争、ではなく今回はシナゴーグサミットの警備補助。本来ならサミットの警備は開催国の軍隊が担当するのだが、今回はグルジアで一応の戦時中であると同時に、何よりロシア側はセルビアに対して身の潔白を証明しなければならない立場におかれているため、RHKへ依頼しているという背景がある。仮にも警備”補助”であるため、兵力は最低限のものなのだ。
「とんでもない、私は非差別主義ですわ。リデル様のお迎えはあちらです。最近物騒ですのでお気をつけていってらっしゃいませ」
 彼女が指差す先には別の車がある。アリスは此処で2人とは別れ、サミットの会場である某所を目指すためだ。
 本来サンクトペテルブルクまで飛行機の国内便で行けばいいのだが、安全性を考慮してアリスは陸路を使うことにしている。長旅にはなるが、ホワイティストに動きを察知されない方法としては最適だ。
 アリスはその虚ろな目をヴァレンチナに向けながら、その車へと歩いてゆく。
 するとリムジンのドアが自動で閉まった。てっきりヴァレンチナも首相官邸まで同乗して行くのかと思っていたルミナスは、車のウィンドウを開けて彼女に話しかける。
「同乗していかないのですか?」ヴァレンチナはそれに笑顔で答える。
「申し訳ありませんが仕事の合間を使って此処へ来たので、私めの役割は陛下のお迎えのみでございます。ご同行できぬことをどうかお許しくださいませ」
「そうですか、残念です。では行きましょうか」
 リムジンの運転手がウィンドウを閉め、アクセルを踏んで車を発車させる。低いエンジン音が唸り、リムジンは直接空港外へと出発した。
 車の中からしばらくルミナスは手を振っていたが、ヴァレンチナが見えなくなったところでその手を下ろした。
 これから首相官邸へと向かい、現首相と会談予定だ。

 授業の忙しさも相まって、より時間を効率的に使う必要がある。とりあえずフランシスカとメフィスト、そしてミロンを加えた3人は、高性能触媒を受け取ったと思われる生徒を調査することにした。
 高性能触媒の正体は未だ不明。とにかく魔力を帯びた物体である限りメフィストの目では一目瞭然だが、ナロードナヤの「魔力遮断薄氷結界」が有効である限りそれは叶わない。しかし、その結界術には根本的な欠点が存在することをミロンは渋々明かした。
 全身に薄い魔法の氷を張って魔法陣を形成し、熱をエネルギー源として魔法が成立している限り、その表面温度は低くならざるを得ない。つまりは放射される赤外線の強さで判別してやればいいのだ。
 フランシスカはすぐに調査員に連絡し、赤外線暗視装置を調達。それを使った校内の巡回を開始した。
 これで頭のおかしいホワイティストの手先共を一挙摘発できるかと思いきやそうはいかず、まず最初の難関が立ちふさがった。どうやって対象の生徒全員を怪しまれずに、且つ詳細に観察するかであった。
 高性能触媒を普段から持ち歩いているとは限らない。もしかしたら寮の部屋に厳重な管理で保管されているかも知れない。どうにかして容疑者の部屋に入って調査しなければならないだろう。
 仮に部屋に入って調査できるようヴァンが手配したとしよう。その時点でまず怪しまれていることが気づかれる。
 百歩譲って怪しまれなかったとしても、高性能触媒を使用している生徒が、その薄氷結界が熱を奪う性質があるくらい理解しているはずだから、赤外線暗視装置を付けた人間を見た時点でまたばれる。残る手段は日中、授業中に容疑者の部屋に侵入し、泥棒の真似ごとをするくらいだ。
 ということで悩んでいても仕方ないと判断したメフィストは、その潜入作戦を決行することにしたのだ。今日はその作戦を始めて一週間、ちょうどリストの最後尾にある生徒の部屋に侵入した。
「うっわー、汚ねぇ部屋。汚い部屋と書いて”汚部屋”とかマジ最高じゃねー……よ」
 日中、授業中。留学早々に一日中授業を放棄する学生も怪しいものだが、それでも昼間から赤外線暗視装置を被ってあたりを見回している奴よりは正常だ。もちろん”昼間から”を除いたところで正常ではない。
 なるべく散らかさないように、完全に元に戻すことも考えながら部屋を漁る。冷蔵庫の中から便座カバーの裏側まで、施錠されている金庫には自らを同化させて中身を確認する。悪魔メフィストフェーレスにおいて死角など存在しない。だけども探しても探しても、怪しい物体など存在しない。確かに本棚に並べてある本はどれも過激な思想の書かれた攻撃的なものばかりだが、それ以外は至って普通の魔法学校生の部屋である。念のためにパソコンのデータも漁って見るが、ファイル共有でダウンロードしたアダルトビデオなどくだらない物しか出てこない。
「所詮童貞か……、色仕掛けの方が効率的かなぁ。それにしても見つからないわ、調査員の情報は信じるに十分値するはずなのに……」
 時折愚痴を漏らしながらも捜索を続けるが、一向に目当てのものは出てこない。今までに7人も探しているが、一向に当たりを引いていない。それでも根気よく探し続けるメフィストだったが、突如ドアの向こうから足音が近づいて来るのを察知した。時計を見ると授業終了時刻を既に過ぎており、その後授業がない生徒は帰ってきてもおかしくない。痛恨のミスをした。
 チャイムは偶然にも故障していたのか、鳴った覚えは全く無かった。
 鍵穴に入れられる音がした。最悪の事態。とにかくメフィストは小柄な体をベッドの下に隠すことにした。
 息を潜め、ドアが開くを暗がりから観察する。音さえ立てなければベッドの下なんか覗く奴は居ないだろう。
 そう踏んだメフィストは、念のために持ってきてあった赤外線ゴーグルの存在を思い出した。
「今ならこれで観察できるかも……」
 絶好のチャンスとばかりにすぐさまゴーグルを装着する。そして物音を立てないよう、ひっそりと、地をはうナメクジのようにゆっくりとベッドから覗いた。温度の高低を様々な色で表わされただけの映像が視界に広がる。
 これで人間などの発熱する物体は赤色、金属など冷たい物体は暗い青色で表示される。しかし、容疑者とみられる生徒の方を見ると、奇妙な反応を現していた。
 青だった。生徒の全身はローブなどで暖かくしていたために赤だったが、ところどころ覗く顔や手などの表皮は冷たい青だったのだ。それはすなわち、人間の皮膚そのものに結界を張っていると言うことだ。
 恐ろしい想像が脳裏をよぎった、噂の高性能触媒は杖などの形状をしているわけではないし、指輪などの目立たない形状をしているわけではない。物体という定義は広いのだ。それがたとえ体内にあるものだとしても。
「まさか……いや、今の科学技術ならありえるよね。一発目から凄い情報をゲットしちゃったかも」
 緊張感より好奇心に疼くメフィスト。だがゴーグルで詳細に観察すべくズームした次の瞬間、容疑者の生徒が奇妙な言動を見せた。
 机の引き出しを開け、中から光る金属を取り出す。小型のナイフだった。そして携帯電話を取り出すと、電話番号を入力して通話を始めたようだ。
「もしもし、僕です。――ええ、準備は出来ています。――はい、予定通りに現時刻よりですね。わかりました、これから開始します。我ら白魔術に輝く未来があらんことを」
 かなり怪しい会話を終えて通話終了。生徒は懐にナイフを潜り込ませ、大きな杖を持って部屋を足早に後にした。
 その表情はゴーグルをつけていたために表情は読み取れなかったが、ただならぬ殺気を感じたのは確かだ。
 何かが、始まる。とにかく彼がただならぬことを考えているのは想像するに容易い。
 メフィストはすぐさま携帯電話でフランシスカに連絡を取ろうとするが、同時に窓の外からとてつもない轟音が鳴り出した。すぐさま彼女は窓を開けて外を確認する。するとそこには、一機の軍用ヘリコプター「カモフ Ka-25」がホバリングし、ちょうどフランシスカが授業を受けているはずの棟に正面を向けていた。
 嫌な予感がした。そのヘリは何かを下ろすためにホバリングしているわけではなく、何かを狙うために浮いているのではないかとメフィストは感じた。
 そして次の瞬間、ヘリは一発のロケット弾を発射する。
「フランシスカ、伏せて!」
 通話状態の携帯電話に叫ぶ。

 ”フランシスカ、伏せて”
 その言葉が聞こえた瞬間、鼓膜を切り裂くような爆音が響いた。
 爆薬が炸裂し衝撃波が物体の形状を歪ませる。耐え切れなくなった建造物が粉塵を振りまいて割れ散り木端微塵。
 吹き飛ばされた机やら椅子やらが羽のように舞い上がり、轟音を立てて積み重なるように地に落ちる。
 運良く授業終了後のだったので教室には人も疎らだったが、それでも物の下敷きになる生徒は多かった。割れたガラスの破片が皮膚に突き刺さり、血まみれなった生徒はさらに多く居た。
 フランシスカは運悪く教室をすぐに出ていなかったが、なんとか大きい瓦礫の下敷きに無ずに済んだため一命を取り留めていた。
「ヘクセンさん! ヘクセン……ヘクセンさん!」
 瓦礫の向こうからフランシスカの耳に届く声。何分間か気絶していたためか、彼女の意識は朦朧としている。
 隙間から光が射した。積み上げられた瓦礫が脇にどかされ、徐々に体にかかる重荷が軽くなってゆく。瓦礫からミロンに引きずり出され、埃まみれの体が露になる。大きな光が差し込むと同時に彼女の眼に映ったのは、涙に濡れたミロンの顔だった。
「ヘクセンさん、大丈夫ですか。僕が分かりますか!?」
「ミロン………?」
 フランシスカはぼやけている視界で周囲の状況を理解しようと見回す。惨状だけが見えた。激しい頭痛のする頭を押さえながら立ち上がり、覚束無い足取りでこの教室から離れようとする。
「ヘクセンさん、そんな状態で動いちゃ駄目だ! 血だらけなんだよ」
「ここは危険……早く逃げないと……」べっとりと顔面に張り付いた血液をぬぐい、そのまま歩いた。
 だが時は遅かった。瓦礫の山に降り立つ人影。ヘリからロープで降下したそれは、両手に銃を持ち、薄汚れたローブを着込んだ人間。銃口は2人に向けられている。
 ミロンはとっさに呪文を詠唱し、埃だらけの地面に指で魔法陣をすばやく描画する。そして空気中の水蒸気をその場に凝縮させ、正面に巨大な氷壁を形成した。銃声と共に発射された銃弾は氷壁に遮られ2人の下へ届くことは無く、隙を見てミロンはフランシスカを抱きかかえて駈け出した。銃弾が頬の横を掠めるが、それでも彼は足を止めることしない。止まれば殺される、その恐怖が彼の足をさらに加速させた。
 しばらく走ると兵士は追いかけて来なくなった。とりあえず安全は確保するためにヴァンの研究室に駆け込むが、中には誰もいなかった。そういえば明日、正確には今日の0時からシナゴーグサミットの開催日なために、ここから離れてサンクトペテルブルクへ出かけているのだったと思いだす。他の教員に助けを求めることも考えたが、平気且つ豪快に校舎を破壊するあの奴等が、教員達を見逃して居る筈がない。
 頼れる人は誰もいなかった。
「…………降ろして」正常な意識を取り戻したフランシスカは、とりあえずミロンに体を降ろしてもらう。
 ミロンは彼女の体を真新しいベッドに横たわらせると、彼自身も床にへたりこんだ。スポーツも何もしていない貧弱な彼が、少女とはいえ人一人を運んで全力疾走したのだから、疲れるのも当たり前である。
 校舎のあちこちから銃声が木霊する。悲痛な叫び声もする。ヴァンの研究室は他の教員の研究室からは少し離れた棟にあり、普段は生徒も用がないこの場所は格好の隠れ家だ。しかし、それでもなお戦いの足音は近づいてくる。
 ミロンは杖を振りドアを凍りつかせた。これで敵がこの部屋に気がついたとしても、高密度の氷がドアを固定してそう易々と開けることはできなくなった。そもそも校舎自体が古いこともあって、ただ単に建てつけが悪いのだと勘違いしてくれるかもしれない。だが軍用ヘリまで持ち出してくるような連中だ、爆薬でも使われれば簡単に開けられるだろう。
 フランシスカは携帯電話でメフィストに連絡を取ろうとしたが、ポケットの中には無かった。どうやら瓦礫の中に落としてきてしまったらしい。衛星を通した暗号通信が可能な特別回線を使用できるのはあの携帯だけで、ミロンの物を借りたとしても通信することはできないだろう。
「これからどうしようか……。とにかく早く助けを呼ぼう、携帯電話を使って警察に連絡してみようか」
 ミロンは携帯電話を取り出す。だが画面を見てみると、アンテナのマークが一本も立っていないことに気がついた。
「おかしいな、この辺は田舎だけど基地局はちゃんとあるはずなのに」
「恐らく……破壊された」
「破壊されたって、君はわかるのかい?」
「敵は此処を孤立させようとしている……。鉄道もおそらく……封鎖されてる」
 ミロンの顔が青ざめた。孤立無援、その言葉がまさに現実となり、実感するまでに至った。
「でも……助けは来る。メフィストが衛星電話で仲間に連絡を取ってくれるはず……」
「メフィストってあの女の子? 無事だといいけれど、そんな都合よく敵に捕まってないものかな」
「……余裕」
 そうフランシスカが呟いた直後、部屋の壁から黒い影が浮き出てきた。その影は壁から染み出すように浮き出て、やがて人のような形を成してゆく。だが頭には立派な角が、背中にはコウモリの羽根が生えていた。黒い影が徐々に晴れると、中からメフィストが現れた。
「生きてるー?」
「うわぁあ! 何だ、君は、一体どうやって壁を通り抜けて、あれ、角が生えてるじゃないか。魔力は見えなかったのに」
「あんたが見えるのは滅茶強い魔力だけよ。それよりもフランシスカ、耳元で派手な爆音が聞こえたけど無事だったみたいじゃん」
「……言うのが遅い」
 フランシスカはもっと早く連絡してくれれば怪我もせずに済んだと思っている。
「しょうがないじゃん。あいつ等、飛んできて真っ先にロケット弾打ち込みやがったんだから」
 メフィストは肩を回す体操をして少々疲れたそぶりを見せながら、その場にあったヴァンの椅子に腰かけた。そしてフランシスカは体を起して、ベッドに座りながら傷を押さえた。
「状況は……?」
「最悪ね。校舎にロケット弾が数発撃ちこまれたあと、混乱に乗じて生徒および教員を拘束。全員大講堂に集められて、兵士が監視してる。敵総数の詳細な数は解らないけど、通常歩兵が50人、魔術師が80人以上で、その内制服を着た魔術師が10名ほど。間違いなくホワイティストの犯行ね」
 制服を着た魔術師は、きっとこの学校の生徒だろう。予想通りこの学校にはホワイティストの構成員が居たのだ。
「助けは呼んだのかい? このままじゃ僕等もいずれ見つかってしまうよ」
