ep3

 人は自らと違うものを恐れ、排除しようとする。
 それは人間の歴史の上で幾度となく繰り返されたことで、あらゆる狂気の源である。
 ――あなたとは違う。
 その一言、それが全てだった。

 雪が降っていた。
 屋根にしんしんと降り積もった雪が自重に耐え切れずに、傾斜にまかせてその身を落としてゆく。その様はまるで落下傘、というには少し重過ぎる。
 長い間降り続けた雪の地層は見た目以上に重量があり、地面にそれが叩きつけられればその音は低く唸るようで、気を緩めていた時には何事かと窓を開けて様子を見てしまうだろう。しかしそれだけ降っていてもベオグラードは雪国というほどでもなく、積雪5メートルもないし除雪車もそう頻繁に通る物ではない。近所で雪かきをするくらいで問題ない。
 季節は完全な冬、月にすれば12月半ばを過ぎているどころか、今日はもう今年最後の日となっていた。
 城で行われた復興記念パーティからすでに3ヶ月ほど経っており、年末の忙しさはすでに山場を越えていた。
 一週間後に迫る正教会のクリスマスに向けて街には活気がついている。今年も無事に年を越せそうな雰囲気だ。
 約30分後に新しい年を控える深夜、一軒のバーから光が漏れている。新年を祝う宴会が行われているようだ。
 店内は楽しそうな会話が飛び交い、酒で景気づいた酔っ払いが馬鹿なことをしてはしゃぐ。このバーはセルビア正規軍の本部から程近い場所にあり、ランチタイムは軽食を主とするカフェテリア、夜はバーテンダーの見事なシェイカーさばきを観ることが出来るバーとなる。さらにセルビア正規軍の本部の近くにはベオグラード城、すなわちRHKインターナショナルの本部があり、その社員達もこのバーを良く利用していた。今日もちらほらとダークグリーンの軍服を着ている者が見える。
 そして仕事も一段落した今日は、RHK特殊部隊のメンバーもその酒場でアルコールを楽しんでいた。
「もうすぐ年も明けるな」
 騒乱の一年を振り返るように言う。
「そうだな、もう今年とはおさらばさ。街はぶっ壊されるし、魔王にはこき使われるし、何より彼女一人できやしなかった」
 宴会のメンバーは3人。ベルモンドとヨハネス、そして何故か街の酒場で酒が飲みたいと言い出した魔王ヴァン。
 ヴァンは結構祝い事やらイベントは好きなようで、人間相手でも構わず首を突っ込んできたりする。彼は見知らぬ人間には非情だが、部下は別でそれなりの態度を取っているのだ。
「魔王ともあろう者が、こんなところで人間と宴会をやっていて楽しいのか?」
 ヨハネスは今まさに鋭いツッコミを入れる。しかし、ヴァンはそれをおどけた態度で返した。
「部下であるお前達は言わば飼い犬、飼い犬を気遣ってやるのは飼い主の役目だろう?」
「それはどうも。他の人間はどういう扱いなんだか」
「他の人間は豚と変わらない家畜同然だ。そうだ、今度からお前達と区別するようにどうでもいい人間のことを『豚人間』、とでも呼んでおこうか」
 自分達を指しているわけではないとはいえ、人間を豚同然と言い切る様はまさに魔王である。
 ヨハネスは彼に人間の常識が通用しないことを再確認すると、ストレスを感じる訳でなくただただ呆れるだけだった。
 ふとウォッカを飲んでいたベルモンドが動く、よりによってヴァンの肩に腕をかけてきた。
 ウォッカは東欧やロシアで良く飲まれている蒸留酒で、かなりアルコール度数が高い。それをベルモンドはすでに1ボトル飲み干していたようで、かなり酒が回っていることが覗える。
「よーし、酒が回ってきたところで魔王とぶっちゃけトーク開始だ。ヴァンさんよー、あんた姫様と一つ屋根の下で暮らしてんだろ?」
「ああ、ベオグラード城はあいつの城であり、同時に俺の城でもあるからな」
「そこでだ。姫様のプライベート暴露話でもしてくれよ」
 酒が回って勢いに乗りすぎているベルモンドはもはや誰にも止められない。動き出した欲望が戦車のようにモラルを蹂躙してゆく。
「ふふ、いいだろう。……そういえば先日ルミナスよりも朝早く目覚めてしまった時があってな、ちょっとした悪戯をしてやろうと思って部屋に侵入した事があった」
「むっほーっ、姫様の丸裸プライベートルームか! そしてベッドの上には布切れ同然ネグリジェ姿の姫様の肢体がぁああ!?」今にも鼻血を噴出しそうなテンション。
「まあ、ネグリジェ姿だったな。それで俺は気持ちよさそうな寝顔を歪めてやりたいと思って、奴の手足に手錠をかけてベッドにくくり付けたのだ」
「手錠プレイか……あんたも中々良い趣味してるじゃねえか」
「その後奴が目覚めた時にはそれはもう腹がよじれるほど面白かった。いつも強気な態度だが、中々可愛い悲鳴を上げるんだこれが……」
 思い出し笑いで口を歪めるヴァン。しかしベルモンドはその後のハレンチな悪戯を期待していたらしく、結局放置したという結末に少し落胆していた。
「おいおい、身動きが取れないところでパンツの色でも確認してくれれば良かったのに。あの豊満なバストだって、揉まなきゃ男の名が廃るってもんだぜ」
「…………人間のオスはこんなにも下劣だったか?」
 ヴァンはベルモンドのあまりの低俗さに呆れるを通り越して疑問を抱き、隣でカシューナッツをつまんでいるヨハネスに聞いた。彼も酒は飲んでいるのだが量は控えめで、殆んどしらふと言っていいような状態だ。
 酒に強いということもあるだろう。
「違う。酒が回っているとはいえ、彼は特別に下劣だ」
 寒い視線がベルモンドを突き刺す、が、本人は何のことやらと酒を飲み続けている。終いには近くの席に座っていた女性にも声をかける始末。初対面の相手に向かって「ホテル行こうぜ」などと言うのは正気の沙汰ではない。いや、実際正気ではないのだろう。余りにも酔いすぎている。
 そんな彼をヨハネスは力ずくで連れ戻し、椅子に無理やり座らせる。驚くべきことに次の瞬間にはいびきをかきながら寝ていた。やはりこの酔いつぶれ具合は尋常ではない、彼は酒癖が相当悪いようだ。
 ヨハネスが一息とばかりにウォッカの注がれたグラスに口をつける。透き通った水の中で氷がきらめく。
「こいつが大人しくなったから、やっとまともな話が出来る」
「宴会はまともな話をするものだったかな」
「酒の肴に変わりは無い。ところで、グルジアの仕事からもう3ヶ月経った訳だが――」
 ヴァンは少し楽しそうな話が出来そうだと期待して、手に持っていたグラスをテーブルに置く。
「あの国は今どうなっているんだろうな。ロシアと本格的な戦争になったことはニュースでも取り上げられているんだが」
「聞いたままで見たままだ。ロシア軍と傭兵部隊に蹂躙されている、何処にでもあるような、平凡で、ただ人が無駄死にするだけの地獄さ」
 グルジアはあの一件以来ロシアと本格的な戦争状態となった。いや、もはや戦争と呼ぶには酷い戦況で、実質ロシアがグルジアを侵略していると言ってもいい。
 政府は解体させられ、多くの兵士が捕虜となる。空も流通ルートも押さえられた八方塞がりの状態で、スムーズに行けばロシア側に都合良く選ばれた政治家による新政権が樹立し、晴れてグルジアはロシアの犬となるだろう。
 喧嘩を売るタイミングを見誤ったのだ。そしてRHKを雇うという選択肢も痛かった。全ての業はきっちりと仇で返り、身を滅ぼすことになった愚か者に成り下がる。
 世界的な大恐慌という世の中で誰も助けてくれない。結局は皆自分達が大事なのだ。
「ロシアはいい顧客だ、これからどんどん戦争をするだろう。そしてその戦争は新たなる戦争を生み、戦火を拡大させ、我々に仕事が回って来る。さらに得た金と戦闘データを元にして軍事技術を進歩させ、世界中に兵器を売ってさらに稼ぐわけだ」
「なるほど、道理で最近オブレノヴァツで大規模な工場の建設が始まったのか」
 ヴァンのセルビア復興プロジェクトはRHKだけではない。流石に傭兵業で稼ぐことの資金には限界があるため、得た資金と実践で得た兵器類のデータで軍事技術を発展させるのだ。
 ベオグラード近郊のオブレノヴァツでは大規模な工場が建設されているが、それは国内の兵器総合メーカー「ノヴィ・ベオグラード社(NB社)」の兵器開発プラントであり、日夜実践のデータを使って兵器開発に役立てる予定だ。
 兵器開発において実践のデータは不可欠であり、良い製品の開発には必ずユーザーからのフィードバックが無ければならない。たとえば厳しい気候の土地、砂漠や湿気の多い密林などでは武器の保全も難しくなってくる。そのために銃の設計は防塵・防湿などに気を遣わなければならない。理想としては、どちらにでも対応できれば兵器として汎用性が上がる。しかしそのような改善を施したところで実際に使ってみた人間が「使いにくい」と一蹴してしまえば、結局商品として魅力のあるものではなくなる。
 最後の最後は必ず人間が判断するのだ、工学的理論やコンピュータではない。
 例としてアメリカは様々な国のトラブルに軍事介入することによってデータを獲ている節があるが、ヴァンはまさにそれを模倣していた。違いといえばそれが傭兵として戦闘に参加することくらいか。
「随分と考えているんだな」
「ルミナスに国を救えと頼まれたんだ、契約をしている限り俺はそれを全うする」
 悪魔は恐ろしい、だがそれゆえに、味方につけてこれほど頼もしいものはない。ヨハネスは神父というだけあって最初はヴァンに嫌悪感を持っていたが、今は不思議とそうは思わなくなっている。
 確かにやっていることは鬼畜だが、戦争で鬼畜も糞もないことは兵士である彼がよく知っていた。
 ヴァンは話せる存在だが、本当に恐ろしいのは分かり合えなくて、話の通じない相手だ。今ここで魔王と宴会をしている、それが何よりの証拠だ。ヨハネスはそんなことを考えながら、グラスにウォッカを注ぐ。
 ふと街が騒がしくなった。時計の針に目をやると深夜0時を回っている、年が明けたようだ。
 バーに置かれているテレビでは年末のカウントダウン番組が放映されており、ハッピーニューイヤーと賑やかな映像が映されている。騒乱の年が明け、新たな年が来る。けれどもこの国にとっては今年こそが転換の年となるだろう。来るべき仕事のために、景気付けの一杯を飲み干した。
「さあ、年も明けたしお開きにしようか」
「そうだな。酔いつぶれて面倒な奴もいるしな」
 眠っていたベルモンドが周りの喧騒で目を覚まし、うつろな瞳をどことなく向けた。
「気持ちわりぃ、まじやべえ。うぇっ……」
 完全な泥酔状態だ、早くつれて帰らないとこの場で吐くだろう。それは店主に文句を言われるだろうから、迅速に行動を起こさなければならない。
 ヨハネスはコートを羽織って席を立ち、バーのマスターに金を払って酔い潰れたベルモンドの肩を持って店を出る。ヴァンも同じく金を払い、2人と共に出て行った。
 外は相変わらず雪が降っている。歩道に積もった雪は容易く酔っ払いの足をすくいそうで、とてもベルモンドが一人で帰れるような状態ではない。
 神父ヨハネスは少し迷ったが、この前の活躍もあって慈悲をかけることにした。
「ベルモンドは私が連れてゆく。このままじゃ雪だるまになってしまうだろうからな」
「いいじゃないか雪だるま、いっそ蝋人形にでもしてやろうか」
「冗談はやめろよ。と、いうわけで次の仕事で会おう」
「休暇はクリスマス明けまでだ、忘れるなよ?」
 ヨハネスはベルモンドを肩で担ぎつつも、手を振りながら白い街へ消えていった。
 ヴァンは雪の降り続ける夜空を見上げる。彼もそろそろ城へ帰ろうと思い、その足を繁華街とは逆の方向へ運ぶ。
 彼の息には水分が含まれていない様で、低温でも白くない。尖がり帽子も明らかに異様な風貌なのだが、道行く人々にとっては些細なことだった。視線を受けることはあっても、指を指されることは無い。