「もちろん仲間に連絡はとったわよ。RHKの部隊はサンクトペテルブルクで待機してるけど、派兵にはロシア政府の許可を取らないといけないから時間がかかるね」
 フランシスカが若干だが目を細めた。
「すぐに動けそうな正規軍は……無理だね……」
 魔術師がメフィストが確認しただけでも80人いる。これだけいれば激しい魔法戦闘は避けられないだろう。 しかし、対魔法戦闘の訓練をしているのは連邦正規軍に属する一部の特殊部隊だけだ。その特殊部隊も明日から開催されるサミットの警備につくため、易々と持ち場を離れてここに来るわけにはいかない。
 そうなればRHKが呼び出される可能性は高いが、仮にも外国の武装組織、ロシア政府の承認が必要だ。
「まあ、こちらとしては計画に支障は無いわ、むしろ好都合よ。あの武装勢力がホワイティストなら、噂の高性能触媒を使用する場面が見れるかも知れない。そのために人間の一匹や二匹、っていうか全員死んでも構わないわ」
「なんだよそれ、このまま助けないって言うのかい?」
「あたしの言い分よ。助けは来るわ。黒魔術を軍事利用しようとしているロシアにとって、招致したシナゴーグサミットの成功は急務よ。だけど戦力となる魔法学校の生徒が死ぬのもまた、阻止しなければならない事項。一人でもその命は惜しいはずよ」
 ミロンは安心した。まさかこのまま全員見殺しにすると言い出すんじゃないかと思っていた。悪魔だけに。
「ところで、これから僕等はどうしようか」
「待機かな。ホワイティストはどうも悪魔の存在を関知しているみたいだし、私が一人出て行ったところで魔術師80人はキツイわ」
「……グルジアの時みたいにオリハルコン弾頭で撃ち殺されるね」
 恐らくホワイティストは何らかの対悪魔兵器、あるいは対悪魔魔法を準備している。知力と変身能力に長けるメフィストは優秀な悪魔だが、タフさではヴァンの足元にも及ばない。所詮は小悪魔である。
 よってヴァンのように人間をゴミのように蹴散らすという派手な真似は出来ない。せいぜい一人ずつ闇討ちしていくくらいだ。
 グルジアの時のように戦闘機でもあれば話は別だが、今はそんな大荷物を持っているわけでもない。
「とりあえず隠れているしかないのか……」
「ミロンとか言ったわね。ちょっと質問していい?」
「どうぞ」
「あんたは随分と校内の胡散臭い噂に詳しかったね。調べたんじゃない?」
 メフィストは不思議に思うのも無理は無い。ミロンはヴァンに情報を求められたとき、RHKの調査員が必死に調べただろう情報を、当たり前のように話していた。しかも高性能触媒の正体については自分の見解まで述べる始末。
 どう考えても調べたとしか思えない。
「その通り……僕は姉さんのことを調べていたんだ」
 ミロンはへたり込んでいた床から身を離すと、近くの椅子に腰かけて話し始めた。
「話はもう10年くらい前からだ。僕と姉さんは北部の山中にある小さな農村で暮らしていた。だけども田舎っていうのは今でも魔法使いに対して良くないイメージを持っている人がいてね、僕たちは村であまり良い扱いを受けてはいなかった。おまけに貧乏だったしね」
「典型的な魔術差別ね、よくある話」
「姉さんが特に優秀な魔術師だっただけに、家族に対する差別は凄かった。大いなる精霊の力を”悪魔の仕業だ”などと言われ、両親はまともな職にも就けず、やがて食べるものもなくなって栄養失調で病床に伏し、やがて息を引き取った。それからだ、姉さんが変わったのは」
 ミロンは頭を抱えだした。辛い思い出を話すのが相当なストレスであるようだ。
「母は死に際に僕らへ言葉を残した。”憎むべき者を間違えるな”、母はそう言ったんだ」
「憎むな、とは言わなかったのね」
 遺言には感動を誘うイメージがあるが、それは幻想にすぎない。親が子に託す思いは、決して美しいものだけとは限らない。何かを憎み続けて生きてきた人ならば、その思いを託そうとすることもある。
「村に居られなくなった僕等はここへ来た。もはや神の救いだったよ、この学校は不当な扱いを受ける魔法使い達の孤児院も兼ねていてね。僕等はここに拾われて、学校に通うことができたんだ。そして姉さんも無事卒業し、奨学金を使って大学まで行ったよ。だけど姉さんは日に日に変わっていった。何か打ち込めることでも見つけたらしく、僕とも離れて時々メールが来るくらいの関係になった」
「昔話はその辺にして、そろそろ本題に入ってよ」
「うん。実は姉さんがある日送ってきたメールにこう書いてあった。”憎むべき人を見つけたよ”って。僕はそのメールで察した、姉さんは復讐劇を始めようとしている。僕はなんとかその復讐劇を止めようと、姉さんが言う憎むべき人を特定しようと調べていたんだ」
「完全に黒じゃん……、何でそれを早く言わなかったのよ。あいつ、ヴァレンチナはこの前、サミット参加者の出迎えをしてたんだけど」
「先生、いやヴェーデルハイムの話を聞くまで確信がなかった。姉さんがそんな理不尽なことをするなんて信じたくなかった。僕の中では……優しい人だったんだ……」
 落ち込んだ様子で話し終えたミロンは、もう何も話したくないと言わんばかりに俯いた。彼にとって掛け替えのない姉が非道なことをするなど信じられないと言う強い思いが、正常な判断を鈍らせていたのだろう。順当に考えれば、憎しみを抱く人間が何時か復讐に走るのは至極普通の事である。
「あの外交官がホワイティスト構成員だとすると……外務省を通した情報は筒抜けで、ああもう、相手にはこちらの行動が駄々漏れだったわけね。最悪だわ」
 彼女の表情が曇った。だが彼女は何も恐れることは無いと思い直し、その顔を晴らした。
「いや、ヴェーデルハイム様に策略を企てるなど無駄なことね」
 ヴァレンチナに不審な点があるということはヴァンも関知している。だから彼はその後何らかの対策は取っただろう。魔界の帝王とあろう者が、小娘一匹の策に踊らされるはずは無い。
 そして部屋に篭ってから3時間ほど経った。ドアに掛けられた氷結魔法の所為で室温は低く、そこらから引っ張り出した毛布に人間二人は包まっている。一枚の毛布をミロンとフランシスカが共用しているため、二人の距離は少しばかり近すぎて、ミロンはこの3時間は緊張し続けていた。
 そんな時、ドアをノックするような音が聞こえた。
「いい加減にバレたかな」と思いながらメフィストは足音を立てないよう宙に浮き、ドアに身を寄せる。
 ミロンとフランシスカは毛布から体を出し、杖と箒を構えて戦闘再生を取る。
 しかし妙だった、ドアのノック音は止まらない。こじ開けるために氷を取り除いている風でもなく、どちらかといえば中に人が居るかどうか確かめるような感じだ。
「中に居るんだろ、メフィストフェーレス」男性の声、彼女に聞き覚えのある声がした。
 メフィストはミロンに向かって魔法を解除するように指示を出す。助けがきたのだ。
 ドアに凍りついたものが水に変わり、その固定状態を解除する。あらかじめ掛けておいた鍵も解除し、ドアがゆっくりと開かれた。
 そこから出てきたのは金髪をオールバックで纏めた男。NB社特注のオリーブグリーンのBDUに身を包んだ、神父ヨハネス=エイブラハムであった。ちなみに全身埃だらけである。
「待たせたね、迷える子羊たち」
「待ちくたびれたんですけどー。他の奴等は?」
「今は私一人だけだ。RHKはまだ正式に動くことはできない」
 その言葉を聞いた瞬間、一同が期待はずれにため息をついた。
「何それ、やるきあんの? 死ぬわよ、人質。肉塊にするつもりならあたしが食うけど」
「そんなことはさせない。安心しろ、まもなくヴァンが駆けつけて人質救出作戦を実行する。非公式だが、軍が動くわけではないから後々弁明はいくらでもできる。我々はこれからチームで行動し、校舎の警備室を奪還する」
「ちょっと待ってよ、最優先の任務はサミット会場の警備でしょ。なんで切り札であるヴェーデルハイム様がここに来るわけ?」
「私の権限では話すことができない。君たちの感情を配慮してとのことだが、真意は理解しかねる」
 忠実な部下として仕えてきたメフィストにさえ知る権限が無い。今まではそんなことが無かっただけに、彼女はキツネにつままれたような顔をした。
 とりあえずヨハネスは重そうなバックパックから銃器類を取り出し、メフィストとフランシスカに手渡した。メフィストにはグレネード数個とアサルトカービン銃、フランシスカには回転式のグレネードランチャーがストックを外された状態で渡された。フランシスカはそのランチャーに本来ストックが付く部分に箒の柄を繋げた。世にも奇妙な、箒とグレネードランチャーが合体したマジカルウェポンの完成である。
「そこの少年はミロン=アファナシエフ君だね。銃は使えるかい?」
「いえっ、全く。触ったこともありません」
「おっと失礼、私はセルビア正教会の神父ヨハネス=エイブラハム。神父だが魔術師に偏見は持っていないつもりだ。ましてや悪魔の下で傭兵として働いている、ちょっと可笑しな神父だ」
 ヨハネスは神父スマイルで握手を求め、ミロンはぎこちなくそれに答える。そしてヨハネスはバックパックから取り出した小型の拳銃をミロンの手に握らせた。
「護身用だ。9mmスターリングシルバー弾が12発装填されてる。魔術師と召喚獣に対して有効だ」
 ミロンは渡された拳銃を見る。初めて人殺しの道具に息を呑んだ。
「それにしても3時間で良くここまで来れたわね。ヴェーデルハイム様なら造作も無いことだけど」と、メフィスト。
「もしものことがあったらすぐに駆けつけられるよう、一週間ほど前から少し離れた森の中で待機していた」
「マジ? あの森の中で一週間キャンプしてたって言うの? あんた本当に人間なの? つーかそれ以前に、あんたが待機してるなんて連絡受けてないんだけど」
「情報の流出を避けるためだ。ロシア外務省が絡んでいる以上、うかつに連絡を取ることはできない」
 ヴァレンチナという不安要素がやはり障害だった。外務省にまで力が及ぶホワイティストに、メフィストは心底呆れた。まったく面倒くさい集団だ。
 準備を終えたところで一向は早速行動に出る。このヴァンの研究室から学校の警備システムをつかさどる警備室までは、中央庭園、中央廊下と進み、西教育棟3階へと向かう必要がある。そこまでのルートは比較的敵の哨戒が緩いものの、監視カメラなどもあるため気を抜くことはできない。
 索敵・必殺、隠密行動が求められる救出劇の始まりだ。

 太陽はすでに隠れ、月が夜空で笑っている。カレリアの夜は凍えるような寒さを呈し、凍てつく風が人の肌を震わせた。しかし、この闇で人が震えているのは何も風だけではない。今は人の恐怖こそが、その人を恐れさせ震わせているのだ。
 満月の下に照らされた石造りの校舎から、時々悲鳴が響いた。
 そんな時、メフィストはふと思った。
「何らかの声明は出したのかな? まさかこのままただ殺していくとかじゃないよね」
「生徒が殺されてるんですか!?」ミロンは驚きのあまり声を張り上げそうになった。
「知らないからそんなこと。そこんとこどうなのよヨハネス」
 ヨハネスは騒ぐ二人に視線を送る。アイコンタクトで、うるさい黙れと言いたそうな目だった。だけども彼は聞こえないくらいの小さなため息をついたあと、その質問に答える。
「お前が電話を寄こした1時間ほど後、ロシア政府に犯行声明が届いた。ホワイティストの要求は連邦正規軍の黒魔術取り入れの撤回、及びシナゴーグサミットの中止だ。政府側は断固として要求を飲まない意向を示すが、奴等は要求が飲まれるまで30分ごとに一人づつ生徒を殺すと表明した」
「30分だって? それじゃあもう4人くらい殺されてるってことですか!?」
「5人だ。さっきの悲鳴がちょうどそれだろう」
 ミロンの顔から生気が抜けた。もしかしたら友達が殺されているかも知れないと考えるだけで、杖を持つ腕が震えた。今までに感じた事のない感情が込み上げてくる。
「ミロン君、落ち着くんだ。ここで泣き喚いても友達は助からない。もう30分経つ前に救出しよう。もし君が神の救いを求めるならば、私が言葉を教えましょう。胸に手をおいて……」
 ヨハネスは首から下げたロザリオを手に取り、ミロンの手もそれに重ねて瞳を閉じた。魔術師であるミロンはその行為に一瞬の戸惑いを覚えたが、何故かヨハネスの顔に浮かぶ笑顔に、何処か絶対的な安らぎと言うものを同時に感じた。そしてヨハネスは囁くように言った。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。さあ、繰り返して」
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから……」
 暗闇の中、ロザリオが僅かだが光を放った。ミロンは目をつぶっているのでそれに気がつかなかったが、ヨハネスは密かに法術の力を発揮している。
 ミロンは今までなく落ち着いた表情をしている。恐怖が支配していた心に、温かな光を放つ灯が宿ったのだ。瞑っていた目を開けた彼の瞳は強い生命力にあふれており、これからどんな試練が待ち構えていようとも越えて行ける、そんな覇気に充ちていた。
「落ち着いたね?」
「はい、ありがとうございます神父様。私、ミロン=アファナシエフはあらゆる強敵を叩き潰す覚悟ができました。僕はやります、やりますよおおおおおおっ!」
 それどころか、ハイテンションになってしまった。少々術が強かったらしい。ヨハネスは慌てて彼の口を塞ぐ。
 気を取り直して一行は行動を開始した。敵の哨戒要員が旧研究棟のすぐ前から広がる中央庭園で巡回しているのが見えた。夜も更けているために視界は悪く、敵も懐中電灯などを使って見回っている。中には杖の先を魔法で光らせている者もおり、それは間違いなく魔術師だろう。4,5人と言ったところか。
 ヨハネスは暗視ゴーグルを装着して、敵の隙を見ながら先導してゆく。時折当てられる懐中電灯の光を避けるべく茂みに隠れ、足音を殺し、息をひそめて進んでゆく。
 幸いにも中央庭園は敵に見つからずに突破、そのまま中央廊下を進んでゆく。
 廊下を往復して哨戒に当たる敵兵を2名視認する。隠れる術のない廊下では強行突破しか手は無い。
 そう判断したヨハネスは腰に下げたサイレンサー付きの自動拳銃を構えた。
 照準を合わせ、引き金を引いた。子供用玩具のエアガンが撃たれたかのような軽い音が響き、次の瞬間には哨戒兵の頭部が風船のように弾けた。もう一人の哨戒兵が相方の死亡に気づく前に拳銃はもう一発の銃弾を発射し、あっという間に中央廊下は無人となった。
 それを見ていたミロンは、あまりにもグロテスクな殺人の風景に吐き気を催す。しかし、此処で泣き言を言うわけにはいかないと心に言い聞かせ、足を止めることを止めた。
 中央廊下を突破した一行は西教育棟の侵入に成功。3階の警備室へ向かうべく階段を慎重に登って行った。
「待って」メフィストが人気を感知して止まるように合図する。人間よりも聴覚に優れる彼女の耳が、階段を見回る敵の存在を察知したのだ。
「足音からして3人居る。階段を下りてくる奴と、2階の廊下を巡回する奴。あと3階廊下にも居るね」
「良く察知した。まずは下りてくる敵を処理するぞ」
 4人は足音を立てないように階段の暗がりに身を潜めた。階段を下りてくる敵が持っていると思われるライトの光が近づいてくる。間もなくその光が4人を照らそうとした刹那、ヨハネスはナイフ片手に飛び出した。
 敵の男は声を上げようとした。しかし、ヨハネスは男の口を真っ先に塞ぎ、そのまま背中に回り込む。そして男の頭を抱えるように両手で持ちながら、それを一ひねりした。
 悲鳴を上げる間もなく沈黙する男。その体が一瞬の痙攣の後、力無く崩れ落ちた。
「凄い……アクション映画でも見てるみたいだ」
「セガールと比べられちゃ困るな、こちらは本業だからね。とりあえず次は廊下を巡回している敵の処理をどうするかだな……」
「廊下だから足音が響きますよ。簡単には近づけませんね」
「メフィスト、やれるか?」ヨハネスはメフィストに視線を送る。
「2階の奴はあたしが食うわ。あんたらは3階の警備室を掌握すれば?」
「そうさせてもらおう。ではいくぞ2人とも」
 メフィストは2階、あとの3人は3階まで登って行った。
 警備室のある3階の敵は、ちょうど警備室があるドアの前で張っていた。音の響くこの廊下では気づかれずに接近するのは至難の業となりそうだが、フランシスカには秘策がある。
 彼女は箒にまたがり宙に浮いた。そのまま敵に向かって高速飛行、風を切る音で敵が彼女の方向へ向いた時はもう遅く、箒の先端に取り付けられたグレネードランチャーの銃身が突き刺さり、敵の頭部を無残にも変形させていた。
 ヨハネスはフランシスカの合図を受け取ると、警備室の前まで走って行った。
 緊張の瞬間。ヨハネスはフランシスカとミロンにアイコンタクトで指示を与えると、銃を構えて警備室のドアを蹴破った。
「ゴーゴーゴーゴー! 全員動くなよ!」
 意表を突かれた敵6名は銃も杖も構えるのが遅かった。ヨハネスが一人の頭部を銃弾で弾き飛ばし、フランシスカが「ヘマトフィリア人体破壊術」をかけた箒を敵に押し当て、大量の出血を発生させる。
 それを見た敵は威力・見た目共に極めて残酷な魔術に怯む。ヨハネスがその隙を見逃すはずはなく、もう一人の頭部を打ち抜いた。
 そのままヨハネスは魔術師とみられる敵一人を掴んで背後にまわり、男を盾にするような形で銃を構える。
「撃つな、声を上げるな。この男を殺すぞ」
「糞ったれが……」
 敵は味方への被弾を恐れて発砲することを躊躇する。ヨハネスはそこで拘束した男に向けていた銃口を残りの2人に向け、発砲。二人の骸はその場に倒れた。
 次にヨハネスは盾にしていた男を地面に伏せさせ、頭部に銃口を向けながら尋問する。
「早速だが高性能触媒のことについて知っていることを教えろ」
「何だお前ら……警察にしては行動が早すぎる」
「答えろ」ヨハネスが声を低くして再び問う。
「最新型の魔力吸蔵触媒だ。液体で、肉体に対して高い親和性を持ち、体内に注入することで人体に備蓄できる魔力を飛躍的に増加させる」
「体内に注入するだと? なるほど、だから表皮に魔力遮断結界を張っていたわけだな」
 体内に注入するタイプの魔法力蔵触媒。フランシスカのような特異体質と違って、普通の人間は体内に備蓄できる魔力の容量はそれほど多くは無いが、このドーピングによって人間のそれを上回る魔力が蓄えられる。それはすなわち、人間一人では賄えない量の魔力を使って術を使うことができると言うことだ。
 しかし、その解答を聞いたフランシスカはある疑問点に気がつく。彼女は家柄、魔力吸蔵触媒をその目で見たことがあるが、状態は固形、一見鉄の塊のような黒い結晶であることを知っている。
 液体の魔力吸蔵触媒なんて聞いたことは無い。この魔術師の言っていることが確かであるなら、その触媒は新型のものなのだろう。
 フランシスカはその旨をメフィストに伝え、緊急暗号通信でルミナスとヴァンに伝達した。
 魔術師の男を術の掛けられた針金で拘束すると、ヨハネスは警備システムのパソコンに向かい、学校敷地内の警報システム、侵入者探知用のセンサーを解除した。大講堂までの道のりが少しは楽になり、何よりもヴァン達の突入が容易になるだろう。
 ヨハネスは腕時計を確認した。22時30分、ホワイティストの学校占拠から3時間半。
「あと1時間半か……。はたして守り切れるのだろうか」
 時間は刻々と迫ってきていた、シナゴーグサミットの開始時刻に。

 サンクトペテロブルク某所ではサミット直前というだけあって、多くの黒魔術師たちが設けられた会場の最終チェックをしていた。
 薄暗い屋内。ロシア国内の黒魔術結社がこの日のために準備した儀式用の地下施設には、ホワイティストに気づかれないよう細心の注意を払って作られたサバト執行の舞台「黒聖堂」が怪しく設けられている。ホールはお香の匂いで充満しており、円周上に等間隔に置かれた松明が轟々と燃え盛っている。松明の上には排煙用のノズルが設けられていて、一応は一酸化炭素中毒で昇天させないよう工夫が施されている。何よりも怪しいのは巨大な円卓の上に描かれた魔法陣。六方星を正確にあらわしたそれは、人間の血で描かれているために赤黒い。
 雇われた黒魔術師の料理人が、円卓に数々の料理が運び込む。間もなくシナゴーグサミットの余興が始まるのだ。入場用のドアが開き数十名の人間がホールに入る。いかにも魔術師らしいローブを着た者もいれば、高そうなスーツを着た者もいる。人種は基本的に白人だが、中には黒人やアジア人も存在する。だがアフリカ系の黒魔術はそもそも源流が違うので参加していない。性別は男女さまざまでバランスがよく、年齢層は決して低くない。付添い人に支えられながらやっとの思いで歩く老人から、20代半ばではないかと思われる若者まで。そんな中でも一際若い風貌の少女が入ってきた。水色のワンピースに白のフリルと、あまりにも年齢を感じさせない服装。何よりも彼女の顔はまさに不思議の国のアリスを思わせる可愛らしさ。頬にある大きな傷の縫い目さえなければ、誰が彼女をあのベスディーロイヤの総代だと思うだろうか。
 アリスを含めた数十名の黒魔術宗派代表者は用意された椅子に腰掛けて円卓を囲んだ。全員が席に着いた頃、ホストであるロシアの黒魔術結社「ドラガノフ魔術」の代表者が立ち上がった。
「そろそろ揃いましたね。これより第64回、シナゴーグサミットの前戯会を行います。ではお手元のグラスをお取りください」
 全員が用意されたグラスを手に取った。注がれているのはどろりとした赤い液体、蛇の血液と心臓である。
 精力剤として重宝される蛇の血を飲むことでサバトに備えるのが本来の目的だが、このサミットでは単なる慣例行事として飲まれるだけだ。
「黒魔術の未来と、魔神レオナール様の導きに、乾杯」
 掲げられたグラスが揺れ、代表者たちは乾杯と同時にグラスの血を一気に飲み干した。
 シナゴーグサミットの前戯が始まった。
 それぞれの魔術宗派代表が用意された料理をつまみながら、黒魔術の発展や展望、研究成果などのことで情報交換する。魔法使いの性質は技術者ではなく、どちらかといえば研究者に近い。それぞれが考案した新しい魔術理論をこのような場で共有することは黒魔術の発展につながる。それがシナゴーグサミットの本来の意味である。大規模サバトとは言ったものの、悪魔と直接契約するのはベスディーロイヤ派だけで、他は生贄などの供物によって契約を更新する者が殆どだからだ。
「実に愉快な会合ですこと。場所の確保には苦労したでしょう、マスター・ドラガノフさん」
 アリスが隣の席に座っているドラガノフ派の代表者に声をかける。
「白魔術師共に情報が漏れないよう会場を確保することは、今思えば苦難の道のりでしたよ。過激派に襲われなければ、こちらとしても努力した甲斐があるというものです」
 このサミットの企画を担当したドラガノフ氏は、ホワイティストに会場が把握されないよう、極秘で会場の手配をしていた。彼らの存在さえ無視できればホテルの大広間でも借りればいい話なのだがそうも行かず、この地下施設はサンクトペテルブルク市内コトリン島のクロンシュタット区にあるバルチック艦隊の軍港に位置する。黒魔術を軍事利用しようとするロシア軍の協力によるものだ。
「安全面ではロシアの特殊部隊とセルビアのRHKが付いています。万が一の時には彼らが一肌脱いでくれますわ。まあ、万が一の時が来ないに越したことはありませんね」と、アリス。
「そう、たとえ魔法学校がホワイティストの手に落ちたとしても、サミットさえ成功すれば問題ありませんから」
 魔法学校の占拠事件の事は、すでに関係者の間では情報が広まっている。懸念すべき事件ではあるのだが、たとえ罪の無い子供たちが数名死のうとも、サミットさえ成功すればこれからの黒魔術界は明るい。勿論生徒達が全員死んでしまったら元も子もないが。
 戦術的に見ればホワイティストは限りある戦闘員を魔法学校の方に割いているため、戦力の分散を余儀なくされてサミット会場の襲撃要員はその分減ることとなる。そう考えれば魔法学校の事件は都合が良かった。
「そういえばマスター・リデル。あの魔王ヴェーデルハイムが復活したとお聞きしましたが、それは本当ですか?」
「ええ、今もセルビア王家との契約で色々とご注力いただいています。このサミットの警備にもお力を貸していただいてますわ」
「おお、なんと心強いことか、魔王ヴェーデルハイム様のお力を貸していただけるのですか」
 本来なら魔王がこの程度の儀式で人間と関係することなどあり得ないのだが、人間と契約してRHKという傭兵部隊を率いているためにこのようなことになっているのだ。
 アリスはそれを理解してもらうために、エンキュリオール家が最近始めた傭兵部隊について自慢げに話しだした。
 すると彼女の携帯電話に着信が入る。タイミングが良いのか悪いのか、ルミナスからの電話だった。
「はい、リデルです。どうかされましたか陛下」
「ヴァンが本来の待機場所から姿を消しているのですが、そちらには居ますか?」
「いえ、こちらに姿は見えませんわ。自由奔放な方ですから、何か突拍子もないことを始めようとしているのかもしれませんね」
「突拍子もないことですか…………そうですね。彼はそういう者なのかもしれません」
 ルミナスが何かを考えるような間を開け、含みのあるような言葉を残して電話を切った。
 ヴァンが居ない。それは彼の性格から考えればそう珍しいことではないのだが、今ホワイティストに襲われでもしたらどうなるだろうか。RHKの戦力は信用するに足りるものだが、切り札不在の戦闘は少々心細い。
 だが彼はピンチの時にこそ駆けつけるヒーロー的存在だ。それはパルチザン時代の戦いでもそうだったし、今日も秘策を用意してるに違いない。この程度のことで心配するのは杞憂となるだろうと、そう彼女は思った。
 だがその心配を引き金にしてか、再びルミナスから電話がかかってきた。アリスが通話に応じると、スピーカーの奥から妙に焦った言葉使いが聞こえてきた。
「緊急事態ですリデルさん。地上の警備部隊からの通信で、ホワイティストと思われる武装勢力から攻撃を受けているとのことです!」
「本当ですか陛下!?」
 ドラガノフ氏の努力も空しく、ホワイティストに会場の場所が割れてしまった。
 どういうルートで情報が漏れたかは分からないが、外務省にさえホワイティストの構成員が居るのだから、軍内部に鼠が居てもおかしくは無い。
 ルミナスの報告によると敵勢力は数十名の魔術師のみだが、召喚獣「ファイアウルフ」が数十体居るらしい。
 進入ルートは単純明快で、鉄製の正面ゲートを高熱で溶解して突入してきたようだ。
「陛下、召喚獣には特にお気をつけください。魔術師は魔力吸蔵触媒で魔法を大幅に強化しております」
「報告どおりに対策を取って見ます。娼婦隊の活躍を期待していますよ」
 アリスが会場の代表者たちに状況を伝えると、会場内は騒然とした。
 だがサミットを中止するわけではない。これは会議であると同時に儀式であり、魔神レオナールを降臨させ、契約の更新を行う必要があるためだ。
 せめて魔神の降臨だけは成功させなければならない。儀式を執り行うことができるのは早くて0時、それまでは会場を死守しなければならない。
 軍港の敷地内ではロシア軍とRHK、リデルファミリアの娼婦隊が、その任を負う事になる。
 人間と悪魔が入り乱れる、大規模な魔法戦闘が繰り広げられるだろう。

 そして場所は魔法学校。
 学校敷地内のちょうど中央にある大講堂に集められた生徒と教師は、手足を拘束された状態でホワイティストの監視下に置かれていた。講堂内には重苦しい空気が漂い、中にはストレスで泣き出す人間も居た。無理も無い、30分に一人が壇上に連れて行かれ、脳天に鉛球を打ち込まれるのだから。そして今も一人壇上に連れて行かれ、短い一生を終えようとしている。ちょうど彼女はフランシスカのルームメイトの一人だった。
「嫌、死にたくない。放して、お願いだから殺さないでまだ死にたくない!」
 泣き、喚き、もがきながら必死に拘束を解こうとするが、男の腕力は強く開放されることは無い。髪をつかまれ半分引きずられながら壇上に上がり、余りの五月蝿さに痺れを切らした男が彼女に蹴りを入れる。3発ほどの強い蹴りを入れられて吐血、抵抗できるほどの気力はもう残っていない。壇上の椅子に座らされた後、彼女はロープで椅子にくくりつけられる。時計の針が4に向くときに、彼女は数百名の生徒教師の目の前で射殺されるのだ。刻一刻と時間が迫った。理不尽な死によって昇るまでのカウントダウン。銃口が向けられたその時、外で大きな雷鳴が響いた。
 空に輝く満月は暗雲に隠れ、突然大雨が降り出す。同時に大講堂にある全ての窓ガラスが弾ける様に割れ、外から中へ黒い影が飛び込んできた。黒い影は素早くホワイティストの戦闘員に飛びつき、彼らの肉を喰らった。影は異形の者だった。黒い羽を生やし、醜い肉食獣のような体をしていて、鋭い爪で肉を裂いている。その場に居た全ての人間が、恐怖に慄き悲鳴を上げた。異形の者たちはカラスとも犬とも思えない酷い声で鳴き、次々に戦闘員の体を貪っていった。