 人が行きかう繁華街、数ヶ月前はここにいる人々も破壊された街の修復で身を削らせていたのだろう。だが彼が目覚めその力を行使し、復興の後押しをしたことでこのような年末を過ごせているのだ。
 大半の人間はそんなことも知らずに笑っている、いや、笑っていられるのだ。彼は白く光る街を歩きながら、数千年前のことを思い出す。あれからここまで人は発展してきたのかと、人間の力を改めて思い知らされた。
 しかし悪魔であるヴァンにとって人々の笑顔はそれ程気分の良いものではなく、足早にこの場を離れたいという気持ちがあった。人の幸せは彼にとって毒でしかない。
 足を動かす周期を短くする。しばらく歩いていると特に人が多く通る大通りに出た、ここでは酒場などの店は少なく、服屋等の店のほうが多い。いつもはこの時間ならこうまで人が多く行き交う事は無いが、今は年明けだけあって多くの人が眠るのを後回しにしている。
 だがそれもまもなく止めるだろう、もう年は明けたのだから。
 しかしそこで思いもよらない出来事に遭遇する。
「マッチは要りませんか?」
 ふと声をかけられるヴァン。声のするほうを向くと、そこには一人の少女が居た。
 フード付きのダッフルコートを被り、その綺麗な青色の瞳がフードの陰から覗いている。年齢はその低めの身長と声質からして何処かあどけなさの残るもので、おそらく15か14歳辺りが適当だろう。
 手には何の変哲も無いマッチ箱がある、それもその手にはめられているのは所々に解れた薄汚い手袋。
 周りに彼女の親と思われる人物も見当たらず、一人で立っているとしたら時間帯的にも場所的にも不適当だ。女の子一人がこんなところに居たら、よからぬことに巻き込まれる確立はもう酷い物だろう。
「おやおや、こんな時間に外を出歩くなんて。悪魔が君をさらいに来るぞ?」
「大歓迎よ。だって悪魔さんが私をさらいに来たら、悪魔さんにマッチが売れるかもしれないでしょ?」
 ポジティブかつ愚かな考えだ。人さらいに来た悪魔が、のん気に人間の話を聞くことすらありえないのに、マッチを買うなどという行為に走ることが無いのはヴァンが一番良く知っている。しかし子供の言う事であるならば、まあ可愛げがあっていいのかもしれない。
「で、買うの買わないの? こんな雪じゃマッチも入用でしょ?」
「お嬢さん、ガスストーブがあるのに何故マッチを買わなければいけないのかな」
「言い方が悪かったかも。これは『マッチ募金』、貧しい子供たちのためにマッチを買って募金するものなの。具体的な用途は主に明日の晩御飯かな?」
 面白い娘だとヴァンは思った。募金といいつつも用途は自分のためだと公言しているのだ。面白いと思って彼女が意図して言っているのか、それとも天然なのか。それだけではない、どうも彼女の笑顔からは深い悲しみに似た何かを感じ取れる。それはまるで仮面の裏に潜む素顔を隠すように。
 こんなにも可愛らしい笑顔がまるで作り物のようで、ヴァンはその仮面の裏にあるものを見てみたいという好奇心に駆られた。
「実はね、私は君のような可愛い女の子が大好物なんだ。私と一緒に楽しいことをしてくれるなら、そのマッチを全部買ってあげよう」
「本当? 全部買ってくれるの?」
 魚は食いついた。こんなところでこんな時間に出歩く非常識さを持つなら、悪い人と良い人の区別がそれ程はっきりとは見分けられないだろう。それを利用する以外無い。
「勿論。ちゃんと楽しいことをしてくれるなら、何千本でも買ってあげるよ」
「楽しいことって?」
「フフ……それはもう、そこはかとなく……、楽しいことだよ」
 少女は悩む素振りを一瞬見せたが、すぐにその澄んだ瞳をこちらに向けてきた。どうも餌を完全に飲み込んだようだ。ここから釣り上げるのはそれ程難しいことではない。
 此処最近は平和な時が続き、人を食う機会もそうそう無かった。特に肉の柔らかい女の子供を味わう機会はここ百年得られなかった。何よりも人間の姿のままでは固い大人の生肉など消化できないので、子供の肉くらいしか食べることはできない。
 こんな時間こんな所でマッチなど売っているのだ、どうせ孤児だろう。食ったところで誰も気がつきやしない。
 最近は人一人消えただけで周りが大騒ぎするために、うかつに人間を食うことは出来ないのだが、社会的に孤立している人物が消えたところで騒ぐ奴は居ないだろう。何事もばれなければ悪事ではないのだ。
 とにかく人目のつくこの場所では食事はできない、彼女の寝床に案内してもらおうと考えた。
「とりあえずここじゃ寒いな、どこか暖かいところに行きたいな」
「じゃあ家に来る? 風は防げると思うよ」
「いいのかい? じゃあお邪魔させてもらおうかな」
 少女に優しそうな笑顔を見せる。こういう場合は目をつぶって笑いかけたほうがいい、瞳の奥にある違和感を隠すことができるためだ。
 とりあえずはヴァンの思惑通りにことは運びそうだった。しかし一時たりとも油断はできない、なぜなら子供というのは大人よりも悪意を感じるのに長けているからだ。少しでも油断すれば己の悪意を感じ取られ、せっかくの飯が逃げてしまう。彼は早く悲鳴を聞きたい衝動を抑えつつ、笑顔を絶やさなかった。
「――――……」
 しばらく少女の案内について行くと、街の喧騒が徐々に遠くなってゆくのを感じる。
 繁華街から離れた平凡な住宅地。どの家もそれほど裕福そうなものではないし、特にアパートの類はお世辞にもすみたいとは思わないような汚いものばかりだ。
 繁華街で働く人々のベッドタウンといったところか、それほど歩いたわけではない。しかしこれは誤算だった。
 マッチなど売っているから孤児だと思っていたのだが、住宅街ということは列記とした家がある可能性が浮上する。
 もしかしたら公園のベンチという可能性もあるが、あんなところでは風が防げない。少なくとも少女は「風は防げる」と言っていたのだ、何らかの廃墟やらに住んでいるのかもしれない。
 しかしその不安要素は見事に現実となった。
「ここが私のお家だよ」
「……」
 古臭いアパートだった。空襲で無事だったのが奇跡のように思える。表札に書かれている文字は薄れて見えない。しかし確かな人の気配がした、確実に住人がいる。それも少女の保護者と言ったところだろう。
 ヴァンは予想外の事態に対応するべく、これからの行動予定をはじき出した。単純明快この場から去ればよい。
 だが事はすでに最悪の状況へ運んでいた。
「ただいま~。お姉ちゃん、お客さんだよー」
 すでに玄関のドアが開かれ、少女が待ちに待ったかのように駆け込んでゆく。
 まだ間に合う。少女がこちらから目を話した隙にアパートの屋根に飛び乗って姿を隠せば、少女は不思議に思うかもしれないが、この場をやり過ごすことができる。少女を食えないのは名残惜しいが、こんなことが表沙汰になったらルミナスになんと言われるか想像は容易い。
「こんな時間までどこへ行ってたの!? まさかまたマッチ売りの少女ごっこ?」
 ヴァンは今にも飛び上がりそうな足を止める。その声には聞き覚えがあった。
「今日も沢山売れたよー。みんなマッチ売りの少女を珍しがってくれるから、原価の10倍くらいで買ってくれたんだ。でも、何よりもこの人が全部買い取ってくれたんだよね」
「この人? お客さんってもしかして……」
 少女が視線をヴァンに戻し、入ってと言うかのように手招きした。玄関の向こうから人の気配が近づいてくる。もう逃げることは出来ない。しかし、声の主がヴァンの予想通りの人物であるならば逃げる必要は無かった。
「どうも妹が変なことを――って、えぇえっ?!」
「随分と薄汚れたアパートに住んでいるのだな、サラ=ジェンドリン」
 そこに立っていたのはエプロン姿のサラであった。
 とても驚いた様子で顔の筋肉から力が抜けており、口をぽかんと開けたまま立ち尽くしている。まさかヴァンが来るとは思っても見なかっただろう。しばらくその時間が続いた。サラは状況を整理するのに忙しく、声を発する余裕が無い。微妙な空気に少女は疑問を抱き、二人の顔を交互に見ている。
「……知り合い?」
「う、うん。軍の上官で、ヴェーデルハイムさんって言うの」
「ああ、お姉ちゃんが言ってたあの滅茶苦茶怖い魔王みたいな上官さんね。別に怖い人じゃなかったよ」
「まさか、悪魔なんて目じゃないくらいなのに」
「怖い人じゃないよ。だって私に笑いかけながら楽しいことをしようって、マッチ全部買ってくれたもん」
 サラの目が点になった。まさかあの残忍冷酷超猟奇的趣向の魔王ともあろう者が、人間の小娘ごときに優しくするはずがない。それは身近で彼と共に戦っている者であれば分かるのだ。
 悪魔が人にやさしく当たることがあるとすれば、一様にそれはよからぬ事を考えている。所詮笑顔の仮面を被っているだけに過ぎない。
「……ヴァンさん、一体何を――」
「気まぐれだ。俺がそういった性格であることはお前も知っているだろう? それにそもそも国内の人間には手を出すなとルミナスに言われている」
「さすがにそうですよねー。まあ良かったら上がっていってください、玄関は寒いですから」
 ヴァンは別に寒さなどをどうとも思っていないのだが、ここはサラの正直な考えかたに便乗して家に上がった。
 ここで引き返したら逆に怪しまれるし、何よりもサラの家庭というのは少し興味があった。
 兵士にしては優しすぎる性格に相反して時折発現する攻撃的な言動、その要因というのが少し解明できるかもしれない。
 サラの家族構成は履歴書を見る限り、父親一人に中学生の妹と弟が二人ずつ。セルビア正規軍の兵士だった母親は、サラが幼少のころにコソボ紛争で殉職。もともと住んでいた一軒家はモンテネグロ侵攻の際に空襲で焼かれ、現在はこのアパートで生活。アパートの室内は1LDKの狭い物で、家族4人が生活するにはいささか窮屈なように思える。彼女の父親はモンテネグロ軍の侵攻を受けた際の空爆で建物の下敷きになり、一命は取り留めたものの、下半身不随となって仕事を出来るような状態ではない。それどころか歩くことさえままならない状況だという。
 さらにはその父親がとある友人の連帯保証人になっていたのだが、その友人が蒸発してしまったために多額の借金を抱えているという、首が回らないどころの話ではない状況だ。
 ヴァンはリビングと言うには狭苦しい部屋に案内される。室内はすっきりと整理整頓が行き届いている。ぼろアパートの外観から想像したほど内装は傷んでいないが、お世辞にも綺麗な部屋とは言いがたい。
 隣の部屋へ続く扉が開いている。ヴァンはふと向こうに目をやると、中にはベッドに横たわる中年の男性が居た。
「こんな時間に来客とは、随分と珍しいですね」
「あなたがサラの父親か。どうも、私は彼女の上官でヴェーデルハイムと申します」
 ヴァンはとんがり帽子を取って軽く会釈した。別に敬意を払っているわけではないが、人間社会のマナーに則った方が色々とスムーズに事が運びやすい。特に礼儀正しい人間を装っておけば、大抵の人間はまともに返事を返してくれる。
 すると台所からお茶を汲んできたサラが、ヴァンにティーカップを差し出す。一緒に持ってきたもう一つのカップには白湯が入っているようで、彼女はそれを父親に錠剤と共に渡してあげる。どうやら医者から処方された薬のようだ。何の気休めになるのか知らないが。
「すまんな、サラ」
「いいから早く飲んで寝てくださいっ。これ以上起きてたら体に毒だよ」
「まあもうすぐ寝よう。ヴェーデルハイムさんが折角いらっしゃったんだ、彼とは話をしてみたい」
 父親の目には病人とは思えない強い光があった。サラの精神的な強さはこの親譲りなのかもしれない。
 彼は錠剤を湯で流し込んだ後、空いたマグカップをさらに手渡してヴァンの方を向いた。
「変に思うかもしれないが、ちょっと質問してもいいですか?」
「かまわない」
「たしか昔話に出てきた魔王が、あなたと同じヴェーデルハイムという名だったような気がするのですが、何かゆかりがあるのでしょうか」
 珍しく彼は昔話を語り継がれた人物のようだ。今ではもうほんの僅かな物好きでない限り知らないような伝説を、魔王の名前が分かるくらい詳細に知っているとは驚きだ。
 ヴァンは考える、もしかしたら彼には自分の姿を明かしてもいいのかもしれない。
 それにいい加減に隠し通せなくなってきている。サラが死人であるということは、長い時間共に生きている人間が察することはそう難しいことじゃない。匂い、目の色、言動、雰囲気。様々な要因から生きている人間とは違う何かを感じてしまう。何よりヴァンからの強力な魔力供給を受けているのだから、魔術に通じている人間でなくともその力はひしひしと伝わってくるだろう。
「よくそんな昔話を覚えているのだな。その通り、私が魔王ヴェーデルハイムだ」
「そうか、あなたがそうなのですか」
「随分とあっさり信じるのだな。もう少し疑ったらどうだ」
「いやいや。近所で得体の知れない化け物共がうろついているのを見たら、そう信じることは難しいことじゃないですよ。それに娘も何か変だしね」
 やはり気が付いていたようだ。流石に生きている人間を誤魔化すことは出来ない。
 どうもこの様子だと、サラが死体であることに父親が気づいていることを、彼女は全く知らないようだ。ちょうどサラも受け取ったカップを洗いにキッチンへ行っており、この会話が聞かれている恐れは無い。
「娘から生気が感じられないんだ。別に元気が無いというわけでは無さそうなのに、そこに居るという現実味が薄い。大体この前の戦闘で城の警備部隊はほぼ全滅したそうじゃないか」
 随分と詳しい情報を知っているようだった。サラは彼の感じたとおり、今は普通の人間ではない。
「いかにも。サラは一度戦闘で死亡しているが、彼女が血だらけで横たわっているところを私がグールに変えた」
 父親は一瞬寂しそうな目をサラに向けたが、それもすぐに止めてしまう。今目の前に居るのは家族のために汗水たらして働いてくれる、そんな健気な娘だった。まさか死んだとは思わなかったし、今もそうは思えない。
「あなたは一体、娘に何をさせているのですか?」
「聞きたいか?」ヴァンは鋭い目をさらに細めて父親を見る。
 この父親は娘が傭兵として殺しをさせていることを知ったら、どんなふうに反応するかと楽しみにしていた。
 だがここはあえて選択の自由を与える。全てはただの興味本位だ。
「いや、いいよ」父親はその視線をまっすぐ見つめながら答えた。
「何故だ?」
「サラは素直な子だ。小さいころから楽しいことも悩んでいることも全て私に話してくれたのに、最近仕事の話はめっきり聞かなくなった。生傷が絶えない仕事なのは判るが、彼女が自分から話してくれるまで、私も聞きはしない。きっと私を心配させまいとしているのだろう」
 良い父親であった。物事を娘の立場に立って行動し、言いたくないことは話すまで聞かない。
 最近は貧しさのあまり心まで貧しくなってしまった人が増えているが、少なくとも彼はそのうちには入っていないように思える。ヴァンは魔王でありながらも少し感心してしまった。ここで彼に話したとしても面白い結果は得られない、きっと娘を案じて知らないふりをする。
 ヴァンは人の心を抉るための言葉の爪を隠す。この人間は辛くとも不幸ではない。
「やはり血は争えないか。サラの背中が、ジナイーダに良く似てきている……」
 父親はヴァンにも聞こえないような声でつぶやき、サラの背中を見つめていた。亡き妻の姿がどうしても娘と重なるようで、いつか彼女も逝ってしまうのではないかと危惧している。
「ヴェーデルハイムさん、そろそろ眠いので部屋を閉めさせてもらっていいですか?」
「ああ、悪いな。お前に体調を崩されると、貴重な戦力がやる気をなくしてしまう。今日の夜は悪夢を見せないよう、夢魔に言いつけておいてやろう」
 父親は軽く会釈をして、ヴァンは部屋のドアを閉めてあげた。ドアのガラス窓越しに部屋の明かりが消える。
 ふと台所の流し台から水音が聞こえる、サラがそこで何やら作業しているようだが、こんな時間に家事とは普通に考えて遅すぎる。ヴァンは疑問に思って彼女の元へと行った。
「随分と遅くまで家事をしているな」
「このあと夜勤のパートが入ってるんですけど、今日の昼ごはんの準備とか溜まった洗い物をまとめてやっちゃうんです。こんな体になってから寝なくても大丈夫になったので、RHKの仕事が無い限りは毎日働いてるんですよ」
 普通の人間なら睡眠不足と過労で倒れてしまうところを、グールである彼女は平然とやってのける。
 RHKからの給料は国民の平均年収から見ても良い方だが、火の車であるこの家を維持するには難しいのだろう。
 同年代の若者と比べても、真面目で勤勉な彼女には国家勲章は与えられないものの、褒賞を与えるに値する人物といえよう。サラはそのまま黙々と作業を続け、時間に間に合うように行動する。
 ヴァンはふと面白いことを考える。彼女は実に勤勉で家族思いで、自らの命を天秤にかけてまで家を守ろうとする。
 しかし、彼女は果たして自分の『心』売ってまで人を守ろうとするだろうか?
 悪魔的好奇心が沸く、ヴァンはそれを試してみたくなった。
「サラ、金が欲しいか?」
「へ? 唐突になんですか?」
「結構割りのいい仕事を知ってるんだが、やる気があるなら紹介してやるぞ」
 ヴァンにも優しい面があることを知っているサラは、その誘いに興味を持つ。彼にもやはりいいところがあるのだと思った。しかし純粋なサラは気が付かなかった。彼は目を閉じている、それはつまり瞳の奥に潜む邪悪を隠すための行為に他ならない。ヴァンは彼女の妹を騙す時も笑みを絶やさないで居たが、今も同じ方法で彼女を乗せようとしている。
「どんな仕事なんですか?」
「ちょっとした客商売さ。可愛いお前なら適任だと思ってな」
「可愛いなんてぇ……そんな」
 皿を洗いながら気恥ずかしさに笑みをこぼす。ヴァンはそれとは全く違う意味で笑みをこぼす。
 彼女はこの後ヴァンの誘いにあっけなく乗ってしまい、夜勤の仕事が終わった後に指定の場所で待ち合わせをすることとなった。彼女は実に判りやすい思考をしているなと、ヴァンは思った。

 翌日、ズレニャニンの駅前。
 ここズレニャニンはセルビア王国領バナート最大の都市で、ヴォイヴォディナ州第3の都市である。また、セルビア第6位の都市でもあり、ズレニャニン秘密魔法学校の所在地としても有名。ベオグラードからは鉄道が延びており、この駅はズレニャニン中央に位置するものである。
 サラはそこに約束の10分ほど前に到着し、待ち合わせ場所である「英雄ジャルコ=ズレニャニン」の銅像前に立っていた。しばらく待つと向かってくる人の中でコートを着た男の姿が見えたが、目を凝らしてみると人違いであった。ヴァンは大抵黒いコートを着ているが、今日も着てくるという確証は無い。黒いコートくらい誰だって着ているだろうが、周りへ発せられるオーラのような雰囲気でなんとなくわかる。まだ予定時間の5分前、もう少し待っていればそのうち来るだろう。
 ふとエンジン音が近づいてくる。車のものとは違ってやや高音で、速度もなかなか速いようだ。そして駅前のロータリーに黒いスポーツバイクが停車した。乗っているのは黒いコートを着た髪の長い女性、頭には大きな尖がり帽子が存在感を示している。間違いなくその風貌はヴァンだった。
 サラはほぼ間違いないとしてその人に手を振った。
「ヴァンさーん!」
 声をかけられた彼女はサラの方向を向き、バイクを走らせて来た。長い三つ編みが宙にゆれる。
 クラッチ、ブレーキ。路肩に停車。スタンドを下ろしてかけていたゴーグルを外す。そこには確かに魔王の鋭い目が覗いていた。
「予定時間5分前。その様子だと待っていたようだな」
「いえ、今さっき着いたばかりですよ」
 午後22時、日没から随分と時間が経っていた。集まるには少し遅めの時間だ。
 女性の姿をしたヴァンは、体にフィットしたレザースーツの上にコートを羽織っている。スーツのラインが美しい体の曲線美を強調しており、セクシーな女の魅力を存分に振りまいていた。道行く人々がその姿に目を止めているのがわかる。
「早速目的地に行くぞ。仕事のある店はベチケレク旧市街にある」
「ベチケレク旧市街?」
「古い町だ、此処がセルビア領になる前から存在する。地図からは綺麗さっぱり消えているが無理も無い、なんせあのズレニャニン秘密魔法学校がある所なんだからな」
 古いセルビア語ではズレニャニンのことを「ベチケレク」または「ヴェリキ・ベチケレク」と言うが、勿論地図上にはしっかりとズレニャニンと記載されており、そんな名前の都市は何処にも存在しない。
 しかしヴァンは知っている。流れる時代の中に隠れた、秘密の、古の魔法都市を。
「へぇ……、今更ながらファンタジーですね。某ハリーなんとかを思い出します」
「駅のホームに入り口は無いけどな」
 軽いジョークで笑わせるヴァン。人間の見る映画もいつの間にか見ているらしい。彼曰く人間社会を制覇するためには、人間の作り出したエンターテイメントも理解しておく必要があるだとか。
「乗れ」ヴァンが後ろの二人乗り用座席に手を置いた。
「いいんですか?」
「かまわん」
 サラはその言葉に甘えてヴァンの後ろをまたいだ。ヴァンの指示通り腰周りにしっかりと手を回し、女二人のタンデムとなる。ウエストは細くくびれているが華奢ではない。彼女の背中から感じた体温は冷たかった、まるで金属のようだ。
 バイクを走らせて移動し、そしてちょうど街路樹に向き合う形に停車した。このまま発進すれば間違いなく正面衝突だが、おそらく何か意味のあることなのだろう。
「なんか街路樹にしては大きい木ですね」
 確かにこの木は街路樹にしてはかなり大きく、駅が出来る前からここにあるようだ。それも木の根は複雑な形状をしており、人が一人入っていけるほどのトンネルが形成されている。トンネルの奥は暗く見えないわけでもなく、土の色がそこにあった。深い穴では無いようだ。
『開けゴマ、認証番号00009V3』
 ヴァンは唐突にその一言を言う。何処かのアラビアンナイトで聴いたような言葉だ。
 すると木の根に変化があった、なんと土の色が見えていたはずのトンネルの奥が、暗くて見えなくなっているではないか。さっきは土の色が見える位に浅い穴だったのに、今では奥まで十分に光が届いていないほどの深さとなっているのだろうか。
「しっかりつかまっていろよ」
 そしてバイクはその暗がりに向かって走行し入ってゆく。アクセルを強く踏み、加速をつける。サラは思わず目をつぶった。
 視界、ブラックアウト。宙に浮くような感覚に包まれ、それでも足を着いている感触があった。異次元空間を体が高速で移動しているような、抽象的に神経が情報を伝えてしまう。
 風のにおいがする、そのにおいはさっきまでの駅前とは違った物だ。耳から入ってくる音も違う、雑音が変わった。此処が今さっきまで居た駅前とは違う物であることを表している。エンジン音が少し静かになる。ギアを上げて安定した走行状態を維持しているようだ。
「目を開けていいぞ」
 ヴァンがサラに声をかけた。そしてそれに答えるように彼女は下ろされていた瞼を上げる。
 そしてその瞳に写った景色は、彼女の想像を絶する物だった。
「凄い……夢見てるみたい……」