『泣け、喚け、叫べ。恐怖に支配されろ、愚かな人間どもよ』
 酷い声だが、人間の言葉が講堂に響いた。異形の者たちの中に赤黒い、人のような姿をしたものが居た。
 横に並んだ三つの魔眼、鎧の様に硬化した赤黒い皮膚、黄金の角、黄金の牙と爪、漆黒の4枚の翼、そして三つ編みのように束ねられた触手。魔王ヴェーデルハイムの第2拘束封印解除後の姿だった。
「勝手に人間を虐げることはこの私が許さん。人を嬲り殺しにしていいのは我々だけだ、我々のみが人間の命を弄ぶ事が許されるのだ。どうしても脳漿をぶちまけたいと言うのならば、許可を願え!」
 酷く自分勝手なセリフが堂々と言い放たれる。しかし、この場にいるすべての人間にその言葉を聞ける余裕は無い。そんな阿鼻叫喚の中、講堂内の扉が静かに開けられた。
「相変わらず趣味の悪い手段を使うな……」
 ゆっくりと入ってきたはヨハネスは、ため息交じりにそんな感想を漏らした。後に続いてその他3名も講堂内に入る。フランシスカは相変わらず無表情で、メフィストは恍惚としている。ミロンはその場で吐いていた。
 次々にむごい死にざまを見せてゆくホワイティストの戦闘員。恐ろしい悪魔達を一斉に突入させて平静を奪う、ヴァンの作戦は大成功だ。その隙にヨハネスたちも加勢し、講堂内は極めてカオスな戦場となった。
「ミロン君は人質の拘束を解いてくれ! 後の二人は敵を叩くぞ!」
 ヨハネスが先頭となって講堂内に突入する。見たところ敵の魔術師たちは魔法吸蔵触媒の恩恵を受けているためか、かなり強力な魔法を使っている。そのために悪魔たちも一筋縄ではいかなかった。敵の一人が杖を構え、呪文を詠唱する。杖の先端に火花が散り、ヨハネスら3人に向かって火炎が飛んだ。3人はすぐさま反応し散開して回避。体勢をすぐに立て直したヨハネスは、カービン銃の正確な三点バースト射撃をする。魔術師の一人に着弾した。鋭い真鍮の針が肉をえぐる。痛みに悶えた魔術師はその場で倒れた。ヨハネスはそのまま銃口を別の的に向け、撃ち落とす。ある魔術師は巨大な水の塊を作り出し、悪魔にぶつけて吹き飛ばしていた。フランシスカは回転式の自動拳銃でそれを的に定め、9mmスターリングシルバー弾を撃ち込んだ。二の腕に銃弾は着弾した。そして同時に、強い光を放った。スターリングシルバーに魔法吸蔵触媒の魔力が吸収された際に発生する余剰エネルギーが放射されたのだ。普通の人間ではこうはいかない。フランシスカは魔法吸蔵触媒使用者に対して銀の退魔性は有効と判断し、次々に拳銃で的を撃ち落としていく。被弾した魔術師は放出された魔力に耐え切れず、比較的軽い銃創でも失神した。そこにすかさずメフィストが飛びつき、鋭い爪で頸動脈を切り裂いた。一方、ミロンは拘束されている生徒や教師の下へ駆け寄った。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
 彼が真っ先に駆け寄ったのは壇上で椅子に拘束された女生徒。壇上は今までに銃殺された生徒の死体が転がっており、彼はその惨い光景に平静を失いそうになった。しかし、逃げなかった。ロープを解こうとしたが固く結ばれており、諦めて結び目の部分を拳銃で撃ちぬいた。銃声が目立ちすぎたためか、彼にも敵の銃口が向けられてしまう。とっさに指を動かして動作呪文を完成させ、杖の先から冷気の束を発生。それは敵の銃を持つ手に照射され、一瞬にして熱を失い凍結した。凍りついた腕は引き金を引けず、そしてあまりの低温に敵は悶え苦しんだ。状況はヴァン達の圧倒的優勢で、拘束を解かれた人々はどさくさに紛れて講堂から脱出。ホワイティスト達も次々に戦闘不能となり、事態は収束へ向かっていった。すると空中で高みの見物をしていたヴァンが、フランシスカの下へ舞い降りる。そして彼女に話しかけた。
「フランシスカ、お前は今すぐサミット会場へ向かえ」
「何故……ですか?」
 するとヴァンはその鋭い爪をフランシスカの額へ突きつけ、こう言った。
「北西に強力な魔力を感じる。おそらくホワイティストは、強力な魔法を使って校舎ごと人間を吹き飛ばす気だ。俺はそれを止めに行く。だがそれだけではない、お前たちには憎まれる者としての責任がある」
「憎まれる者の責任……?」
 フランシスカはその言葉をすぐには解らなかった。お前たちとは誰を指すのか、それは恐らく黒魔術師という意味だろう。そして黒魔術師は白魔術師に憎まれている。それに対しての責任があると言うのか。納得はできなかった。しかし、魔王ともあろう者の言葉には深い意味がある。部下としても、力関係からしても、その命令に背こうとは思わなかった。
「了解しました」
 フランシスカは宙に浮かせた箒にまたがり、割られた窓の方を向いた。
 するとヴァンが思い出したように言う。
「そうだ、ミロンも連れて行け。冷気の魔法が役に立つかも知れん」
 フランシスカは頷き、ミロンの方へと飛んでゆく。彼は今も生徒達の拘束を解く作業を続けていた。
「ミロン」彼女は声をかけた。すると有無を言わさず彼の腕を取って、杖に乗るよう指示した。
「乗れって? 何処へ行こうと言うんだ」
「サンクトペテルブルク、クロンシュタット軍港。あなたの力が必要……らしい」
 ミロンは首をかしげながらも、「あなたの力が必要」と言われては行かない訳にもいかず、とりあえず彼女の箒にまたがった。
 宙に浮いた箒にまたがることによって、二人の足もとが床から離れた。魔法の風が床の塵を舞いあげ、二人は一瞬のうちに窓から飛び出した。
 ミロンはとてつもない風圧と加速度で振り落とされそうになり、思わずフランシスカの腰に手を回してしまう。
 彼女はそのまま前傾姿勢を取り、杖に魔力を流して加速し続けた。
 それだけではない、風圧から保護するための結界を前方に展開しているようだった。
「ヘクセンさん! ピーテルまではかなり距離があるけど、時間的には大丈夫なの?」
「……時速400キロメートルで飛行して、2時間ほどで到着する」
 彼女はそう答えたが、風の音でかき消された。

 クロンシュタット軍港では本格的な戦闘が開始していた。
 サミット警備部隊はロシア陸軍対魔法戦闘部隊、リデルファミリア娼婦隊を含む黒魔術師戦闘部隊、そしてRHKのアモン中隊とエンプレスソード隊で構成されている。
 対してホワイティストは白魔術師たちのみで構成されているようで、強力な召喚獣が前面に立って戦っていた。
 燃え盛る炎の狼「ファイアウルフ」の他に、重油を媒体にしたと思われる「油のゴーレム」。それらの召喚獣は人間をはるかにしのぐ強さで前衛を蹴散らし、召喚者である魔術師に近づけさせなかった。
 そして悪魔さえも迂闊には近づけない。”人で無い者”が持つ力は、”人でない者”と同等かそれ以上だ。
 だが警備部隊も黙ってはいない。リデルファミリアから提供された「銀の雲」を展開し、召喚獣を弱体化させる防衛ラインを設定。スターリングシルバー弾で弱った召喚獣を撃破する。
 しかし1体撃破したところで召喚獣はまたすぐ新しい物が召喚され、ホワイティストの前衛戦力は一向に衰えなかった。特に油のゴーレムは飛び散って分裂し、ファイアウルフの高熱で炎を纏っていたから厄介だ。
 苦戦を強いられている。エンプレスソード隊の二人、サラ=ジェンドリンとベルモンド=クローディアスも例外ではなかった。
「ファック! 切っても切っても減りやしねぇ。おまけに糞暑いときた。ここは本当に雪国なのか疑うぜ」
 ベルモンドは耐熱に優れる黒い甲冑「ドラゴンアーマー」を装備し、銀以上に魔力を相殺する純オリハルコンの剣「ドラゴンスレイヤー」を振っていた。
 燃え盛る炎に飛び込んでゆき、たったひと振りで油のゴーレムを消滅させる様は勇猛果敢と言うにふさわしい。
 しかし、それでも状況は芳しくない。
 そしてサラも奮闘している。人とは思えない怪力で軽機関銃を両手に持ち、ひたすらに弾幕を張り続けていた。
 いつかの時のようにウジ虫を使えればいいのだが、彼らの栄養源である人間の死体がない限り、あれほどのウジの大群を作ることはできない。
 最低一人でも殺せれば、形勢逆転も夢ではなかった。
「ベルモンドさん! どうにかして一人だけ、なんとかして一人だけ殺せませんか!?」
「簡単じゃないが、やる価値はあるんだろ? 可愛い女の子の頼みとあっては、成さなきゃ真のジェントルマンとは言えないよな!」
 ベルモンドはとっさに遮蔽物へ隠れ、無線のスイッチをオンにする。そして本部のルミナスへと助言を願った。
「HQ、HQ。こちらクローディアス。姫様、はっきり言って埒が空きません。サラが一人殺せればどうにかなるとか言ってますが、術者の場所をどうにか特定できませんかね?」
『こちらHQ。何処かに召喚に使われる魔法陣が描かれているらしいです。召喚獣の集団を突破して、その向こうにある倉庫群に向かってください』
 クロンシュタット軍港の周辺には船の積み荷などを保管しておく倉庫がある。その向こうには軍港で働く人たちが住む居住区があるのだが、さすがにそこからでは召喚獣を操ることはできない。最低限、軍港を視認できる所に敵は潜んでいるはずだ。
 そう判断したルミナスは隊員の一部に倉庫へ向かうよう指示した。
「こちらHQ。アモン隊から数名、正面ゲートに対向する倉庫群へ向かってください。ホワイティストの魔術師が潜んでいる可能性があります」
『こちらアモン隊。こちらも人手が惜しい、人員は回せない』
 召喚獣を相手にしているのだからそう簡単に人員を確保できないだろうと考えていたのだが、予想は例外なく的中した。さすがに人間二人だけでは心もとない。
 如何にして人員を確保するかと悩むルミナスの下に、心強い連絡が入った。
『こちらアリス=リデル。人が足りないなら私が出ますわ』
 ルミナス、そして何より通信を聞いていた全ての魔術師が耳を疑った。よりによって一魔術宗派の代表者が、自ら戦場に赴くと言っているのだ。
「マスター・リデル。本気ですか?」
『確かに私は立場上、守られる側にあります。しかし、頭が剣を振らなければ、就いてゆく者も戦うことは無い、と陛下のお父上は仰っておりました故』
 聞き覚えのある言葉だった。ヴァンが王家に伝わる魔剣エンキュリアをルミナスに託したときも、その言葉を使っていたが、同時に父自身の言葉も託していたということなのだろう。
 その言葉の意味を、彼女は今再び思い出した。
「了解しました。マスター・リデルはクロンシュタットで敵の迎撃を。引き換えにアモン隊から悪魔2名を寄こしてください」
 了解の返事が無線で伝わる。パルチザンの英雄が矢場に立てば、悪魔二人分の働きは期待できるだろう。いや、それ以上に強力なのかもしれない。ルミナスはコトリン島の地図を睨んだ。この島は昔から都を守るための防衛拠点として、島の上に作られた要塞として機能してきた。それだけに地形は守りに強いものとなっており、敵の進入経路も限られる。予想される侵入経路はサンクトペテルブルクから伸びる道路と、つい最近完成したばかりの海底トンネルだ。しかしその2ルートには事前に通行止めとなっており、関係者以外は通行ができないよう手配されていたはずだ。
「空は……?」
 魔法使いには飛行を可能とする者がいることは彼女も知っている。海など飛び越えてしまえば大した障害ではないだろう。つまりは高所も考えられる。見晴らしがよく、人目につかない、容易には登れない高い場所。そんな場所が倉庫群に存在するのだろうか。
 あるのだ。彼女は見つけた。倉庫群の東部にある高所、灯台だった。
「倉庫群に向かった隊員へ連絡。灯台です。倉庫群の東部に灯台があります。そこにホワイティストが潜伏しています!」
 隊員はその連絡を受けると、高くそびえたつ灯台へと目を向けた。ベルモンドは剣を構えた。召喚獣の防衛ラインの一点を蹴散らし、正面突破するのだ。
「承りました、女王陛下!」
 駆け出す4人。足が勇ましくコンクリートを叩く音が響く。ベルモンドは正面に立ちはだかる油のゴーレムに突進し、長い刀身のドラゴンスレイヤーを振りかぶり、切った。さらに向こうにファイアウルフが立ちはだかり、業火をその大口から吐き出す。黒の鎧を纏う男はその炎に怖気づくことなく、むしろ好むかのように飛び入った。そしてドラゴンスレイヤーを一振りすると、炎を形成していた魔力がオリハルコンの刀身に吸収され、後ろに続く隊員にそれが届く時には温風となっていた。剣が振るわれた。しかしその歯が狼につきたてられることは無く、まるで団扇でも仰ぐかのようにその炎を吹き飛ばした。召喚獣の群れに切り込みが入る。ベルモンドを先頭にしてサラ、そしてアモン隊の4名が切り込みをすばやくすり抜ける。4人は走り続け、灯台へ向かう。追っ手として小型のファイアウルフが吠えてきたが、スターリングシルバー弾の銃撃により炎はかき消された。そして4人は灯台への入り口にたどり着く。生憎鍵の類は持っておらず、灯台の分厚い鉄製の扉は、悪魔とサラの怪力でこじ開けられた。
「我々が先に参る」
 悪魔2人が真っ先に灯台内部へ入る。人の姿に化けているため空は飛べないが、脚力は人間のそれをはるかにしのいでいるためだ。人間2人はその後を追いかける。灯台を上にあがる螺旋階段を駆け上がり、頂上部にたどり着くと、そこには目も当てられない光景が広がっていた。
「酷い……な」
 異臭が漂っていた、臓物から溢れた排泄物の匂いである。ガラス窓一面には人間だったものと思われる肉片と鮮血がべったりとし、床にはブラッド・バスが広がっていた。
 僅かに見える床に描かれた記号や文字からして、それらはホワイティストの魔術師だったのだろう。
「こちらアモン隊、糞虫どもを始末した」血だらけの悪魔が連絡する。
 灯台の”糞虫”は始末した。だがそれだけで召喚獣の勢いが衰える訳ではなく、他にも”糞虫”が蠢いていることが分かった。
 サラはおもむろにナイフを取り出した。刃渡り15センチほどのナイフを手に持つと、その刃を自分の首筋にあてがう。
「何するんだよサラちゃん! 自殺するような窮地じゃぁないぜ?」
「見ない方がいいですよ。自分で言うのもなんですが、かなりグロテスクなんですよね」
 彼女は当てた刃を引き、頸動脈のあたりを切り開いた。だけども血液は吹き出さなかった。まるで買ってきた豚肉に包丁を入れたかのように、首に綺麗な切り口が入った。するとどうだろうか、その傷口から白い何かが這い出てくるではないか。1つや2つではない、やがてその白い何かはあふれ出てくる。良く見ればそれはウジ虫だった。ベルモンドは苦虫をつぶしたような顔をしながら、這い出たウジ虫が、辺りに散乱した肉片を食べるさまを見ている。
「……なるほど。一人殺せればこいつ等の餌ができるって算段だな」
「さすがに無尽蔵にウジが湧くわけじゃないんですよね。ウジが人を食べると魔力を親玉、つまり私の体に住んでいる”ベルゼブブ・マゴット”に送り、魔力を元にして卵を産むんですって。そして……」
 サラは背中のバックパックから20センチほどの木の棒を取り出した。それは何処かに落ちているようなしょぼくれた物ではなく、妙に光沢があり、手で持つ部分とみられるところには紅色の布が巻き付けれられていた。
 彼女はそれを手に持つと、目を瞑りながら呪文らしきものを唱えだした。
『我が内に凄む蝿の王ベルゼブブよ。骨肉の契約の下に、我に地獄の業火を繰る術を示せ』
 努めて正確なセルビア語でその言葉を口にすると、木の棒の先から小さな火花が散った。するとその火花が発生した個所から火が付き、あっという間に杖全体が大きな炎に包まれてしまった。
 彼女はすぐさま火のついた棒を地面に落とすと、その炎目がけてウジ虫が殺到した。白く醜いウジ虫は炎の高熱をエネルギーとし、自らの体を突き破って新たなる姿へと変態する。それらは一瞬にして蠅となった。
「蠅さん達の力を貸して。この島のどこかに敵対する魔法使いが居るから、そいつ等を全員倒して来て。もし倒せなかったら、なんとか私の下へ連れて来てくれる?」
 蠅の大群がサラを中心に踊るように飛んでいる。それはまるで彼女の願いを聞き入れたかの様にも見えたが、何よりも人間を食えることに至上の喜びを感じている様にも取れた。黒い大群は窓ガラスを突き破り空へ放たれ、これでホワイティスト達もご臨終だろう。
 一通りを終えたサラは本部へ連絡した。
「こちらエンプレスソード隊。蠅の軍隊を放ちました。これで敵の勢いも衰える筈です」
『ご尽力感謝します。ではエンプレスソード隊は持ち場に戻り、敵召喚獣の撃退を続行してください』
 蠅共の探知能力は素晴らしく、容易く魔術師たちを見つけては襲いかかる。人間に群がった人食い蠅は寄ってたかってその肉を食らい、一瞬にして骨のみを残した屍を作り出す。これでホワイティストは劣勢に追い込まれ、シナゴーグ・サミットは成功するだろう。サラはそう思った。
 ふと割れた窓の外を見た。そこに広がるのは物々しい雰囲気に包まれたクロンシュタット軍港と、無機質な倉庫の群れ。その向こうには美しいバルト海が広がっている。しかし、ある倉庫の屋根に白い点を見た。人型のようにも見えるその点は、何か長い物を手に持って構えているようだ。サラはそれが気になって双眼鏡を取り出し、レンズを覗いた。
 ライフルを構えた、女がいた。
「狙撃!?」
 長い銃身の先にあるものはクロンシュタット軍港を防衛する隊員たち。そして、その最前線で戦っているのは誰でもなく、アリスだった。乾いた銃声が響き、放たれた銃弾は音速で空気を切り裂き、照準の指す所に着弾する。次の瞬間、アリスは倒れた。
「マスター・リデル!?」
「総代!?」
「おい、嘘だろ?」
 その場に居た全ての人間が自分の目を疑った。パルチザンの英雄が、最強の黒魔術ベスディーロイヤの総代が、現行最強の黒魔術師が、倒れた。
『こちらアモン隊! マスター・リデルが撃たれた、心臓を打ち抜かれている』
 すぐさま娼婦隊のメンバーがアリスの体を後方へ移動させる。無線の報告によればボディーアーマーを貫いて心臓が破裂しており、大量の出血が止まらない状況だという。
 幸いにも召喚獣の大半は魔力不足で行動不能。蠅は敵の魔術師たちを倒してはいたようだった。
「倉庫の屋根の上です! 撃て、撃てぇ!」
 サラが無線でそう伝えるや否や、倉庫の上に立つ人間に向かって銃弾の雨が降り注いだ。有り余る弾幕に塵が舞い上がり、人の姿が見えない。命中したことは確実だろうと全員が思った。
 だが風で塵が飛ばされると、そこには巨大な氷の壁が立っており、全ての銃弾を遮っていた。もちろん、その内側の人間は健在だった。
 より白に近い金髪、消えそうなくらい薄い青色の目。髪は強いウェーブがかかっており、前髪は額の辺りで7対3にぴっしりと分けて停められている。ロシアに伝わる民俗衣装を身にまとい、アレキサンドライト宝玉の輝く銀色の杖を片手に持つ。色白で、彼女がこの国の出身であることは良く分かる。
 監視カメラ越しで彼女の姿を見たルミナスは、その姿には見覚えがあった。
「ヴァレンチナ=アファナシエフ……?」
 紛れもなく彼女が、そこには立っていたのだ。決して見間違いではない。ヴァレンチナは右手に持った背丈ほどの杖を水平に構え、左手の指を動かし動作呪文を完成させる。するとどうだろうか、周囲にとてつもなく冷たい風が吹き出した。その温度はとてつもなく低く、人ならば凍えて死ぬのではないかと思うほどだ。
 やがて空気中に煌びやかに光る粒子が漂い始める。それは極寒の地でなければ見る事の出来ない、ダイヤモンドダストであった。それだけではない、バルト海から聞こえる悲鳴の様な高音。何かと思ってその方を見てみると、海上が陸から徐々に白く染まってゆく。
 ――海が、凍っているのだ。
 そんな馬鹿なことがある筈がない、ある筈がないのだ。だけども、それは確かに目の前で起こっている。そして彼女は口を開き、声高らかに宣言する。
「私は、ナロードナヤのアファナシエフ! 今ここで永久凍土の精霊ナロードナヤの力を借り、貴様ら黒魔術師を、そして、この町全てを、凍土の深くに埋葬してくれる!」
 コトリン島から見えるサンクトペテルブルクの景色が、僅かではあるが白くぼやけている。島からではそこがどうなっているのかは分かりかねるが、決して良い状況ではないことは確かだ。
 ルミナスがそう思った矢先、電話回線から驚愕の報告が舞い込んだ。
『エンキュリオール様。こちら、ロシア連邦副大統領セルゲイ=ペトロヴィッチです』
「ペトロヴィッチ副大統領、何事ですか?」
 ペトロヴィッチ副大統領はこのサミットに深くかかわっている人物で、正規軍から対魔法特殊部隊を派遣したのも彼である。そんな彼がとても焦った様子でルミナスに連絡をしてきたのだ。
「ホワイティストの本当の目的はシナゴーグサミットの妨害ではありません。いや、正確にはそれも含まれますが、奴等はこのサンクトペテルブルク市全体を標的にしたテロを画策しています!」
「市全体を巻き込んだテロですって? 馬鹿な、そんなことをどうやって成そうというのですか」
「クロンシュタットで戦闘が開始された時から、市全体の気温が徐々に下がっていました。調査によってこれが魔法の仕業だとわかった時にはもう……北西部は”冷凍”されていました」
「冷凍……?」
「はい、空気中の水蒸気が氷塊となり、数百人の住民が凍死しました……」
 悪夢のような話だった。ホワイティストは2重の陽動作戦を展開していたのだ。
 最初の陽動は魔法学校の占拠テロ、そして2つ目の陽動はサミット会場への襲撃。そして、彼らの本命は黒魔術を軍に採用しようとする政府への抗議としての、大規模魔法テロ。
 ホワイティストはその名の如く、この街を白銀の、氷の世界にしようとしているのだ。
「報告によると、一体に広がる魔力の渦は一点に纏まっているそうです。恐らく、一人の魔術師がこれを行っているのでしょう」
 たった一人の人間が、これほど大規模な魔法を行えるのだろうか。
 出来る、出来るのだ。今、コトリン島でアリスを撃ち殺した、魔女ヴァレンチナがやったのだ。
「エンキュリオール陛下。RHKに、サンクトペテルブルクの命運を託します」
「了解しました副大統領。全部隊に連絡、作戦目標変更。マスター・リデルを殺した、ヴァレンチナ=アファナシエフを抹殺せよ!」
 ルミナスの指令を聞くや否や、世にも恐ろしい悪魔の兵士が、慕う者を殺された娼婦隊が、ヴァレンチナに向けて黒い眼光を向けた。
 まずは怒りに震える娼婦隊の魔女達が、ヴァレンチナに向かって疾走する。彼女達は魔法の掛けられた箒に飛び乗り、サブマシンガンで前方に弾幕を張りながら突撃。ある程度近づいたところで箒から飛び上がり、刃渡り40センチほどの大型ナイフでヴァレンチナに切りかかった。
 しかし、その刃は届かなかった。まるでジェットエンジンから吹き出すかの如く強い風が、娼婦隊をはじき返す。
 一瞬何が起こったのかすら判らなかったが、そこは流石ベスの魔女で、弾き飛ばされると同時にグレネードを投げ込んでいた。
 投げられたグレネードが宙を舞い、ヴァレンチナへと向かった。しかし、彼女はそのグレネードを何のためらいもなくキャッチした。手に持ったのだ。
「こんな花火が、私に通じるとでも思ったのかしら」
 ヴァレンチナが手に持ったグレネードはしばらく経っても爆発しなかった。それどころか、グレネードの表面に霜が降りていた。低温すぎて中の爆薬が活性化していないのだ。娼婦隊のメンバーは悔しさに歯ぎしりをしながらも体勢を立て直そうとするが、彼女等は立つことができなかった。
「寒い……、体が……痺れている?」
 さっき受けた強い風の影響だろうか、彼女等の体温は活動できる限界まで低下しており、体を自由に動かすことができなくなっていた。そして同じような症状をクロンシュタット軍港で待機していた正規軍兵士も発症。会場を守る警備部隊の人間は全て行動不能に陥ってしまう。すでにサンクトペテルブルク市全体が極寒の地と化していたのだ。
 しかし諦めるにはまだ早い。生物の理に縛られない悪魔達が、ヴァレンチナに向かって飛びかかる。それに対して彼女は杖を構え、瞬間的に指を動かして動作呪文を完成。杖の先端に光る宝玉から、青白い光を放つ。その光は襲いかかる悪魔達に照射された。すると次の瞬間、悪魔達はまるで銅像のように動かなくなり、そのままの体勢で倒れてしまった。その後悪魔の体全体に真っ白な霜がおり、やがてそれは白く濁った氷の塊と化した。唯一その場を見ていたサラは言葉を失った。一人の人間が、束になって襲いかかる悪魔を、容易く無力化したのだ。
 ヴァレンチナは構えていた杖を下し、肩を震わせた。やがて口元は大きく歪み、歓喜の表情を見せる。
「嗚呼、ついにやりましたわ。ついに……ついに悪魔をも超える力を持って、黒魔術を根絶やしにする時が来ましたわ。おお神よ、これで我々を蔑むものはいなくなります。数百年の怨念から解放されます!」
 笑った。それはもう至上の歓喜だった、彼女は凍てつく大地の上で喜びの叫びを上げた。数百年来の憎き黒魔術を滅ぼすことができることに、笑うことを止めることはできない。残された戦力は不死身のサラのみ。一緒にいたベルモンドも衰弱していた。
「ベルモンドさん、気をしっかり!」
「クソっ! いや……まだ眠くはねぇ、睫毛が凍って目が重いだけだ」
「本部応答せよ、状況は極めて劣勢。人間が活動できる温度じゃありません!」
 無線を聞いていたルミナスは頭を抱えていた。何故、どうして、そんな疑問詞ばかりが頭を回る。計画に穴があったわけじゃない。あまりにも想定外な、イレギュラーな要素が介入してしまったのだ。悪魔を超える力を振るう魔女、そんな馬鹿な話は聞いたことがない。こんな時に彼がいたら、こんな時こそ駆けつけて来てくれるはずの彼は、ここには来ない。そういうことになっているのだ。
 しかし代わりと言っては何だが、この事態を収拾できる唯一の人物をここに向かわせたとヴァンから聞いていた。
 ここクロンシュタット防衛作戦において、実は最初からヴァンの存在を除外している。それには列記とした理由があることをルミナスは知っている。誰かの憎しみを受け止められる存在は憎まれる物しか存在しえない。つまり、白魔術師たちの怒りの矛先が向くのは黒魔術師。この事態を収拾できる人間は、黒魔術師以外に居ないのだ。
 そして彼女は到着した。そう、彼女が切り札だった。
『こちらエンプレスソード隊、ヘクセン。ただいま到着しました』
 海を渡ってコトリン島に接近する高速飛行物体。箒に乗った魔女と少年はクロンシュタット軍港を見据え、凍えるような冷気のフィールドに入り込んだ。
 フランシスカは箒の先に取り付けられた回転式グレネードランチャーを両手で構え、ある一点に対して集中砲火を行った。魔法の付与された炸裂弾が飛翔、着弾。地獄の業火を思わせる炎を広げると同時に、無数の金属片が氷の壁を粉砕。そして姿を露わにしたヴァレンチナを、高熱の爆風と金属片が襲った。それが数回立て続けに起こった。 爆発で建物の屋根は損傷、重さに耐えきれなくなった屋根は陥落し、ヴァレンチナは倉庫の中屁を落ちて行った。 それを確認したフランシスカは箒に与える魔力を調整し、倒れているアリスの下へ着陸した。大量の出血がある傷口を押さえながら仰向けに寝ているアリス。フランシスカは普段からのポーカーフェイスを僅かに崩し、焦った表情を見せながら駆け寄った。
「……酷い有様ね。私が意気楊々と前に出たら、真っ先にこれよ」
 心臓を撃たれているアリスの意識は朦朧としており、肌は青白く変色し、体温はすでに失われていた。失血と低い気温による低体温症と血圧低下。まさに満身創痍ながらも、彼女はそれでもまだ息をしていた。
「おばあ様……」
「私はもたない。賢い貴女なら判るでしょう? 私の相手をしている暇があるのなら、あなたの敵を殺しなさい」
「でも……でも……」
「せっかくだから遺言を残すわ。フランシスカ、貴女は唯一の血縁者である私を、貴女が望む、貴女が行使できる最高の魔術儀式の生贄としなさい。私という生贄は、貴女に大いなる力を与えるから」
 残酷な話だった。しかし、やる価値はあった。魔術儀式において悪魔に捧げる生贄は、術者の大切なものであるほど高い付加価値を生む。特に血縁者、父母や祖父母ならば相当の効果を発揮するだろう。
 フランシスカもそれくらい解っていた。
 そしてアリスはフランシスカに懐のナイフを手渡した。それで首を切り落とせと言うのだ。彼女の息の根が止まる前に、フランシスカ本人が、息の根を止めねばならない。
「さあ、魔女フランシスカよ。魔女の魂を食らうがいい」
 フランシスカは握ったナイフの切っ先を見つめた。これで祖母の首を落とさなければならない。しかし次の瞬間、彼女は思いがけない行動をとった。
『ヘマト・フィリア。滴り落ちよ』
 彼女はとっさにヘマトフィリア人体破壊術を詠唱し、握ったナイフに付与。そしてそのナイフで自分の頸動脈を切り裂いた。
 彼女のとっさの行動にアリスと、その場に居たミロンは声を出すことを忘れた。そんな彼女を目の前にフランシスカは、手頸からあふれ出る血液で地面に魔法陣を描き、さらに呪文を詠唱する。
『アガル・マト・フィリア。御前に来い、フランベルジュ』
 血で描いた魔法陣が赤く光りを放ち、物体がないのにも関わらず、そこには大きな影が落ちた。