 流れる街並みは駅前のロータリーとはかけ離れたまるで異世界。その光景は現代とは思えないほど古い町並みで、サラが学生のころに学んだセルビア史で出てきたような建築物が立ち並んでいる。上を見上げるとそこは空ではなく暗闇で、日の光が入ってこないためにあちらこちらで松明が焚かれていた。しかしその松明の量は尋常ではなく、暗闇の中でも建物の輪郭がはっきりと見えている。相当な量の松明があるようだ。
 その割には空気は湿っていて気温も低いが、雪の降り積もっている外に比べれば比較的暖かい。これらの特徴からして、ここは地下空間だと推測できる。
「地下魔法都市ベチケレク。遠い昔、古の魔術を持つ者たちが身を潜めた、巨大地下空洞都市だ」
 過去、魔法使いたちはキリスト教の異端狩りから逃れるために、多くが森林や地下に逃げ込んだ。ファンタジーで魔女が森に潜んでいるのはこのためである。
 そしてセルビアの魔術師達も同様に、このような地下で生活することを余儀なくされた。今では魔女狩りなどは行われていないが、基本的に魔術は公に晒せる物ではないので、このように未だ地下に生活拠点を置いている物がほとんどである。
 サラは見るものすべてが珍しくて頻りにあたりを見渡す。特に前方に見える巨大な建造物に目を引かれた。
「あの、向こうに見える大きな建物は何ですか?」
「あれがセルビア唯一の魔法教育機関、ズレニャニン秘密魔法学校の校舎だ」
 ズレニャニン秘密魔法学校はおよそ800年前に大魔道士パーヴェルによって創設された。東欧はどちらかといえば白魔術よりも黒魔術のほうが発達しており、この魔法都市に住まう人々も黒魔術派の方が多い。
 西欧には数々の魔法に関する伝説が伝わるが、東欧にはそれが少ない。それには理由があり、一説では東欧黒魔術の徹底した秘密主義にあるといわれている。人前で術を使った場合、白魔術では単に破門だけで済んだが、黒魔術では極刑が通例だったとか。とにかく黒魔術は伝承での露出度が低い。しかし、その中でもベス・ディーロイヤ派は特殊だったらしい。
「あれ?」サラはヴァンの説明で一つの違和感に気がついた。
「確かその魔法学校ってモンテネグロ軍の空襲で破壊されたとか、フランシスカちゃんが言ってましたよね」
 思えば妙だった。なぜこんな地下空間にある建造物が空襲など受けるのだろうか。そもそも仮に攻撃を受けたとしても、こんな隠された場所をモンテネグロ軍は把握していたとでもいうのか。
「いいところに気がついたな。天井を見てみろ」
 サラは上に広がる闇に眼をやった。そこにはさっきと変わりなく地下空洞の何も見えない天井が見える。特に光は漏れていないし、地上の雪も入ってきている様子はない。
「今は何とか塞がれているが、当時はここに大穴ができていたんだ。空襲とは言ったものの、実際は天井が地上の爆撃に耐えきれず岩盤が落下し、その瓦礫で校舎が破損した。案外この天井と地表は近い」
 この地下空洞は魔法学校ができたころはこれほどまで大きいものではなかったが、学校周辺の市街発達に伴い魔術師達は空洞を拡大していった。
 結果、この地下空洞は地表近くまでこの天井を拡大。当時は掘削技術も発達していなかったため、魔術師達は魔法によって空洞の崩壊を防いでいた。一種の錬金術である。
 現在はさすがに鉄骨などで補強されているし、空洞の頂上には巨大な建造物を建設しないようにしている。
 しかし、大規模な爆撃などによる衝撃に対する信頼性はそれほど高いものではなかった。それが以前の軍事侵略で明らかとなる。まさにこの夢のような街は、夢のように儚い存在であった。
 だが問題はその強度ではない。正直なところ、街を破壊するための航空爆撃くらいで地面は陥没しないのだが、モンテネグロ軍は特に集中的に空間の直上に対して爆撃したのだ。おかげで強度限界を超える衝撃によって地盤陥没、今はもう空洞の上は人一人いない焼け野原のままである。
 そしてそこは重要な軍事拠点でも何でもない、ただ一般市民が住んでいるだけの住宅地でしかない。なのに何故そんなところにモンテネグロ軍は集中爆撃を行ったのか。
「魔法学校の位置情報が流出しているかもしれん。断言は出来ないが」
「ええ? そんな、ずっと昔から秘密にされてきたところなのに、簡単に見つかったりはしないんじゃ」
「単なる憶測だ。実は直上の住宅地には政治関係者が住んでいたらしいから、それを狙った可能性もある」
 確証などなかった。あの時モンテネグロ軍を指揮していた人間も、政府によってつい最近処刑されてしまっている。今となってはどうしようもないことで、場所が割れたからと言って空洞を移動するわけにもいかないし、少なくとも今のところは公にこの場所は広まっていないのだ。そのためヴァンはこの事案をそれ程重要には考えていない。
 バイクはやがて加速、流れる景色は早くなった。数分後、人が多く集まる商店街の近くにあるパーキングにバイクを止め、そこからは徒歩で移動することにした。人通りの多い場所では乗り物に乗ると危険だ。
 そしてヴァンはバイクを降りてすぐに携帯電話を取り出し、アドレス帳に登録された電話番号を選んで電話をかけた。つくづく適応力の高い魔王である。
「もしもし――今バエル通り南口付近のパーキングエリアだ。ああ、来い」
 少々命令口調となった最後から想像するに、相手は少なくとも取引先ではないようだ。
 簡潔にものを伝えて通話終了、ほんの僅かな時間この場所で待った。すると何やら風を切る音が近づいて来る、それは洞窟の闇の向こうからのものだった。
 束ねられた藁がすれる音と共に舞い降りたのは、箒をまたいだ黒い影。青い長髪をなびかせた眼帯の魔法使い、フランシスカであった。
「……………………………こんばんわ」
 まるで人に意思を伝える気がないような小声での挨拶。それに挨拶をするまでに妙な間があった。しかし、彼女はいつもこのような受け応えをするため、別に気にすることはない。単に人と話すのが得意でなく、恥ずかしがり屋で声を大きく言葉を言えないだけだ。
 だが彼女は隠されし伝説の黒魔術「ベス=ディーロイヤ式魔術」の継承者であり、非常に優秀な魔法使いである。
「あ、フランシスカちゃん、こんばんわ。そっか、魔法学校の生徒だからこの辺に住んでるんだね」
 フランシスカは無言で頷く。癖のかかった前髪が揺れる。
 筋は通った、おそらくヴァンはフランシスカに街の案内でもしてもらうつもりなのだろう。魔法使いの街の案内役としては適任だ。
「フランシスカ、ファミリアのオルギアンパブへ案内してくれ。もう此処には50年ほど来ていないし、いいかげんに店の場所もボロ屋から移転しただろう?」
「西通りの裏路地から地下に入る通路がある……。案内する……」
 ヴァンとサラの2人は先に歩いてゆくフランシスカの後に着いていった。
 まず3人は商店街を通ってゆく。それは地上にあるような商店街とは全く違う、魔法商品を主に扱っている店ばかりが立ち並んでいる。金色に輝く砂の入った小瓶、怪しく光る粘性の高い液体が入ったフラスコ、まるで鴉のような声を上げる食虫植物、ある物全てが地上の世界では見かけない変な物ばかりだった。
 杖屋では魔法の触媒に使われる基本的な木の杖が大小様々な形で展示されており、値段も安物から高級品まで色々ある。サラが見てもそれがどのように良いのか分からないが、きっと高い物はそれなりの理由があるのだろう。
 全てが珍しくてしょうがない彼女は、しきりにフランシスカに商品について聞く。
「この杖って凄い高いね。150万ディナール……車買えるよ……」
「……それは人食い花の茎で作られた杖。魔法適正はフルラ黒魔術に最適だけど、栽培時に死人が出るから割高……」
 魔法の商品に目を輝かせながら質問するサラに、フランシスカが分かりやすく説明している。言葉は平坦で感情が表れないが、フランシスカの表情は僅かに嬉しそうな感じがする。
 ヴァンも特に急いでいるわけでもなく、立ち寄った店などで商品を見ていた。彼が前に人間界で封印を解かれていた時はルミナスの曾祖父に当たるアレクサンダルとの契約時であり、西暦にすると1940年頃、ちょうど第二次世界大戦後期になる。それ以来彼は此処に来ていない。彼が生きている時間との比率的にひさしぶりに来たと言うほどではないが、その間でも随分街は変わるものである。
 店頭で売られる魔法商品も変わった。魔道具ではあるが、杖もその多くが職人の手作りではなく、機械化された生産ラインで効率的に製造される大量生産品であり、その全てが高水準で良い物である。1930年代から魔法業界の工業化傾向はあった。中には飛行用の箒で航空力学にのっとったハイテク製品や、凄い物になるとそこにコンピュータ制御がついていたりして、更なる時代の変化を垣間見ることが出来た。
 ヴァンは人間の進歩を見ているようで面白かった。悪魔には無い、時代を進めてゆく能力。観察の対象としてこれほど面白い物はない。
「寄り道も良いがそろそろ行こう。案内を再開してくれ」
 ふとヴァンの言葉に気がついたフランスカが足を動かした。ただでさえ暗い街中でさらに真っ暗な路地へと歩みを進める。商店街の喧騒も遠のいてゆき、裏路地で響くのは3人の足音だけだ。
 フランシスカの案内に従ってゆくと白熱灯の明かりが見えた。その光の下には地下へと続く階段があり、3人はその階段をゆっくりと下りてゆく。白熱灯は入り口に一つだけだったようで、階段の途中は短い蝋燭が点々と置かれているだけ。そのためかなり足元は薄暗い。しばらく降りると今度は機械の音がする空間に出た。
 薄暗くて良く見えないが、目の前にはエレベータらしき扉がある。その扉の前には黒いスーツを着た強面の巨漢が一人立っていた。
「会員カードと名前をおねがいします」強面の男がヴァンにぎらついた視線を向けて尋ねる。
 そこで答えたのは彼の身長の3分の2にも満たないフランシスカだった。彼女は素早く会員カードを渡す。
「フランシスカ=ヘクセンとその連れ……」
「俺は魔王ヴェーデルハイム、とだけ言えば分かるだろう?」
「フランシスカ嬢とヴェーデルハイム様! しょ、承知いたしました。どうぞお通りください」
 強面が情けなく歪んだ。どうも二人の名を聞いて怖気づいたらしい。ヴァンはともかく、フランシスカまで驚かれるとはどういうことだろうか。
 とりあえずフランシスカはエレベータの下に行くスイッチを押し、少し待つと下へ行くエレベータの扉が開いた。エレベータの階層ボタンは2個だけ、地下1階と地下2階だけだ。
 フランシスカはその地下2階のほうを押して自動扉は閉まり、エレベータは下へと動き出した。
 10秒くらいたっただろう、そのくらいで地下2階までは着いた。
 すると扉の向こうから音が聞こえる。
 これは――悲鳴だ。
 自動扉が開く、その光景が網膜に映った。
「到着……」
 まぶしい光が襲った。色とりどりのネオンが光を放ち、大音量でレイブが垂れ流されている。ギリギリまで肌を露出した女が、わざとらしくいやらしく腰を振りながら歩き、痩せ細った目つきの悪い男が白い粉末を鼻から吸引している。中にはよだれを垂らしながら酷く下品な笑い声を上げる者。とにかく一見しても表を歩いているような普通の人間は居ない。皆どう見ても変質者か薬物中毒者か、売春婦にしか見えなかった。サラはその様な風俗、夜の世界に関してはあまり馴染みがなかった。それゆえにこの光景がとても違和感を感じるものである。
 それに何やら甘ったるい匂いが漂っている。そしてその匂いが嗅覚を刺激して、体の奥から何か熱いものがこみ上げてくるような感覚に襲われる。
 理性が失われていくような、何か動物的になるような――。
「サラさん、これを飲んで。抗淫薬剤……」
 フランシスカは一粒の錠剤をサラに渡した。抗淫薬剤、そう、この甘い匂いは人間の性欲を刺激する媚薬だったのだ。しかし何故こんな匂いが此処一帯に漂っているのだろうか。
 サラはとりあえず錠剤を飲む。噛んで飲み込めるらしいので水は要らなかった。効果は数秒で出始めた、込み上げてくる熱いものが冷めて、体の奥底に埋められてゆく。しかしそれでもこの空間に漂う異様な熱気は収まらない。
 サラはだんだんと不安になってきた。
「ヴァンさん、一体ここは何の会場なんですか?」
「ここはリデルファミリアのオルギアンパブ。悪魔と人間と唯一許された、紳士淑女の社交場とでも言っておこうか」
 言葉を濁すヴァン。それは何かまずいことを伝えたくないという訳ではなく、単に伝えないほうが面白いだろうと思っている風だ。
 サラは気づいた。そう、ヴァンが紹介しようとしている仕事場というのはここなのだ、ここであの破廉恥な格好で日々媚薬を嗅がされる仕事なのだと。
「ヴァンさん、私、こういう仕事はちょっと……」
「何か勘違いしているようだな」
「へ?」サラはおどおどと気の抜けた返事をする。
「お前のつけそうな仕事はここには無い、こんなものじゃない。フランシスカ、黒聖堂に案内してくれ」
 彼女は無言でうなずく。そして空気に酔った人々の群れをかき分けて、2人を誘導していった。
 やがて人の群れがまばらになり、媚薬の匂いがさらに強くなる場所に来た。そこはネオンのような鮮やかな光はなく、むき出しの白熱灯が不気味に点滅している。
 途中でセキュリティのかかったゲートがあったが、フランシスカが取り出したICカードでそこを開けて通る。
 雰囲気が変わった、人の気配が薄くなった。しかし暗闇の奥から確かに人の声が聞こえる。ほとんどは不気味な笑い声や発狂したような高笑い、荒い息使いと苦痛を訴えるような悲鳴だが。
 さらに奥へ進むとまた色々な声が聞こえる。そしてフランシスカは鉄格子の扉の前で立ち止まった。
「………………」
 フランシスカが無言で扉を開け、2人に入るよう促す。その先は暗闇ではなく、部屋の奥から薄らと明かりが漏れていた。それに女の喘ぎ声に似た声も聞こえる。
 2人はその部屋へ入ってゆく。特にサラは恐る恐る入ってゆく。
 部屋の角の向こう側、薄い明かりの下にはこの世の物とは思えない、酷くえげつない光景が広がっていた。
「さぁ、8番から16番の女はカードの個室に入れ。1番からの男はお楽しみだ、8番までの好きな部屋に入って犯し放題だぜ」
 アナウンスが流れ、裸の男女がそれぞれ個室に入ってゆく。男は非常にうれしそうな笑みを浮かべているものの、女は誰もが無表情で、瞳は虚ろで人形のようだ。
 個室に入るとそれぞれから艶のある声が聞こえてくる。男が入った部屋からは歓喜に似た笑い声も聞こえる。
 一体これは何なのだ、サラの頭はますます混乱してきた。そんな彼女にヴァンは面白そうにここの説明をしだす。
「古来より行われてきたサバトとは、人間が黒魔術を使うために行う儀式ではあるが、同時に我々悪魔が人間の性行為によって生気をより効率的に摂取するための食事会だ。ここにいる女共は金に欲しさ体を売り、薬を飲まされて意識を曖昧にされた後、悪魔たちに生気を食われる。殺すわけではないので、記憶を消されたあとは地上に報酬と共に送り返され、何事もなく生活を送るのだ。男は性欲が強いから『若くて可愛い女とやれる』と煽れば、ホイホイとこんな場所までついて来て、女形の悪魔にその名の通り精気を吸われるという訳だ」
 サラはその話を聞いて吐き気に近いものを覚える。まさか、そんな、こんなことが世の中に存在しただなんて。売春だとかそんな話ではない。自分たち人間が、悪魔に食糧となる代わりに金を得ようとしているのだ。ここにいる人々は一体何を間違ってこんな地獄に足を踏み入れたのだ、何でそうまでして金を得ようとするのだ。
「ヴァンさん……まさか私にこんなことをさせようと、ここに連れてきたのですか?」
「一応そのつもりだったが……、その様子だと絶対にやりたくないんだろうな」
「あたりまえですっ! 前にも言いましたが私は、体は確かに生きた人間とは程遠いですが、心まで死んでいるわけではありませんよ……」
 彼女の目元から滴がこぼれる。それは目の前の光景からのストレスから来る涙だった。
「あーあーわかった、泣くな、泣きやめ。これはちょっとした冗談だ、お前がこんな場所に来たらどんな反応をするか見てみたかったんだ」
「ヴァンさん酷い! やっぱり魔王は悪魔だったんだぁあ!」
「本当はお前の強靭さを生かして日雇いの警備員でもしてもらおうかと考えていた。そりゃあお前が人体解剖ショーでヒロインを買って出たら、そりゃあ百万単位の金が入るだろうがな」
 相変わらずおどけた態度を見せるヴァンだが、サラは相当ショックだったようだ。普通の人間がこんな場所に来て平常心を保っていられるだけでも凄いというのに。
「あぁ面倒だ、総代のところへ行こう」
 ヴァンは深くため息をつきながら、フランシスカの瞳にアイコンタクトを送る。フランシスカは再び無言で頷いて、ヴァンの言う総代という人物の下へ案内しようとした。その時。
 乱れた服を直しながら、暗い個室から出てくる見覚えのある人影。頭には2本の立派な角を栄えさせて、背中からは赤いコウモリの羽根を羽ばたかせている。ただでさえ暗いところでも、さらに黒く、なびく髪はミディアムくらいの長さで、毛先が外側に向かって跳ねているのが特徴的だから分かりやすい。
 何よりも暗闇の中でも赤く光る瞳は、明らかに人間のそれとは違う物だ。
「あー、おいしかったぁ」
 とても満足そうな表情で口の周りについた食べ残しを舌で舐め取る。その食べ残しが何であるかは想像できない。
「なるほど。最近メフィストを見かけないと思ったら、ここでお楽しみをしていたとはな」
「ヴェ、ヴェーデルハイム様!?」
 予想外の人物の登場に取り乱す様子のメフィスト。悪魔達も休暇をもらってそれぞれの時間を楽しんでいるのは良いが、まさかこんなところでヴァンと会うなんて思わなかった。いや、来る可能性はあったが。
 此処は人間界に許された悪魔達の憩いの場であり、ヴァンの部下達も数名ここで遊んでいる。その中にメフィストが居ることもなんら不思議ではない。
 乱れた髪を素早く取り出したくしで整えようとして、鞄からクラブの会員証やら猿ぐつわやらが落ちてしまう。相当慌てているようだった。
「別にそう慌てる必要はない、俺はお前達にいつ遊ぶなと言った?」
「いえ、そうじゃなくてっ。ただ、あの、ヴェーデルハイム様に御使えする身としては、品が無いかと思いましてー……」
「品だと? 人間を食うにも生気を吸うにも、何か礼儀作法などあった覚えは無いぞ。あえて言うならむしゃぶりつくのがマナーだ」
「うう……ヴェーデルハイム様、なんてお優しい方なのでしょう!」
 目元に感激の涙を溜めながらヴァンに飛びつくように抱きつく。己の喜びを全身で表現していた。それに対してヴァンは娘を見るような優しい目をしながら、そっと頭をなでてやっている。優しいといっても相変わらず鋭いのだが。
 フランシスカはその光景に対して相変わらずの無表情だが、サラは少し感じるものがあった。
 ヴァンの今までに見たことのない優しさ、それは同族にのみ向けられるものではあるが、なんと微笑ましいことだろう。王は自らを慕ってくれる民のために優しさを振りまき、思い、憂う。魔王ヴェーデルハイムはまさに絵に描いたような理想の指導者だ。人間にもこれくらい優れた指導者が居たらいいなと思う。
 しかし、結局は魔王である。人間のことなど二の次と考えている存在に、「酷い!」などというのはお門違いということなのだ。
 今度から気をつけなければならないと思った。彼は魔王、協力関係にあるから殺意は無いかも知れないが、決して人間と同等の存在ではない。親切心を見せた時は注意しよう、絶対何か悪戯を企んでいる。サラはつくずくそう思うのだった。
「さて、気を取り直して総代のところへ行くぞ。メフィストも来るか?」
「アリスに会うの? まあ70年ぶりだし、顔くらいは見せてあげるかな……」
 メフィストもその総代を知っているらしい。この地下組織の元締め「アリス」。名前からして女だが、一体彼女は誰なのか。どんな人物なのか。
 一行は歩みを進める。

 フランシスカの案内が再開。今度は黒聖堂の更に奥、関係者以外立ち入り禁止とされた扉を開けた先には地下へと続く階段があった。3人はそれをまた降りてゆく。
 サラは今度は何処に連れて行かれるのかと心配でならなかったが、とりあえず此処まで来たのだから最後まで真相を見届けたい。
 此処は悪魔達の憩いの場、そこを統括する者とは一体誰なのか。
 階段を折り終わるとまた風景が変わり、中世の家を意識したような部屋に来た。赤いレンガの壁がお洒落な感じで、それは正確に天井まで伸びている。その天井はかなり高く、一番上には燦然と輝くシャンデリアが存在感を示していた。とても地下とは思えない、まるで豪邸だ。巨大な扉を開けた向こうのエントランスホールでは、黒いスーツを着たガードマン風の男が物騒な物を抱えて警備している。ドイツ製H&KのMP5サブマシンガン、なかなかの高級モデルである。そのガードマン達は4人に眼をやると礼儀正しく一礼した。フランシスカがやはりこの場所と深い関わりがあるのは確実なようだ。
 エントランスの右手にある食堂と書かれた扉を開けた。するとそこは高い天井に真っ白いテーブルクロスが目に入る、ベオグラード城に匹敵する豪華絢爛な食堂だ。
「ただいま参りました……おばあ様」
 テーブルクロスの掛けられた長机の上座、複数のガードマンに囲まれた人影があった。フランシスカはその人に向っておばあ様と言う。立ち位置的にその人がここの頂点に立つという総代なのだろうか。
 しかし、サラはその姿に度肝を抜かされることとなる。
「あら、いらっしゃいフランシスカ。そして……ヴェーデルハイム様」
 とんでもないものを見た気がする。上座で悠々と紅茶を飲んでいたその人物は、まだあどけなさの残る少女だったのだ。
 腰まで伸びたストレートの金髪。青を基調とし、たくさんのフリルがついた昔の子供が着るような可愛らしい服。
 頭頂部には青いリボンの飾りをしており、どう見たっておばあ様と呼ぶにはあまりにも若すぎる。誰もが彼女を見ても可愛い少女としか思わないに違いない。
 しかし綺麗な顔立ちとは裏腹に、左目の目元には大きく縫ったような傷跡がある。そしてその堂々とした態度は、外見的に同年代の少年少女と比べても雰囲気は大人のそれだった。しかもティーカップ片手に葉巻を吸っている。
「ちょっとフランシスカちゃん、あの子がヴァンの言う総代で……、おばあ様?」
 サラの疑問に不敵な笑みを浮かべながら直接本人が答える。
「うふふ、この年になってもまだ『子』などと呼ばれるなんて嬉しいわ」
「でもどう見たって……」
「まあお茶でも飲んで落ち着きなさいな。さ、空いてる席にお掛けになってください」
 黒服の男たちがティーポットに淹れてあった紅茶をカップに注ぎ、人数分を席に置いた。まっさきにヴァンが少女に対面する形で座り、続いて3人も席に着いた。
「何年ぶりでしょうかヴェーデルハイム様、確か以前お会いした時はユーゴスラビアの時でしたね」
「第2次世界大戦、そうだ、ナチの奴等を追い払った時だな。あれから70年ちょっと、相変わらずの姿だな」
「あなたも相変わらず怖い目付きね。この前の戦闘では何千人殺したのかしら?」
 明るい笑みを浮かべながら昔を懐かしむ。70年前の話をなぜこの少女がしているのか、サラの疑問は積るばかりで自然とそれは表情に出ている。クエスチョンマークが額に描いてあるようだ。
 少女は彼女の表情を見て、自分がまだ自己紹介すらしていなかったことに気がついた。