 やがて蜃気楼のようにぼやけた黒い霧が、巨大な騎士甲冑の形を成してゆく。フランシスカの使い魔、フランベルジュだ。
 さらにここで突発的な行動に出る。フランシスカは握ったナイフを大きく振りかぶり、アリスの首筋目がけて切りかかった。そこには何の躊躇もなかった。同時にミロンは気絶した。
 その光景を目の前にしていた魔術師たちは、ついにフランシスカが狂ってしまったのかと思ったが、決してそうではない。あくまで彼女は遺言に忠実なのだ。彼女は切り落としたアリスの首を、フランベルジュの甲冑の中に放り込む。そしておもむろに、右目につけられた眼帯を取り外した。眼帯の向こうは黒だった。眼球がの無い眼窩が暗いという意味ではなく、どす黒いという意味で黒だった。液体でもなく、気体でもなく、触手のように蠢く謎の物体が彼女の眼窩から飛び出す。粘性の強い液体が泡を立てるような音が、蠢くと同時に聞こえる。少なくとも、それは人間が持つ臓器でも何でもなかった。彼女は蠢く物体を眼窩から抉り出し、それをフランベルジュにあてがい、呪文を詠唱した。
『悪魔フリーデリケよ。我らが祖母の首と、我の血潮を持って立ち上がれ。そして眼前の、憎き仇を、骨の髄まで恨めしい仇を、蹂躙し、嬲り、侮辱し、苦痛を与え、首を落とし、殺したまえ。我ここに、殺戮の懇願をする』
 腹の奥底からひねり出すような酷い声。すべての恨みと憎しみを込めたような声で呪文を詠唱すると、フランベルジュに変化が起きた。彼女の眼窩から取り出した謎の黒い物体が、甲冑の隙間を通ってフランベルジュに入り込む。すると甲冑が音を立てて震えだし、やがてその隙間という隙間から黒く蠢く触手が伸びた。突如甲冑の兜にあるシールドが開き、暗がりから赤き瞳が開眼した。赤黒い液体が飛び散り、周囲に死臭のような強烈な異臭を放つ。鼻をつまんだとしても、その匂いは目さえ刺激するほどだ。心臓の鼓動を刻むように触手が波打ち、刺激臭を放つ汚れた液体が飛び散り、肉がかき混ぜられるような音、生理的嫌悪感を持つ姿だった。そして、ショック死寸前まで血液を失ったフランシスカは倒れる。だが彼女が倒れるのを待っていたかのように、フランベルジュの甲冑内部から唸るような声が響いた。
『我は悪魔フリーデリケ。鮮血の契約により、我が姉妹の仇を討とう』

 使い魔フランベルジュの姿をした、悪魔フリーデリケの姿はあまりにも醜い。だが醜いだけではない。瓦礫の山から立ち上がったヴァレンチナは、それの姿を見た瞬間に、狂気を感じた。唯ひたすらに殺しを願った思いが、より純粋な形で漂っている。それは研ぎ澄まされた刃のような殺意。一度たりとも触れてしまえば、切り裂かれることは必至だろう。
 フリーデリケは自らの甲冑から覗く黒い何かに手を入れ、冷たく鋭い物体を掴んだ。そしてそれを勢いよく引き抜くと、剣のような形をした物が現れる。 フリーデリケの身の丈ほどある振りの剣。しかしその剣の刃は燃え盛る炎のように波打っており、歪で、そして禍々しかった。
「挨拶もせず撃ってきたと思ったら、今度はその禍々しい甲冑の召喚。そして抜いたその剣は、癒えない傷を与えると言うフランベルジュ。実にあなた達らしいわ、ベスディーロイヤ」
『腹に尻穴を増設して犯してやろうか、それとも、もっと激しいプレイを望むか?』
「黙れ、この変態性欲悪魔が!」
 ヴァレンチナが杖を構え動作呪文を完成、青白い冷凍光線がフリーデリケに向かって伸びた。甲冑にそれは照射され、その個所から急激に冷凍されてゆく。そして空気中の水分が凝結し、甲冑全体を氷が覆った。
 しかし、フリーデリケは歩みを止めなかった。正確には止まらなかった。彼女の怪力は氷など物ともせず、それを砕きながら足を動かした。
 彼女はそのまま甲冑を唸らせながら突き進む。やがてその脚は駆け足となり、数十キログラムはくだらないフリューテッドアーマーとは思えない速度でヴァレンチナに接近した。
 大きくフランベルジュを振りかぶる。ヴァレンチナはそれをとっさに見切り、間一髪のところで一太刀を回避した。
 剣が振り下ろされた先にはかつて倉庫の壁だったコンクリートの塊があったが、まるでシャーベットをたたき割るかのように粉々となった。
 正直言って切れ味は良くない。波打つ刃の所為で力が効率よく伝達されず、剛体に対してはさほど高い破壊力を発揮しない。しかし、軟体である人体に対しては脅威だった。その波が力を分散し、傷口は肉片が飛び散り裂けるだろう。剣先で刺されればその傷口は広がり、治りにくい傷と大量の出血が襲う。
 それだけではない。ヴァレンチナは恐ろしい光景を目にした。
 コンクリート塊の近くに生えていた雑草が、一瞬にして腐り落ちた。さらに周囲の物体は有機物、無機物に関わらず黒く変色した。一見しただけではわからない、見えない力が働いている。
「劣化魔法でもかかってるのかしら? 実に興味深いわ」
『我が体内に詰め込まれた赤子の死体が、無数の疫病の温床となり、触れるもの全てを毒に侵す。全ては人を殺すために、そう、お前を殺すために』
 フランベルジュの体内に入っている物は極めて穢れていた。アリスの生首、フランシスカの血液だけではない。
 ベスの魔女達が孕んだ子を中絶した残骸が詰め込められ、腐り、解け合い、回虫が蠢き、そこに無生物に生を与えるアガルマトフィリア傀儡術を付与している。そこに制御中枢として、体を持たず神経だけで成る悪魔フリーデリケが加わることで、甲冑が生物のように動くのだ。
 いわば死肉の人形。この世に生を受けることがなかった者たちの、怨念の坩堝である。
『さあ、お前を殺してやる。そこを動かなければ、楽に殺してやる』
 フランベルジュを再び振りかぶり、腐臭をまき散らしてフリーデリケは突進する。
 対してヴァレンチナは前方に魔法による氷壁を発生させ、フリーデリケの突進を止めようとするが、その巨大で重量のある彼女の前には、壁など紙に等しかった。まるで新雪で作られた雪だるまの如く粉砕される。
 剣が地面に垂直に振り下ろされる。ヴァレンチナは急激な低温による気圧差を利用した突風で回避を試みるが、左肩の一部に刃が当たり、肉が抉られた。
 彼女はフリーデリケとある程度間合いを取ると、肩の傷口を見る。歪んだ刃によって傷口の損傷は酷く、肉が飛び散り骨が見えていた。ヘマトフィリア人体破壊術も刀身にかかっているために出血も酷いが、皮膚表面に張られた薄氷結界がなければそれ以上に劣化もすさまじいものだったろう。
 応急処置として傷口に杖を当てると、肉諸とも冷凍して止血した。凍傷になるのは必至だが、大量出血によるショック死だけは避けたかった。
 ヴァレンチナの方が明らかに部が悪かった。白の魔法使いは基本的に接近されることが好ましくないが、超重量級の怪力にはあらゆる冷凍拘束系魔法が通用しない。恐らくは甲冑内部で繁殖している細菌類が高熱を発し、ヒーターのような役割を果たしているだろう。
 このままの状況が続けば、体力に限りのあるヴァレンチナの方が先に死ぬ。だがそれは術者であるフランシスカも同じで、低温と出血による体温の低下はすでに生命活動の限界に近かった。
 この殺し合いは気力を先に切らした方が負けだ。
 フリーデリケは再びヴァレンチナに向かって駆け出した。その恐ろしい形相を諸ともせず、ヴァレンチナは杖を振り、空中に巨大な氷塊を発生させる。そして氷塊を気圧差を利用した突風で、迫るフリーデリケに向かって突き飛ばした。
 フリーデリケはその氷塊を叩き割ろうとした。しかしその氷塊は高密度に圧縮された、頑丈で重量のあるもので、フランベルジュくらいではびくともしなかった。よってフリーデリケは十分な加速度を与えられた氷塊を叩き割れず、正面から激突した。
 溝を入れることで強化されているフリューテッドアーマーが大きく歪み、甲冑内部の内容物が飛び出す。
 それでバランスを崩したフリーデリケは続いて襲いかかる突風に足をすくわれ、そのまま後方へと吹き飛ばされて建物のコンクリート壁に激突した。
「今の私は精霊の加護を受けている。貴様らのように穢れた存在とは、比べようもない崇高な力だ。だからこそ私は……貴様らに……負けるわけにはいかないのだ!」
『そうさ、我らは穢れている。なんせ我は穢れそのものなのだからな』
 衝撃で倒れたフリーデリケが、金属を切るような不気味な笑い声を上げた。ヴァレンチナは一瞬何が可笑しいのか解らなかったが、指の感触でそれに気がついた。
 目を丸くした。動作呪文に使う左指が、まるで像の皮膚のように変形しているではないか。
 皮膚表面が分厚く硬化しており、同時に激痛が走る。無理にでも動かそうとすれば出血し、これで呪文の詠唱は封じられた形となった。
 フリーデリケを突き飛ばした際に飛び散った物体が、彼女の指に付着したのだ。
『疫病の味はどうだ? かつて多くの人間を苦しめた疫病が、魔法的に強化されて毒性を増している。それに侵されたお前の体も、やがて腐って落ちるだろう』
「驚いたわ……病さえも武器にしようと言うのね。人を殺す方法としては最高に洗練されているわ。だけど……」
 次の瞬間、ヴァレンチナは驚くべき行動に出た。病に冒された自分の左手を、冷凍して氷に包んだのだ。これによって病原体の侵食を停止させ、患部の拡大を防いだがそれの代償は大きい。
 一瞬で超低温により冷凍したため痛みはそれほどでもなかったが、何よりも執念が痛み止めとして機能していただろう。
「私がためらうとでも思ったかしら」
『やせ我慢しないで死んでしまえばいいのに』
「この程度の痛み、我ら白魔術が受けてきた屈辱に比べれば雀の涙もいいところ。腕の1本や2本奪われたところで、私が諦めるわけにはいかない」
 ヴァレンチナは歯ぎしりをしながら笑顔を作る。ただでさえ白い彼女の肌は、いつの間にか青白く変色している。
 彼女はふと思いついた。フリーデリケはフランシスカに召喚されている悪魔だ。それならば白魔術の召喚術師と同じく、召喚者さえ殺せれば契約を強制解除できるのではないだろうか。
 彼女は倒れているフランシスカに目を向けた。血液を大量に失っていることと、凍えるような低気温によって行動することができず、術を行った場所で力なく倒れていた。
 ありとあらゆる魔術は完成されていない。何かしらの欠点があるし、戦術的な穴があることもある。フランシスカが行ったフリーデリケ召喚の儀式最大の欠点、それは術者が完全に無防備となることだった。
 人を殺すことを追求した殺人召喚魔法は、自分の命を顧みない捨て身の一撃に等しい。リターンを求めるあまりリスクを冒しすぎる、あまりに未熟な魔法であることにヴァレンチナは笑った。
 彼女は右手に持っていた杖を左手に持ち替える。左手は凍りついているために物を持つことはできないが、杖諸とも凍らせて固定することは可能だった。
 右手で動作呪文を完成。ナロードナヤ魔術「氷河」を発動した。
 次の瞬間、ヴァレンチナとフランシスカの間に青白い閃光が走り、大きい氷の粒が高密度で発生。閃光に添うようにそれは波のように発生し、氷河の如く巨大な物理エネルギーとしてフランシスカに向かう。
 直撃コース。幾重にも重なった分厚い氷の層が、フランシスカの体を削り潰しただろう。
 しかし、それはヴァレンチナの主観的な予想。現実にはフランシスカの肉片があるべき場所に、別の何かが盾となっていた。
 氷壁だった。分厚く何層にも積み重ねられた氷河のごとき壁。ヴァレンチナはそれが何なのかはすぐに理解した。
「氷壁……!? 馬鹿な、ナロードナヤの秘術がどうして?」
「もう止めるんだ、姉さん」
 透きとおった男の声。まるでゆっくりと凍らせた氷のように透き通っているが、氷のような冷たさは感じられない。ヴァレンチナはその声を聞いた瞬間、目の瞳孔が閉じていった。
 彼女にとって、一番居てほしくない人がそこには立っていたのだ。
「……ミロン? 何故、どうしてあなたが居るの?」
「止めにきたんだ、姉さんを」
 ミロンは氷壁魔法を解除すると、フランシスカを庇うように立ちはだかり、ヴァレンチナのものと同じアレキサンドライト宝玉の輝く杖を構えた。
「止める? 私が何をしたというの? そう、私達は何もしていない、何も悪くないのに人々に忌み嫌われていると言うのに、何もしないでいるわけにはいかないのよ」
「だから黒魔術師を殺すの? だから多くの人たちを殺して、僕たちが不幸であることを宣伝するの? たしかに母さんは憎むべき者を間違えるなとはいったけど、それが正しい保証なんてない。遺言は絶対じゃないんだ」
「そうね、遺言は絶対ではないわ。だけども論理は正しい。私達が人を憎む時は、必ずその対象が適切でなければならない。勿論黒魔術は我々白魔術の憎むべき対象として十分な罪を犯しているが、さらにそれよりも憎むべき対象が存在する。魔女狩りと言う世間の風潮を生みだした社会よ」
 まったくもって正しい理屈だった。魔女全体のイメージを失墜させた黒魔術の罪も重いが、元はと言えば勝手な解釈で白と黒を同一視し、勝手な被害妄想を作り上げていった人の群れ、社会こそが最も重い罪を背負っているのだ。
「集団はその集団内で正常とされている、思想や行動の方向性の平均からかけ離れたイレギュラー要素を排除することでその形を保っている。大学の時、アメリカへ留学した際にも肌で感じたわ。魔女狩りと同じようなことが、今でも確実に存在している。この国も多民族国家ではあるけれど、アメリカはさらに顕著だった。だから私は考えた。それが自然の摂理なら、吹雪や雪崩、厳しいツンドラ気候のようなものなら、私達人間はそれに”抗うこと”ができると」
「姉さんの言う”抗うこと”が、政府へのテロ行為につながると?」
「このまま何もしないわけにはいかない。黙ってたって、何も解決しないわ」
 ミロンはヴァレンチナの瞳を見て、その純粋さに驚いた。彼女には迷いがなかった。自分の行動が、絶対に正しいと断言できるくらい、まっすぐな瞳だった。
 人の恨み、それに対する報復と言う議題は道徳的な問題としてよく挙げられるが、今だに答えが出ていないし、これからも答えは出ないだろう。
 いつまでも堂々めぐり。ミロンはそんな事でも断言できる彼女に対して、次にかける言葉が思いつかなかった。
 答えが出ない物に対して、答えることはできない。答えたとしてもそれは感情論だ。
「さあ、そこを退くのよミロン。黒魔術の首領を血祭りにあげて、世界中に我等の力を知らしめてやるのだから」
 ミロンは選択を迫られたが、姉を止めると言う目的がある以上、退くと言う選択肢はすでになかった。よってこれは選択ではなく、決意でしかなかった。