「あら、ごめんなさいね。初めての人がいらっしゃるのを忘れておりました。私は『アリス=リデル』、フランシスカの曽祖母で、リデル・ファミリアの総代です。見た目はこうだけれども、今年で108歳になるおばあちゃんね」
 100歳以上と言えばもうしわくちゃに干からびていてもおかしくないが、彼女はしわ一つない顔でそう言っている。にわかに信じられない話ではあったが、今まで十分非現実的なものを目にしてきているのでそう衝撃的でもなかった。それでも十分に驚くべきことだが。
「あなたがサラ=ジェンドリンさんね。此処に仕事を探しに来たとのことだけど」
「はい、そうなんですけども……さっきまでこの辺でやってる物を見てきたんですけど、ちょっと私には向かないですね。風俗店のようなことしているのは分かりますが、一体此処は何なのでしょうか?」
「風俗店とは良い例えね。ふむ……、あなたには黒魔術についてもっと知ってもらう必要がありそうね」
 アリスはサラに黒魔術のことをかいつまんで説明し始めた。
 ――黒魔術、それは古代よりヨーロッパに伝わる魔術宗派の一つ。
 そもそも魔法とは魔界から微量流出して自然界に浸透した魔力を用い、魔法陣や呪文を唱えてその魔力を調律した後、熱エネルギーや電気・光・運動エネルギーに変換する術である。
 世界には様々な魔法宗派が存在するが、大まかに分けると自然界に浸透している魔力を用いる「白魔術」と、魔力の根源となる魔界の住人と契約することにより術を可能とする「黒魔術」に分けられる。
 しかし、現代世論においては黒魔術など衰退して消え去ったなどという説が有力である。
 だが実際にはそうではない。
 禁忌とされるフランシスカのベス・ディーロイヤ式魔術はその黒魔術の代表である。彼らの多くは深い山奥や秘密の地下洞窟などで活動してきたために、世の中への露出度は白魔術よりも圧倒的に低い。だからこそローマ・カトリックの行った魔女狩りにも耐えることが出来た。何よりも魔女狩りに耐えられた理由は、彼女らは容赦なく殺傷力の高い魔法で信者たちを返り討ちにしたためだとも言われている。
 そしてそのベス・ディーロイヤ式魔術こそが、中世ヨーロッパの各地で夜な夜な行われていた魔女の夜宴「サバト」を行っていた悪魔崇拝の総本山である。
「ここはベチケレク旧市街のさらに地下にある、黒聖堂を中心として発達したセルビア最大のサバト会場。悪魔への売春凱旋業に関してはヨーロッパ随一の規模で、通称オルギアン・パブと呼ばれているわ」
 サラはなるほどと言えるほど納得できてはいない、と言うよりか初めて知ることが多すぎて理解することが出来なかった。
 確かに今までフランシスカやヨハネスの術は見てきているし、今更魔法の存在を疑う余地はない。だが御伽話にもならないようなキリスト教の魔女狩りと異端者の悪魔崇拝についてはさっぱりだ。
 しかし分かったことはある。人間を薬漬けにすることも、若い娘を連れてきて悪魔と交わらせることも、彼らが金のためと魔術習得のために自ら進んでやっていることで、そこには人間と悪魔の確かなギブ・アンド・テイクの関係があるということだった。
 何故悪魔に媚を売るのかと疑問に思うも、自分達も結局は同じ。RHKも悪魔は兵士として人を殺すことによって満足し、王国も手に入れた金で経済を発展させる。そこには同じく相互利益の関係が形成されていた。
「結構カルチャーショックです……。まさかこんな場所が世の中にあるなんて思っても見ませんでした」
「何も知らない人たちが想像するファンタジーは楽しい物だけど、現実は生々しい物よ」
 アリスはそう言って紅茶を一口。サラもそれに続いてティーカップに注がれた紅茶を飲む。こんないかがわしい場所だが、割と優しい味がした。
「で、割のいい仕事を探してるとのことだけど、警備員としてなら雇ってあげるわよ。無論、それなりの能力があればこそだけど」
 このパブの警備員ということはつまり、それは用心棒といってもいいだろう。さっきも見たように、ここには頭のねじが外れかけているような人間が存在しているわけで、彼らが暴れだして他の客に迷惑をかける可能性は十分にある。だから用心棒として厄介者を力で押さえつけ、場内の秩序を守ることが必要になる。
 サラは一応、警備員としての適性はある。仮にも実戦経験のある現役軍人なのだ。基本的な戦闘技術は修得しているし、正規軍にいた時はむしろ同期の兵士たちと比べても優秀な成績を収めている。ヨハネスのように伝説の兵士と呼ばれる訳ではないが、軍隊の中でも一目置かれるような存在だった。そうでなければRHKにわざわざヘッドハンティングされない。
 ヴァンはアリスに、サラがどのくらい使えるかを説明しだした。
「こいつは以前モンテネグロ軍の侵略時に負傷して虫の息だったところ、私が魔力供給術式を施したグールだ。生半可な攻撃じゃ死なないし、体内に寄生したソルジャーマゴットのおかげで魔法への抵抗力もある。兵士としてはまだまだ未熟だが、タフさに関しては用心棒として最適だろう」
「あら、さっきからメフィストとは違う別の悪魔の気配を感じると思ったら、あなたの体にベルゼバブが寄生しているのね」
 「蛆の鼓動作戦」以来、サラの体内にはソルジャーマゴットの大将格であるベルゼバブが寄生しているが、彼らが全身の壊死してゆく細胞を食べてくれるため、彼女の体はいつも清潔に保たれている。だがそれだけではなく、体内に蝿の王を寄生させることによって魔法に対する耐性も上がっており、ヴァンからの魔力供給がなくともウジ達が作り出す魔力によって完全な自律行動ができるようになっている。使い方によっては、ウジ虫を使って死体を操ることも可能だ。
「そうだ、サラ。お前はここで働くついでに、魔法の一つや二つ学んでおくといい。RHKで銃ばかり撃ってるようじゃ能がないからな」
「私が……魔法ですか? 私、魔女になれちゃうんですか!」
「魔法の一つや二つ覚えたくらいで魔女とは言えん。ただ戦術の幅が広がるだけだ」
 アリスもその考えに賛同する。
「ええ、それはいいと思うわ。フランシスカもそう思うでしょう?」
 こくりと頷くフランシスカ。やはりRHKという特殊な戦闘集団では、銃が撃てるだけじゃ芸がない。弾薬が尽きた時などに、自身の体から無尽蔵に湧き出す魔力を利用しない手は無いだろう。
 サラは黒服の男から履歴書を受け取ると、それに記入しアリスへ提出した。アリスはそれを確認して頷き判子を押す。彼女はサラの能力を買ってくれたようだ。
「はい、確かに確認したわ。後で事務からIDカードを受け取ってね」
「ありがとうございます! 精一杯働きますのでよろしくお願いします!」
「ええ、こちらこそ。ようこそリデル・ファミリアへ、今後ともよろしく。魔法はフランシスカから教わって頂戴」
 サラはあくまで礼儀正しく、そしてやる気に満ちた態度で臨んだ。履歴書を受け取ったときに黒服の男から給料の説明があったが、これがなかなか割のいい仕事であり、真面目に働けばクリスマスまでに家族へのプレゼントを用意できそうだった。これもあってか、彼女はやる気になったことだろう。
 一通りの手続きを済ませると、フランシスカが早速黒魔術の基礎知識を説明するために黒服の男達と共に別室へサラを案内した。
 ヴァンは休暇明けにはどれほどの魔法をサラは使えるようになっているだろうかと、わずかだが楽しみにすることにした。なんにせよ体内にあのベルセバブが寄生しているのだ。きっとそれを有効活用した面白い術を覚えてくるに違いない。そうでなければ張り倒してしまうだろう。
 すると、今まで珍しく静かにしていたメフィストが、満を持したかのようにアリスに向かって話しかけた。
「久しぶりね、アリス。ナチの奴等をファックしたとき以来よね」
「メフィストも相変わらずね。フランシスカと仲良くしてもらっているようで、嬉しい限りだわ」
 初対面ではないような物言い、それは約70年前、メフィストとアリスは友のように仲が良かった。
 当時は枢軸国によるユーゴスラビア侵攻でベオグラードが陥落した後で、ユーゴスラビアは一時期ドイツによって支配されていた。その後に占領に対抗する勢力であるパルチザンの武装決起があったが、彼女等はそこで兵士として占領軍と戦った。彼女等は極めて大きな戦果を上げ、「幼き魔女と赤い悪魔」として恐れられることとなる。
 後にヴェーデルハイムも契約者の死亡と共に眠りに着き、メフィストも一旦魔界へと帰還。それから長い時が過ぎ、今再び最強のバディが再会している。
「ふぅん……。あの子、やっぱりあんたのひ孫だったのね。道理で顔立ちが似てると思った」
「可愛いでしょう? 母親に似て変な性格だけど、まあベスの魔女だから仕方のないことね」
「母親……、そういえばフランシスカから両親の話を聞いたことないわね」
 メフィストとフランシスカは何かと気が合うようで、人間と悪魔でありながらも仲のいい友達として付き合っている。仕事でも息のあったバディとして活躍しているし、プライベートでも良く旧市街で買い物などをしている。
「嘘ね?」
 メフィストは突然アリスに対してその言葉をかけた。
 アリスを見つめる彼女の瞳には、明らかな疑念の意が写っている。アリスは気がつくのを予想していたかのように、表情一つ変えずそれに聞き返した。
「何の事?」
「フランシスカはあんたのひ孫なんかじゃない、ってこと」
「何故そう言えるのかしら?」あくまで余裕をもって回答するアリス。
「あたしはRHKにフランシスカをヘッドハンティングするときに戸籍証明書を見たわ。あの証書には確かに両親の名前が載っていたけど、二人ともリデルのリの字も名前に含まれて居なかった。こんなに分かりやすい嘘を何故アリスがつくのか、むしろそこに興味があるわ」
「養子よ養子。ファミリアの存在が表に出ないようにするための、単なる安全策よ」
「それだけじゃない。あの子は余りにもあなたとそっくり過ぎるのよ。まるで双子みたいに」
 フランシスカとアリスは髪の色こそ違うものの、目の形や背格好まで良く似ていた。メフィストの記憶にある限り、性格は瓜二つというわけではないが、偏屈なところは同じ。とにかくそっくりだ。
「さらにはあの人間離れした蒼い髪、体内に収まりきらない余剰魔力が色素として出てる。人間とは思えないし」
「ふむ、だからあの子が私のひ孫じゃないと、あなたはそう言いたいのね」
「それだけじゃない」
 メフィストは呆れたかのように大きなため息をひとつ。
「子供の産めないあなたが、ひ孫を持てるわけないでしょう? あたしがそうしたんだから」
 子供の産めない人間が、そもそもひ孫がいるはずがないことは誰にでもわかる論理だ。
 問題の原点にはアリスの不老という事にある。彼女がちょうど10歳のころ、ある悪魔に出会ったことが始まりだった。
 その悪魔の名前はメフィストフェーレス、すなわち彼女である。
 アリスの不老の体、それはメフィストと「受胎能力を奪う代わりに不老の体と強大な魔力を与える」という物だった。
「そう、あれはあんたが10歳の頃。母親が強姦されて殺された日ね」
「…………」
 アリスはベス=ディーロイヤ次期総代候補であった母親を、別の総代候補を支持する勢力に殺された。そして彼女自身も男どもの慰み者として扱われ、精神的にも肉体的にも酷く傷ついた。
 彼女はとてつもなく深い悲しみと絶望に打ちひしがれるが、母の無念を晴らすべく自らがベスの総代となることを決意。ベスの魔術書に記された悪魔降臨の儀式を一人で行い、メフィストを召喚。そして彼女と不老の契約をした。何とも悲惨な話である。
「『子供なんかいらない。私が上に立って、全員ぶっ殺してやる』なんて、あんな幼い顔で言われたらどんな悪魔だって願いを聞いてやりたくなるわ」
 悪魔であるメフィストは、あくまで自らの欲望に忠実だった。一人の女が、子供を持てない体になることの悲しさを知っていたからだ。
 悪魔は人間の負の感情を糧として生きている。一応はベスの魔女として勉強していた当時のアリスも、それくらいは理解していた。
 しかし、それでも何らかの方法で子供産んでいたとするならば、話はこじれる。メフィストはアリスが悲しむことを期待していたのに、彼女はその幸せを手に入れていたということだからだ。
「どうなの? 別に今更咎めはしないから教えてよ」
「確かにあの子は私のひ孫ではないわ。だけどこれ以上をあなたに話す義理はないわねぇ」
 70年来の間柄だから真相を教えてもらえると期待していたメフィストだが、予想に反した彼女の回答に驚く。
 不老といえど、人間より遥かに強い力を持つ悪魔に対しての態度じゃない。
「何それー。あくまで秘密にする気?」
「あの子はベス魔法技術の粋を尽くした最強の魔女。おいおい話すこともあるかもしれないけど、彼女の出生に関しては我々の最高機密なの」
「いいじゃん、あたしは悪魔なんだから最高機密くらい教えてよ」
「いいや秘密。そのほうが面白いから」
 ベスディーロイヤ魔術の総代が最高機密とするフランシスカの出生。いくら最高機密だからと言って、悪魔無くして存在し得ない彼女等が、その悪魔にさえ漏らしてはならない事とはなんだろうか。
 傍から紅茶を飲みながら聞いていたヴァンは、それを疑問に思った。
「アリス、その秘密は悪魔にも教えられないことなのか? あるいは教えるにも後ろめたいことがあるとでも言うのか?」
「いえ、決して後ろめたいことなどございませんわ。これは魔神長の命令です」
「魔神長……人間界戦略課課長の事か?」
「はい、我等ベスの頂点に在らせられる、あのお方です」
 ベスディーロイヤ魔術において最も重要な存在は悪魔である。ベスの魔女達は悪魔と交わり自らの生気を捧げることで、強大な魔力を与えられると同時に黒魔術の使用を許可される。その一連の呪術的行為がサバトであり、それを取りまとめる団体がリデル・ファミリアということだ。
 そしてもちろん、悪魔側にもサバトに参加する悪魔たちを統制する存在が居る。それがヴァンの言う人間界戦略課課長であり、アリスの言う「魔神長」と呼ばれる悪魔だった。
 すなわち魔神長とは、すべての黒魔術の頂点に君臨する存在である。アリスの直接的な上司と言ってもいい。
 ヴァンはますます不審に思った。魔界の行政機関で最高指導者として君臨する彼に、本来であれば隠すことなどある筈が無いのだ。しかし、現にその機密事項と思われる事柄は報告を受けていない。いったいこれはどういうことだろう。
 ヴァンは考えを巡らせる。もしも魔神長が魔王に隠し事をしているというなら、それは忌々しき事態だ。もしかしたら魔王の座を狙っているのかもしれない。しかし、彼はそんなことは考えなかった。人間じゃあるまいし、お互いの足を引っ張るような真似を悪魔がするとは思えないからだ。
 何か深い理由がある。魔王に報告することのできない何らかの理由が。
 アリスは先ほどフランシスカのことを「ベス魔法技術の粋をつくした最強の魔女」と言っていた。
 確かにフランシスカの持つ魔力は人間の許容量を超えており、汚染は身体的変化として顕著に表れている。
 第一に髪の色。彼女の髪は人間とは思えないような毒々しい青色に染まっているが、これは許容量を超えた余剰魔力が髪の色素であるメラニンに強く作用しているからだ。
 体内に魔力を蓄積することは細胞に高い負荷をかける。本来であれば髪が青くなるまで魔力汚染を受けているのであれば、すでに体全身がそれに蝕まれている可能性が高い。ほぼ間違いなく生きてはいられないだろう。
 だがフランシスカはいたって健康な状態である。水晶体への色素沈着による視力の低下も見られないし、赤血球ヘモグロビンの生産能力低下による貧血症状も無い。あらゆる魔力汚染の症状が見られなかった。
 これが第一の謎。そして第2の謎は、彼女が純潔であるということだ。
 女性が処女または非処女であるかはベスディーロイヤ魔術において重要な意味を持つ。ベスの魔女は悪魔と交わることによって黒魔法を使う権利が与えられるが、それは自らの純潔を捧げる事で悪魔と契約しているからであって、処女はベスの魔女になることは出来ない。
 悪魔は「匂い」で女が処女であるかどうかを判断することが出来るのだが、フランシスカは処女のみが発する独特の匂いがしていた。つまり、フランシスカはベスの魔法が使えないはずなのだ。
 しかし彼女はフランベルジュを術で動かし、箒で空を飛び、死体から物質を抽出することが出来る。ありえないことだ。一体何故彼女が魔法を使えるのか。
 とにかくフランシスカには不審な点が多い。やはりこの異常な性質が出生を隠さなければならない大きな理由、そして原因であろう。
 ヴァンは魔神長と直に話す必要があるだろうと判断した。しかし、今のところ人間界から出ることが出来ないため、それを成すことはできないだろう。それで彼はあること思い出した。
「そういえば今年は閏年か。ということは恒例の”アレ”が開かれるんだったな」
「はい、今年も盛大にやらせてもらいますよ」
「ヴェーデルハイム様、”アレ”って何ですか?」と、メフィスト。
「忘れたのか? 閏年の最初、月の第一土曜日。世界中の黒魔術師達が一同に会し、契約の更新と各黒魔術宗派代表が円卓会議を行う大規模サバト。『シナゴーグ・サミット』が開催されるのだぞ」
 閏年にのみ開催される世界規模のサバト、シナゴーグサミット。ヴァンはそれを思い出した。
 シナゴーグサミットには世界中から黒魔術師たちが集うのだが、同時に魔界からの多数の悪魔が参加する。
 そしてその中には人間と契約をする悪魔たちの指導者、魔神長も含まれるのだ。すなわち、シナゴーグサミットこそが唯一ヴェーデルハイムが魔神長と会うことのできる機会である。
「今年はヴェーデルハイム様も来られますか?」
「ああ、是非そうさせてもらう。久しぶりに魔神長の顔も見ておきたいしな」
 前回のサミットが4年前、そのころは特にセルビアでは大きなトラブルもなく平和だったため、ヴァンは地下宮殿に眠っていた。それ以前も特に国家レベルの危機は訪れなかったために、サミットに参加するのはかなりひさしぶりである。
 ヴァンは魔神長とは旧知の間柄であり、この場では本名を言わないものの、かなり親しい間柄である。だからこそこの問題は解決しなければならない。悪魔といえどそこには確かな友情があった。
 サミットまであとわずか、それまでに最低限の情報収集はしておかなければならないと彼は思った。
 時計を見る。午前0時を回っていた。この町の夜は始まったばかりだが、そろそろヴァンは城に帰らなければならない。
 魔王たるもの治めることを忘れてはならない。魔界政府の書類をまとめなければならないし、悪魔達の殺人申請許可証の最終認可もある。それ以上にRHKの会計処理などの仕事が山のように残っており、それを城に戻って片づけなければならない。
 そんなものは本来部下であるメフィストや、その他悪魔達にやらせれば済む話なのだが、中には彼らの権限では目を通すことのできない案件だってある。それはRHKのCEOであるルミナスとCOOであるヴァンが処理する必要があるのだ。
「さて、そろそろ俺は城に戻る。サラをよろしくな」
「御意」
 ヴァンがそう言って席を立った、その時だった。
 ――地響き。低周波が鼓膜を叩く。
 天井の向こう側、地上に比較的近い位置で何かが爆発するような音が聞こえた。岩盤が崩落する様子はないが、少なくともただ事ではない。アリスもすぐに状況の確認を行った。
「リデルよ、状況を報告しなさい」取り出した携帯電話で部下と思われる人物と通話する。
『はい、地上ゲート付近で大規模な爆発が発生した模様。被害状況はただいま確認中ですが、少なくともベチケレクへ繋がる通路は解放されています。そして、監視カメラには数名の人影がゲートに入っていくのを確認しています』
「侵入者ですって……?」
 携帯の通話をオフにする。リデルの顔がわずかに歪んだ。

 電波障害は少なくとも発生していない。そして爆発後に人影がゲートへ入っていたならば、その爆発も彼らが仕掛けた可能性が高い。侵入者と判断するには十分な材料がそろっていた。
「ただ事ではなさそうだな」
「申し訳ありませんヴェーデルハイム様。ただいま状況を確認中ですのでしばしお待ちを……」
「いや、その必要はない。頭上からまるで降り注ぐように強い殺意を感じている。まず刺客と見て間違いないだろう」
 すると勢いよくドアが開き、天災を察知したネズミのように出てきたのはサラ。そして後ろをマイペースに歩いてついてくるフランシスカ。特にサラの表情は真剣そのものであった。
「ヴァンさん、さっきの爆発は一体なんですか?」
「わからん。しかし、人を殺しに来たのは確かだな」
 さらっととんでもない事を口にするヴァン。しかしサラはあくまで冷静でいることに徹する。ここで取り乱しても正確な状況判断ができなくなるだけで何の得もない。
 再度アリスの携帯電話に着信があった。通話。
「こちらリデル、状況は?」
「緊急事態ですリデル様、ホワイティストです! ホワイティストの武装集団がパブ目指して侵攻してきています!」
「ホワイティスト?」
 聞きなれない単語に真っ先に疑問を持ったのはサラ。思わずその説明を求めてしまう。
「なんですかホワイティストって……、テロ組織ですか?」
「ホワイティストは白魔術師協会の過激派集団。黒魔術関係団体に対して500年前の因縁を晴らそうと、武力による報復を行うキチガイ集団よ」
 15世紀に一般で言う「魔女狩り」が行われたというのは周知の事実。
 しかし、西ヨーロッパのキリスト教会が本当に追い出したかったのはベスディーロイヤを始めとする「悪魔信仰宗教」であり、多くの罪もない人々が適当な理由をつけられ殺されていった。その中のほとんどが非悪魔信仰の白魔術師達であり、その後二つの魔術宗派の間には深すぎる溝ができてしまう。
 魔法が使える、たったそれだけの理由で何の罪もない人々が殺される。元はと言えば黒魔術師たちの倫理・人権を無視した魔術研究が人々の反感を買ったのが原因であり、白魔術宗派の魔術師たちは何の関連性も無かった。
 その恨みを現代まで晴らそうと活動してきた魔術師集団、それがホワイティスト(白魔術至上主義者)である。
「全く迷惑な話よ。確かに黒魔術が元凶だったのは認めるけど、今の私たちが何か悪いことでもやったのかしら」
「誰もが憎しみの矛先を探している、そういうものだと諦めろ」
 アリスは深いため息をつくと、指を鳴らし、部屋に軽く高い音が響いた。
 すると部屋の四方にある両開きの大きな扉が一斉に開き、薄汚れた茶色のローブを被った人たちが入ってくる。
 彼らは一様にフードで顔を隠しており、性別も判断しかねる。しかし、男にしてはやけに小さな体をしているようだった。
 彼らは来るやいなやアリスの下へ駆け寄り、その場にひざまずいた。
「戦闘娼婦隊集合いたしました」ローブの人が女性の声で言った。やはり女性のようだ。
「状況は各自知らされているとは思うが、ベチケレクに侵入者を許してしまった。このまま我々の聖域へ足を入れさせるわけにはいかない。よって娼婦隊はこれを撃破、可能な限り生きたまま拘束し、不可能と判断すれば殺害せよ。敵も魔法使いだということを忘れるな」
 ひざまずいた女達がアリスに対して「御意」と答える。そのことからも、アリスがこの組織で相当な権力を持っていることが覗えた。