 しかし、彼が決意するよりも早く、一つの結論を出し終えた者が居た。
 突然銃声が響く。目の前に集中していたミロンは銃声が何処から聞こえたのか一瞬判らなかったが、ワンテンポ遅れてすぐ傍からであることに気がついた。
 すぐ後方。倒れて動けないはずのフランシスカが、拳銃を持っていた。
 その銃口の先にあるのはヴァレンチナ。彼女は右足膝を打ち抜かれ、緊張の糸が切れたかのように崩れ落ちる。
 フランシスカがミロンを盾に、影からヴァレンチナを撃ったのだ。
「嗚呼ああああああああああああああああああああ」
 絶叫。言葉らしい言葉が出なかった。ヴァレンチナは四つん這いの状態となっていたが、さらにその隣に黒い影が立っている。フリーデリケがフランベルジュを振りかぶっていた。フランシスカの口が開く。
「憎しみの連鎖は断たれない」
『断つのはお前の首だからな』
 フランベルジュの歪んだ刃が振り下ろされる。ヴァレンチナの首筋に向かってそれは進み、表皮、真皮、脊髄に割って入る。わざと力を加減して苦痛を与えるのだ。
 歪んだ刃を前後させ、鋸でも扱うように剣を使う。血液を潤滑液として、脊髄の骨が削られる音がした。
 この世のものとは思えない痛みと首筋にある異物感で、顔面を血・涙・唾液・脂汗が汚した。
「貴様……この外道がああ、ああ、ああああ嗚呼」
『外道で結構。憎いなら殺せばいい、抗なうならそうすればいい、だけどもそれさえも自然の流れに含まれていることを忘れるな。そして……』
 フリーデリケが腕により一層の力をこめ、剣を引き、ヴァレンチナの首を落とした。
『悪魔に道徳を説かれても困るんだよ、ビッチ』
 ヴァレンチナの首が切り落とされ、冷たいアスファルトの地面に落ちた。言葉を発しようとするが、肺がないので息がない。彼女の首は意識が無くなるまで、フランシスカを睨もうと瞳を動かし続けていた。
 やがて、何も、言わなくなった。

 ミロンは首だけとなった姉の死体に駆け寄り、その頭を抱いた。顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「こんな終わり方って……あるのか。最初から今まで苦しんで、苦しんで死ぬのか」
「そんな終わり方もあるのさ」
 泣きながら姉だったものを抱きしめるミロンの後ろに、聞き覚えのない声がした。振り向くとそこには一匹の黒い山羊が、ミロンの瞳を覗いていた。
 その隣には見覚えのある姿の化け物。漆黒の4枚の翼を生やし、赤黒く硬化した皮膚を持つ魔王ヴェーデルハイムが、腕を組みながらあたりを見回していた。おおかた魔法学校も片付いたところなのだろう。
 奇妙にも黒い山羊は人語を話しているのだが、心身喪失しかけのミロンにとっては、そんなことはどうでもよかった。
「君の姉も、君も不幸だった。憎しみの泥沼の底にあるものは、また泥しかない。せめてもの供養だ、あの世までは送り届けて見せよう」
「あなたは……?」
「黒魔術宗派魔神長、魔神レオナール。数100名のテロリストの命を生贄とし、ここに参った」
 魔神長レオナール。彼こそがベスディーロイヤやその他黒魔術の頂点に立つ悪魔である。
 数100名のテロリストと言うのはもちろん、魔法学校を襲撃したホワイティスト達だろう。そんな高位な悪魔が、何故ミロンに気をかけているのかということに関しては真意がわからないが、とにかく彼はこの場で戦いを見ていたのだ。
「何故……黒と白はこんなにも憎み合ってしまったのか、悪魔にはわかりますか?」
「お互いが相容れない集団だったから、では不足かね」
「不足だ。僕は本当に憎むべき存在を知っている。あなた達だ、あなた達悪魔がいるから心の弱い者がそそのかされ、苦しみ、このように死んでゆく。ヘクセンだって被害者の一人だ」
「もっともな理由だ。我々悪魔が人々を苦しめるために活動することによって、君たち人間には辛い思いをさせている。だけどもそれは自然の摂理だ。我々は人を苦しめなければ滅んでしまう」
「知っていますよ。でも人には、集団には憎むべき対象が必要だ。僕等は何を憎めばいい?」
「我々を憎めばいい」レオナールは平然と答えた。
 ミロンはその返答に歯を食いしばってレオナールを睨みつける。だけどもそれは無駄なことだと気づき、ヴァレンチナの首を置いてフランシスカの下へと歩いて行った。
 召喚の限界時間が来ていたようで、何時の間にやらフリーデリケの姿は無かった。
 血だらけで倒れているフランシスカの呼吸はあったが、あまりに弱い。銃を撃てるくらいだから生きていることは確実だろうが、それでも瀕死に近い状態だ。フリーデリケ召喚に自分の命を賭けるとは、改めてベスディーロイヤ魔術の恐ろしさを知った。
 満身創痍。ミロンはそんな彼女に声をかけた。
「立てる?」
「……無理」
 切り裂かれた首には深い傷が残っていると思われたが、見てみると浅い切り傷しかなかった。どうやらヘマトフィリア人体破壊術によってつけられた傷口は、浅くとも大量の出血を強いるものの、魔法の効果が切れてしまえば単なるかすり傷程度にしかならないようだ。
 暖を取り、取るべき栄養を取り、安静にしていれば回復するだろう。髪の色も大量の魔力を消費したためか、アリスに良く似た金髪に変色していた。フリーデリケも既に単なる甲冑となり倒れている。
 しかし、妙だった。ここ一体の気温を下げている張本人が死亡したのにもかかわらず、周囲の気温は上がっていない。それ所か、ついさっきよりも低下している。
 何故か? そう、まだ終わってはいなかった。
「さて、最後に一仕事行こうか。レオナール」
「例の件での処置は後ほどということでいいのか?」
「査問会議は後回しだ。今はとりあえず目の前の犯罪者を捻りつぶそうか」
 ヴェーデルハイムは鋭い殺気を眼差しに乗せ、それをヴァレンチナの死体へ向けた。
 見ると死体は先ほどまでは無かった霜が下りており、原型が判らない雪の塊と化していた。すると雪の塊が上の部分から徐々に裂け、凍りついた死体から白い靄が這い出てきた。
 その白い靄はやがて雪の結晶に似た羽を広げ、無数の根のような突起物を持った何かに変貌する。白く美しい、前衛的な氷の工芸作品ともとれるその姿は、クリオネにも似た妖精に見えた。
『童の都を荒らすものは誰だ』氷の妖精は声を発した。
「我が名はヴァン=ヴェーデルハイム=ヴェンデッタ、誇り高き魔界の王である。ちなみにここはお前の都ではない」
『ヴェーデルハイムだと? ああ、人間界に封印された腰抜けの王様か』
「黙れ、裏切り者のナロードナヤ。貴様は魔界最高権力者である私の許可なく、規定数以上の人間を死に至らしめた。これは魔界憲法第13条『人間界における人類の乱獲制限』について、貴様は年間100人のところを一日で1000人以上殺したので違反する。これに対して貴様には拘束封印500年の刑を執行する。意義は認めん」
『異議あり。童はすで300年前、魔界永住権を捨てて人間界の精霊となることを宣言している。よって魔界の理に縛られること無し。以上』
 精霊は人間界へ移住した悪魔だったのだ。彼らが人間界に移住した理由は様々だが、中には魔界法を犯したものや、魔王への服従を拒んだものも居る。
 魔界において彼らは同族と争うことなど無益であるため、人間界へ移り住んだのだ。
 精霊ナロードナヤはその中の一人で、数百年前にロシアのナロードナヤ山に守護精霊として降臨した。それ以来彼は冷気の力を人間に与え、自分が住みやすい環境を作らせていたのだ。
 所詮白も黒も、信仰する対象に代わりは無かった。
「了解。では魔界憲法第2条『敵対者の排除』により、精霊ナロードナヤを魔族全体の敵となる対象として認定。力による排除を執行する」
 ヴァンは徐に背負っていた「バレットM82A2」を手に取り、同時に4枚の翼を同時に羽ばたかせ、音速でナロードナヤに接近。ソニックブームを発しながら、銃口をナロードナヤ胸に押し当てそのままトリガーを引いた。
 マズルブレーキが取り外されていた銃口からは高熱のマズルフラッシュと共に大口径の鉄鋼弾が射出され、氷の体が無数のダイヤモンドダストを散らす。立て続けにトリガーを3回、4回と引き続け、マガジンが空になるまで打ち尽くす。
 空気中に舞った宝石が輝く。だがそれだけだった。ナロードナヤの体は見た目の通り氷でできており、強大な冷気魔法の集合体であるその体は、僅かに漂う水蒸気を貪欲に吸収・冷却し、体を補修した。
 だがそれでも一瞬のうちに補修される訳ではなく、一度に11発の鉄鋼弾を受けた氷の装甲は薄くなっていた。
 ヴァンはそれを見逃さない。鋭利な爪を突き立てて、その氷の内を抉ろうとした。
 人ならざる物であるナロードナヤも負けじと、到底人には反応できないような速度でヴァンの腕を押さえた。それによって爪が体に届かない。
 そのまま腕を急速冷却、空気中の水分を接触部分に凝固させ、ヴァンの腕を氷で固定した。
 続いてナロードナヤは口と思われる部分を大きく開き、青白く輝く息を吹きかけた。その息に触れるや否や、ヴァンの硬化した皮膚には霜が降り始め、急激な温度変化による歪みが発生し、ひび割れ、金属が曲げられて唸る不快な音が響いた。
 しかしナロードナヤの敵はヴァンだけではない。黒い羊のレオナールがナロードナヤに向かって眼を見開き、その口で呪文を唱え始めた。
『この世で熱く滾る全てのものよ。その熱を我が眼前に集め、収束し、燃える煉獄を見せよ』
 するとナロードナヤの周囲1メートルほどの地面が赤熱しだし、やがてその氷の体から水蒸気が立ち上り始めた。
 赤熱した地面はさらに温度を高めてゆき、コンクリートのコールタールが発火。ナロードナヤは炎の壁に包まれた。
『童を溶かす気か? 甘いわ、童の体はその程度の業火など諸ともしないわ。魔王も封印されていればこれほどまでに弱いとは、お前を殺して童が魔王になるのも一考だな』
「そうか、それもいいと思うぞ。仮に殺せたらの話だが」
 彼は温度変化による氷に入ったひびを見逃さなかった。
 ヴァンは掴まれている腕とは違う方の腕を振りかぶり、ナロードナヤの胸にあるひびに向かってパンチを繰り出す。するとひびが入った個所から白い筋が伸びてゆき、体全体が細かいひびで覆われた。すぐさま拳を開いて指に力を入れると、ひびの入った個所から体内に腕を入れた。貫通。
 同時に三つ編みにされていた毛髪のように微細な触手が放たれ、鋼に迫る強度を持つそれが、ひびというひびから侵入し、ナロードナヤは無数の鋼線で串刺しにされたような形になった。
『拘束封印術式開始。魔法陣展開、魔力収束、対象”ナロードナヤ”。魂の主導権剥奪、器を我の手に』
 ヴァンはヴァレンチナが持っていたアレキサンドライト宝玉の杖を触手で拾うと、それをナロードナヤにあてがう。するとナロードナヤの体が、青白い光に包まれ始めた。
「ヴェーデルハイム、お前……こんな物に童を封印するつもりか」
「貴様のような低俗精霊には、人間の道具になるのがお似合いだ。これ以上ない屈辱だろう?」
「非道なりヴェーデルハイム! 童は自由なり……、絶対に拘束される訳にはいかぬ!」
 もがいて拘束から逃れようとするナロードナヤだが、絡んだ触手は南京錠の如く固定し、決して逃がすことは無い。それに対してヴァンは苛立ちを覚え、ナロードナヤの顔面に強烈なストレートをお見舞いした。
 入っていたひびが亀裂へと変わり、それは無数の根を作るように拡散。氷の体は一瞬にして割れ散り、ダイヤモンドダストの如く煌びやかな塵となった。
 塵は周囲に拡散することなくアレキサンドライト宝玉へと吸いつけられ、塊として宝玉に凍りつく。
 先ほどまでの喧騒が嘘のように、サンクトペテルブルクに再びの静寂が訪れた。
「Nichts bleibt fur dich」

 静寂が訪れたはずの街だったが、まもなくそれは去ってしまった。
 ヴァレンチナの魔法によるサンクトペテルブルクの被害は甚大で、凍傷や路面凍結によるスリップ事故による死者1100名、低体温症などによる重症者4000名以上、軽傷者はそれを遥かに超える。
 物的被害も大きく、水道管の破裂による被害が特に多い。他にも急激な温度変化による建造物の破損も見られ、海上が氷で覆われたことによる漁業への影響も今後心配されるだろう。
 聖ペテロの街は今までになく荒れ果ててしまった。
 低体温症で倒れた兵士たちを、軍の救護班が介抱している。最前線で戦った兵士たちの中には凍傷になりかけた者たちもおり、迅速な対応が求められた。そのせいでクロンシュタット軍港は喧騒に包まれている。
 もちろん死亡した者もいた。唯一の戦死者、ベスディーロイヤ総代、アリス=リデルである。
 温度を失った体には白い布がかけられ、周囲には彼女を慕う者たち、ベスディーロイヤ娼婦隊や他の黒魔術宗派代表者に悲壮な時が訪れている。
 周囲には死者を確実に冥界へと送り届けるための魔法陣が描かれ、数名の魔女達が非常に長い呪文を詠唱している。魔法陣の線は僅かではあるが青緑色に発光し、黒魔術とは思えない安らかな魔法だった。
 もっとも彼女に近い存在とされるフランシスカは激しく体力を消耗し、泣くこともなく、嘆くわけでもなく、ただただ彼女の死体を見つめていた。
 涙は見せない。最後に止めを刺した時からその覚悟は出来ていたのだから。
 哀愁漂うそんな中、2つの影が港湾のベンチに座りながら水平線から昇る朝日を眺めていた。
「査問会議はいつにするんだ? ヴェーデルハイム」
「今でいいさ、今この場で俺に事の真相を教えてくれればそれでいい。アリス=リデルは何を犯したんだ」
 オルギアンパブの一件の時、ヴァンはある一つの懸案事項について考えていた。
 それはアリス=リデルとメフィストフェーレスの間に交わされた「不老契約」の代償についてのことである。
 アリスはメフィストと契約することによって黒魔術を使えるようになると同時に、寿命が来るか外的要因によって死ぬまで10歳の健康な体を保つことができる。その代償として生殖器の機能を停止し、受胎能力を奪われている。
 そこで問題になったのがフランシスカと言う出所不明のベスディーロイヤ総代後継者の存在である。
 戸籍上では機密のためにアリスの養子の娘と言うことになっているが、実際のところはアリスは養子など取っていない。そしてフランシスカも、戸籍上の親は架空の人物だ。
 だからフランシスカとアリスの間には何の血縁関係がないことになる。しかし、二人はあまりにも似すぎていた。
 ”魔女”フランシスカ。彼女の容姿は魔力の汚染による蒼い髪と、右目にした眼帯が特徴だが、それを除けばアリスと瓜二つの姿をしている。そこでオルギアンパブからホワイティストに盗まれた、ある資料が一つの可能性を示す。
 盗まれたのはアリスの体細胞に関するデータと、不老細胞に関するデータ。これが何を意味するかと言うと、フランシスカがアリスのクローンである可能性と、不老のメカニズム解析だった。
 果たしてそんなことが可能なのかという疑問を抱かざるをえないが、実際にクローンとしか思えないフランシスカと言う存在がある。不老のメカニズムを解析するだけでも契約に反すると言うのに、実質的な自分の”子”を作っている。しかもその件に関して魔神長レオナールから、ヴァンへ報告がなされなかったと言うから驚きだ。
 ヴァンはそのことについてレオナールに問いたかった。
「正直に話そう。実は私の部署で人間と悪魔のハイブリッドを生み出す実験を、ベスディーロイヤの魔法研究機関と共同で行っていた。これは一悪魔生物学研究者としての活動だったが、やがて研究が進んでゆくとある可能性が浮上した」
「ある可能性?」
「不老契約を行った人間の細胞を使えば、ハイブリッドが作れる可能性があった。だがそんな契約を結べる人間は少ない。だから私はリデルに実験台にならないかと持ちかけたのだ」
「なるほど……ではフランシスカというのは悪魔と人間のハイブリッドと言うわけか? いや、そんなはずは無い。あれには悪魔の匂いがしなかった。紛れもなく人間であるはずだ」
「彼女は人間だよ。何故なら私の研究は失敗に終わったからだ」
「何? 失敗したならばあの少女は何だ」
「リデルの子宮から摘出した、不活性卵子に私の細胞片を融合した。その後受精卵をアリスの腹に戻し、出産させたのだ。その結果一人の人間が生まれたのだが、一人の人間には一人の悪魔が内包していたのだ」
「奇形児か……」
「ああ、フランシスカの眼窩内に、神経しか持たない悪魔フリーデリケが癒着していた」
 人間でも遺伝子的な異常や、有害物質による奇形児が生まれる例はいくつもある。この場合は本来交わることのない種族間で子を作ろうとした結果、水と油のように分離してしまったのだろう。
 しかも母体となるアリスは受胎能力を失っている影響から、ホルモンバランスなどの関係で子供が子宮内で正常な成長を遂げていない可能性がある。
 さまざまな要因が重なって、人間のフランシスカと悪魔のフリーデリケと言う前代未聞の姉妹が誕生したのだ。
「フランシスカの魔力耐力・吸蔵量共に素晴らしかったが、悪魔フリーデリケ単体では何の力も持つことはできないひ弱なものだった。持てる魔力は私と同等かそれ以上だったが、自らエネルギーを得ることができないため、フランシスカの眼窩内か他の生物の体内でしか生きていられない。そのため、今に至るまでフランシスカの右目に癒着させておいたのだ」
「結果的にお前は、悪魔に匹敵する魔力耐力を持つ人間を作り、悪魔として不完全な生物を作り出してしまったわけか」
「……黙っていてすまない、ヴェーデルハイム。魔界憲法を犯したのだから、私はどのような罰も甘んじて受けよう」
 レオナールは自分の頭をヴァンに向け、ゆっくりとそれを地に下げた。忠誠を誓いつつも、自分を殺そうがどうしようが構わないと言う心の現れであった。
 ヴァンはそこでベンチから立ち上がり、レオナールを見下ろす。
「判決を下す。悪魔レオナールは魔界憲法第19条『人間への過剰な力の付与』に反したため、人間界への5年間拘束の刑に処する」
 レオナールは思わず顔を上げた。重大な憲法違反だと言うのに余りにも刑が軽すぎるのだ。生きてきた数千年のうちのたった5年間、人間界で暮らすだけでよいのだ。
「良いのか? たった5年間で」
「ベスディーロイヤの総代が死んだ今、組織を支えられるのはお前と、お前の娘だけだ。あの魔術宗派は俺の復活に必要不可欠であり、今失うことは非常に惜しい。せめてフランシスカが一人前になるまで、あれを支えてやってくれ」
「……御意。我らが王の意のままに」
 ヴァンはそのままベンチに座り、足を組みながら笑みを浮かべた。その笑みは何かを楽しみに心躍らせているようなもので、芸術品のような美しさがあった。
「それにこれは単なる私の直感だが、この5年以内に今までにない変化が訪れるような気がするのだ」
「変化と言うと?」
「レオナール、アリスの不死細胞調査資料が何処へ流れたか知っているか?」
「ホワイティストが奪ったのだろう? 彼らが持っているのではないのか」
「ないんだよ。ホワイティストはあれを奪取した後、アフガニスタンの某小規模テロ組織に引き渡した。そして期を待ったかのように、すぐさまそのテロ組織はアメリカ軍により殲滅された。おまけにホワイティストの使った魔力吸蔵触媒が、最近アメリカの魔法研究機関で開発された物だったのだ」
 ヴァンは堪えるような笑い声を上げた。この事件の関連性を考えれば考えるほど、実に面白い真相が想像できるからだ。
 思わずレオナールも笑い出してしまう。あまりにも面白すぎた。
「これは傑作だ……。80年ぶりにアルマゲドンを見れるかもしれんな」
「そうだろうレオナール。魔法と科学が入り乱れる、歴史上初にして最大の大戦がな……」
 その後二人は日が暮れるまで笑い続けた。
 酷く禍々しい、大いなる歓喜によって。

 ――2週間後。セルビア王国ズレニャニン、ベチケレク旧市街。

 薄暗い地下都市の隅々まで、美しい鐘の音が響いた。
 修復作業が完了したため、ズレニャニン秘密魔法学校の新学期が始まったのだ。
 鐘の音は市街中央部に位置する巨大な校舎から響いており、通称「パーヴェルの鐘」は数百年の間、地下都市の象徴として鳴り続けている。薄暗くて狭苦しいこの地下都市に住む魔術師にとって、その音はある種の精神安定剤として機能していた。ある人はなつかしき学生時代を思い出しながら、ある人は荒んでしまって自分の心を洗い流すために、その鐘の音に耳を傾けている。黒い煉瓦で積み重ねられた漆黒の校舎と鐘の音は、このベチケレク旧市街のシンボルである。その黒い校舎の上層階にあるバルコニーから、薄暗い魔法都市を眺める少女が一人。フランシスカが新学期に合わせて帰国し、魔法学校に登校していた。
「………………」
 フリーデリケは術式によりフランベルジュの甲冑内に移ったため、右目につけられていた眼帯は取り外されている。その代りに雑菌が入らないよう包帯でおおってあり、そもそも眼球がないため、いずれまた眼帯をつけることにはなるだろう。
 ホワイティストの一件は終了した。ロシアで開催されたシナゴーグ・サミットは魔神レオナールの召喚と共に成功し、各魔術宗派は契約の更新を履行できた。
 RHKはそれに合わせてロシア国内から撤退。不穏分子の沈静化に成功したロシア政府は、当初の予定通り軍特殊部隊へ黒魔術を導入。知る限り世界初の正規魔術軍が誕生した。
 セルビア王国は多額の報酬と信頼を得て、作戦は成功した。アリス=リデルの死亡は黒魔術界にとって非常に惜しいことだったが、現ベスディーロイヤ総代のフランシスカがその栄光を伝えるだろう。
 一魔術宗派の代表として、彼女の、たった一人の娘として。
 彼女はベンチに座り、分厚い魔道書を黙読する。学校に制服の指定は無い。フード付きの暗いコートに身を包んだ彼女は、その暗い雰囲気から人寄せ付けない。そのため、授業がない時間は基本的にこの場所で一人でいることを好む。
 だけども今日はちがう。登校してすぐに自分のロッカーを開けたところ、中から一枚の手紙がこぼれおちた。
 その手紙にはフランシスカ宛てで、放課後にこのバルコニーに来るようにと書いてあった。
 怪しい手紙だったが、手紙の差出人が誰かという興味の方が勝った。だからこうやって魔道書を読みつつも、神経を尖らせながら差出人の接近を出来るだけ早く感知しようとしている。
 そして時は来る。バルコニーへ出るためのドアに人の気配がしたため、全神経をその方向へ集中させた。
 ドアノブに手を当てて、回転。建てつけの悪いドアの扉が唸りを上げ、それは開かれる。
 ドアの暗がりから一人の少年が歩いてきた。
 限りなく白に近い金色に輝くウェーブのかかった髪。北方スラブ系民族の特徴である消えそうなくらい青く透き通った蒼の瞳。顔立ちはモデルかと思うくらい整っており、中性的で男らしくは無いが、放つ魔力の強さは確かなものだ。そして、手に持った背丈ほどの杖の先端には暗緑色のアレキサンドライト宝玉が輝いていることから、ロシアの魔術宗派「ナロードナヤ魔術」の者であることがわかる。
 フランシスカのうつろな目が見開かれた。まさかここにいるとは思わないような人物だった。
 紛れもなく、白魔術師ミロン=アファナシエフだ。
「また会えたね、ヘクセンさん」
 思わずフランシスカは魔道書を閉じた。
 ミロンが歩いてきた。確かにその顔はロシアの魔法学校で見たものと同じである。そして彼はまるでフランシスカに会えるのを楽しみにしていたかのように微笑み、フランシスカの目の前に立つ。
「……どういうつもり?」
「君に伝えたいことがあったから、僕はこの国まで君を追ってきたんだ。あの時はその、忙しくて伝えられなかったけど、今なら伝えられる」
 ミロンは一回、2回と深呼吸する。そして精神を落ち着かせ、震える唇を動かした。
「……君が、好きなんだ」
 静かな地下空洞が更なる静寂に包まれる。同時に、フランシスカの虚ろな目が、今までになく大きく見開かれた。
 頬の筋肉の緊張が緩み、口が開いた。突然の言葉にあらゆる思考が交錯し、乱立し、意味消失し、混乱する。
 何故彼がそんな言葉を口にするのか、フランシスカには全く理解できなかったし、それに対してどんな言葉を返せばいいのかも解らなかった。
 何故彼がそんな言葉を発するのか、事情はどうであれ実の姉を殺した女に何故そんなことを思うのか、彼女は思考を巡らせた揚句に答えを出すことはできなかった。
「初めて君を電車で見かけたとき、偶然目が合ったよね。あの時かな、君の持つ不思議なオーラに惹かれたのは。まあ端的に言うと、一目ぼれってものなんだと思う」
 ミロンは驚いて固まっているフランシスカに話を続ける。
「そして学校で君が黒魔術師だと知った時、これは運命だと感じた。黒を憎む姉を持ちながら、黒を愛してしまったことに」
「私は……あなたの姉を殺した……のだけど」
「あの状況では最適な行動だったと思う。君が姉を殺さなかったとしても、きっと僕が殺していた。そうでもしないと止めることはできなかった。だから……君を責めない。君に責任は無い」
 ミロンはあの場所で、ヴァレンチナの眼光に宿る確かな狂気を目の当たりにしていた。その眼光を受けてミロンは本能的に思ってしまったのだ。殺さなければ殺される、殺さなければ止められないと。
 あの時すでに彼女は人間ではなくなっていたと思う。体内に新型の魔法吸蔵触媒を大量に投与し、精霊ナロードナヤ本体を体に憑依させていたため、心と肉は半分ずつ別のものへ入れ替わっていたのだろう。
 だがそれでも血縁者を殺すと言う行為は相当の心理的ストレスが伴うが、彼はそれを耐えしのぐことができた。
 心優しき少年の皮をかぶった彼は、その外見に見合わず冷酷に慣れていたのだ。
「黒も白も関係ない。僕等は相容れぬ存在ではない、と思うんだ」
「………そう」
 フランシスカは視線を彼からそらし、俯く。
 二人の間にしばらくの沈黙が訪れる。1分、3分、5分くらいはそれが続いた。
 長すぎる行間に不安を感じだしたミロンが口を開き、彼女へ問いかける。
「僕は……嫌いかな? 誰か焦がれる人でも? いや、すぐに答えられるわけないよね……」
 ミロンが気を落としながらドアノブに手をかけようとする。
 こんな大切なことを即答できはずは無いことは彼も分かっていたが、それでも平静を取り戻すことはできない。
 だけど彼の予想に反し、フランシスカが後ろから手を引いてきた。
「待って」
 ミロンは振り向く。そこで息のかかるくらい近くの彼女の顔を見て、彼は心臓が飛び跳ねる音を聞いた。
 引き止めた彼女は最初こそ彼の顔を見ていたが、徐々に首と視線が外に逸れる。迷いがそうさせた。
 だけども考えて、思慮して、考えた末に彼女は再び彼の顔を直視した。
「私は…………」
 そのままの口を開けたまま、次の言葉を出すか迷う。しかし今更口を閉じる訳にもいかず、彼女は彼にそれを伝える義務を感じた。
 この言葉で彼がどう思うかが、全てを判断するに足りる材料だった。
「私は……”Aoutoassassinophilia”なの」
「え?」
 ミロンは突然発せられた英語の意味が解らなかった。魔法学校でも英語教育はあったのだが、それでも聞きなれない言葉であった。
「オートアサシノフィリア?」
「自分が殺されそうになることに性的興奮を感じてしまう……マゾヒストを超えたマゾ嗜好。つまり……私は変態」
 ミロンは耳を疑うと同時に凍りついた。変態性欲のサディズムやマゾヒズムという言葉はミロンでも聞いたことはあるが、自分が殺されそうになることに性的興奮を覚えるというそれは初耳だった。
 ミロンは知らなかったが、元来ベスディーロイヤの魔術には、しばしば変態性欲の通称が用いられる。それは術の考案者たる魔術師が、その嗜好を持っていることに由来する。
 ベスの魔女は代々性欲が強い。そのあまりに強い性欲故に通常の刺激では満足できず、より刺激的で変態的な嗜好に走るのだ。
 そしてそれはフランシスカも例外ではなかった。
「あなたの姉さんと戦っている時、私は常に殺される恐怖にさらされ続けていた……。だけども私は……、むしろ興奮してた。体がうずいて、涎が止まらなくて、1分間に5回くらい達せた。杖を向けられたときなんか……意識が飛ぶかと思った。…………あなたはそんな変態でも愛せるの?」
 ミロンは驚きのあまり口が大きく開けっ放しになる。言葉が出ない。そのショックは姉を殺されたときに匹敵した。
 しばらく彼は自問自答を続けた。はたして彼女を愛せるのか、はたして彼女の求めるものに答えられるのか。
 ミロンは優しい少年だ。冷静さを併せ持つといえど、恋した少女に殺意を向けて、さらには殺してやろうと思うことは至難の技だろう。
 だが彼の決意は固かった。自分の趣味を赤裸々に語った彼女の顔が、あまりにも愛らしく、それでいてすぐに届く距離にある。
 ここまで来たら男は引けない。少年は愛のためにサディストとなることを決意した。
「き……君が変態なら、僕は大変態になってみせるよ!」
 二人の視線が水平に交差した。ミロンとフランシスカの距離は急速に縮まり、彼は彼女を強く抱いた。
 そう、彼女は絞め殺すくらいに強く抱いて見せた。
 対して少年は、これからどうしようと悩んでいた。