 彼女等はその命令を受けると、静かに、そして素早くこの部屋から出て行った。主の命令に絶対服従の、アリスの私兵部隊と言った所か。とにかく、彼女等はすぐさま事態を鎮圧しに向かった。
 それよりもアリスは彼女等のことを「戦闘娼婦隊」と呼んでいた。素直に取れば戦う娼婦ということになるが、やはり黒聖堂で売春行為をしていた彼女達のことだろうか。
「中々従順な僕ではないか。あれが噂の用心棒か」
「はい。戦闘娼婦隊はベス=ディーロイヤ魔女の中でも優秀な者を集めた、娼婦兼用心棒の魔女ですの。魔法も達者なのですが、女としてのテクニックも抜群でしてね。全員200回以上の経験を持つプロなのです」
「200回か……、それだけやっていればアボーション回数も相当だろう?」
「中絶10回以上のAクラスばかりです。パラフィリア級魔術さえも軽く扱えるでしょう」
 先ほどからえげつない単語が連発されているが、ベスの魔術というのはそういうものなのだ。
 サラは悪魔に犯されることを想像するだけでも恐怖するが、今まで娼婦隊の彼女等はそれを身を持って体験してきたのだ。想像を絶する苦痛を耐え抜いて来たに違いない、いや、そうであって欲しかった。
 恐らく彼女等は相当の変態性欲者であろう。そうでなければ、200回などという回数を重ねて正常な精神状態を維持しているはずが無い。好きなものこそ上手になれと言うが、好きだからこそ上手になれたのだ。
 そして人工妊娠中絶は母体に対してかなりの負担がかかる。それはもはや苦痛では無く、並々ならぬ屈辱に他ならない。それでもな交わり続けたというのだから、やはりサラが真似出来る様な女達ではない。
 まあ、それさえも快楽となる変態という線も捨て切れないが。
「さてと、俺も気晴らしをさせて貰おうか」
 そう言うとヴァンは席を立ち、侵入者を排除しに部屋を出ようとした。しかし、それをアリスが静止する。
「ヴェーデルハイム様はこちらでお待ちください。あなた様の手を煩わせるような相手ではございません」
「油断は禁物だぞ、アリス。まさか俺の食事を妨げようとでも?」
「いえ、あなた様には少々お頼み申したいことがございまして」
 ヴァンに対しては謙虚な態度のアリスだが、そんな彼女が頼み事としてきたことに少々驚く。しかし、それだけ事態が切迫しているということだろう。口では大したことは無いと言っているものの、此処へ侵入出来るくらいなのだから只者ではないことは明白だった。
「聞こう」
「このパブ全体を覆う結界の展開と、ここに居る悪魔達への指示をお願いします。我々には王女様のように悪魔への命令権はありませんので……」
 基本的に悪魔は人間の言うことは聞かない。自分より高位の悪魔か、同じくらいの地位にいる仲間の提案のみ受け付ける。ヴァンのようにエンキュリオール家と契約しているという条件がなければこれに例外はない。
 ルミナスがヴァンの部下である悪魔たちに対してある程度の命令権を持っているのは、彼の分身ともいえる魔剣エンキュリアを所持しているからだ。
 無論アリスはメフィストと契約しているとはいえ、そのような権利を与えられてはいない。こうやってヴァンにお願いしてはいるがそれを聞いてくれる保証もなく、これはあくまで提案でしかないのだ。
 ヴァンはアリスの提案を飲むかどうか考えた。確かに彼女は自分たちの兵隊がどれほど優秀かを評価してもらいたいという気持ちは少なからずあるだろうが、ここに結界を張り仲間の安全を確保したいという考えもあるだろう。
 そして彼はルミナスと結んだ「民を守る」という約束を守らなければならない。それはすなわち、ここの人間たちを守ることも含まれる。利害云々の前に、それが道理なのだろう。
「提案を受理しよう。私とメフィストはパブおよびベチケレクに居る人間の安全を確保する。お前たちは侵入者どもを生かして返さないように努めよ。そしてこれは提案だが……」
 ヴァンがサラの方へと視線を向けた。嫌な予感がする。
「これをサラの警備員適性試験としないか? 娼婦隊とサラで敵の撃破数を競わせ、もしもサラが娼婦隊の記録を越せなかった場合は採用取り消しにするとか」
「えぇっ!? それは無いですよヴァンさん!」
 サラの顔面から血の気が引く。せっかく楽しいクリスマスを過ごせるお金が手に入ると思ったのに、この一言で全てが暗礁に乗り上げてしまった。
 そして提案を聞いたアリスもまんざらではないという顔をしている。むしろ乗る気だ。
「素晴らしい提案ですわヴェーデルハイム様。早速装備を手配させましょう」
 明らかにこの状況を楽しんでいるヴァンの前に、もはやサラは何も言えなかった。しかしこうなったからにはやるしかない。ホワイティストなる武装集団によって何の罪もない人たちが危険に晒されることは、サラにとってもそう気分の良いものではなかった。
 ここは金のために戦う傭兵ではなく、人々の安全を守る軍人として戦うのだ。彼女はそう心に決めた。

 現実は厳しいものである。彼女はつくづく思い知らされた。
 パブを抜けて上層部のベチケレク旧市街に展開した娼婦隊と共に、サラとフランシスカは市街に侵入した武装勢力を捜索している。さすがに数十名居る娼婦隊と一人の兵士が競うのはいささか不公平と考えたアリスは、サラにパートナーとしてフランシスカを付けさせた。
 優秀な魔法使いがサポートしてくれるのだからこれほど心強いものは無いが、それ以上に気になることが一つあった。与えられた戦闘服は、都市迷彩の施されたBDUとミリタリージャケットのシンプルなもので、戦闘に必要なものは一通りそろっている。銃はRHKでも採用しているSCARとFNファイブセブンが支給された為、条件としては慣れ親しんだ装備で良かったと言える。しかし、そのBDUは単なるBDUではなかった。
 制限時間があるのだ。まるでシンデレラのガラスの靴のごとく、2時間経つと衣服が丸ごと消え去って全裸になってしまうらしい。これはベスの魔法であるタナトフィリア死体成型術の応用であり、もちろんこれを発案したのはヴァンで、サラは彼のサディスティックな遊び心を恨んだ。
 しかし今更どうこう言ってもしょうがない。スーツで戦闘することはできないだろうし、ましてや一着しかないそれをぼろ雑巾の様にするわけにもいかないし、いずれにせよBDUは必要だった。
 様々な不安を抱えつつも、彼女はとりあえずそれは置いておいて目の前の問題に集中することにした。
「こちらジェンドリン。敵影は確認できず」
 本部への定時連絡を済ませる。未だホワイティストと見られる勢力はパブの入り口まで到達していないようだ。
 ベチケレクの住人たちは爆発が発生したあとで屋内待機命令が出された為、今は外をぶらついている人間は存在しないはず。よってパブに近づく人間こそがホワイティストである可能性が高い。
 娼婦隊とサラ、フランシスカと使い魔フランベルジュはパブの入り口の周囲200メートルを巡回している。いつ敵の襲撃を受けてもいい万全の警戒態勢だ。サラとフランシスカはバディを組み、慎重に街を捜索する。
 するとサラの無線機に娼婦隊の通信が入った。
『ねえ、サラ=ジェンドリンとか言ったわね』隊員の一人が話しかけてきた。
「はい。本日から警備員として働かせてもらいますので、どうぞよろしくお願いしまーす」
『聞いたよ、あのヴェーデルハイム様のお気に入りなんだってね。おまけになかなかのやり手だそうじゃないか」
「え……ヴァンさんがそんなこと言ってたんですか。まあ正規軍に居たこともありますし、使えない人間じゃあないと自負してますよ」
 ちょっとばかり鼻高々な気分を味わうが、ヴァンのお気に入りだと言う言葉には少々引っかかった。
『ふーん。ところであんた、処女でしょ?」
「はい?」
 突然の質問に戸惑うサラ。今まで何の脈略もなくそんなことを聞いてくる人に、彼女は今まで会ったことは無かった。酒の席ならともかく、こんな堂々と聞いてくることはない。
『えーマジ? 処女? ありえなーい』
『処女が許されるのは13歳までだよねー』
『あたしなんか初体験8歳だから。ちなみにあいてはロリコンオヤジ』
『うっひょー、いくらもらったのよ』
『アメ一個。今思うとカナリもったいないことしたわー』
 娼婦隊の想像を絶する会話が展開されていく中、サラはもはや何も口出しできずにいた。初体験がどうとか、いくらもらっただとか、これが売春婦の会話というものなのか。
『サラも一度経験することをお勧めするわ。悪魔の物は人間の比じゃないくらい良いのよ」
「え、遠慮しておきます……」
 これからこんな職場で働くことを想像すると、少しだけ憂鬱になる。苦手ではあるが、別に娼婦の彼女等が嫌いだから一緒に居たくないという訳ではない。あまりにも自分とはかけ離れた世界に住む人々と、これから一緒に仕事ができるかどうと不安なのだ。
 彼女等もきっと最初はお金に困っていて、こういう世界に踏み出した経緯があるのだろう。それが今ではライフワークとして売春を楽しんでいる節があると見える、おまけに悪魔を相手にして。
 しかし自分もこうなっていた可能性は否定できない。もしも自分が軍人として戦える体を持っていなかったら、貧しい家を支えるためにどんな手段を取っていただろうか。学歴もなければ金もない。あるのはこの身一つだけ。
 もしかしたら彼女等と同じく繁華街でそういう仕事をしていたかもしれない。ふとそんなことを考えた。
 娼婦隊の隊長と思われる人物がはしゃぐ隊員達に一括すると無線通信は静かになり、サラも捜索の方に集中することにした。なんせ自分の給料が懸かっているのだ。
 しかし一つ気になることがあった。果たして侵入者達はどのような風貌をしているのだろうか。
 監視カメラに写った映像は鮮明ではなく、先に接触した守衛の報告からして敵意のある勢力であることは確実だ。だがどのような姿をしているかという報告をする余裕も無く通信が途絶したので、娼婦隊およびサラとフランシスカはそれを知らない。
「彼等は一体どんな格好をしているのかな」
「恐らく、杖とローブ……」
「まんま魔法使いですね。そんな変わった風貌なら判断しやすいかも」
「……ここは魔法の町だから……そんな人いっぱい居る」
「あ、そうか…」
 地上だったらそんな目立つ風貌の人間は警察官に職務質問を受けているだろう。しかし魔法都市であるベチケレクの住人は、ほとんどが魔法使いであるため杖を持っている人なんかいくらでもいた。
 町全体が警戒状態となっているために、住民は基本に敵に屋内待機だ。
 今この状況で出歩いている人が怪しいとはいえ、確認もなしに攻撃をするわけにはいかない。ましてや娼婦隊の隊員たちも巡回しているのだから、友軍誤射を避けるために即時発砲などは御法度である。サラも正規軍に入る前の訓練学校でそう習っていたし、何より実戦での恐ろしさを知っている。
 それにしても静かだった。時間からいえばそろそろ敵が入口付近に到達しても良い頃合いなのに、発砲音の一つも聞こえやしない。敵は相当警戒しながら慎重に行動していると見える。こちらがこのような警戒態勢を敷くことは敵も予想しているだろうし、突破手段も考えていないはずはない。その突破手段さえ分かれば勝ったも同然なのだ。サラは一瞬たりとも気の抜けない状況に、ある種の胸騒ぎを覚えた。
 ある建物を通り過ぎると、背後に甲高い音が響いた。サラは後ろを振り返る。
「缶……じゃない!」
 彼女が全てを口にする前に強烈な爆音が響くと同時に、視界が強い光でホワイトアウトする。
 鼓膜を強度限界まで震わせ、三半規管が正常に機能せず、閃光が網膜に真っ白な映像を強く焼き付けた。
 あの缶はただの缶ではない、錯乱用のスタングレネードだったのだ。
 フランシスカに気を取られたサラ対応が遅れ、視覚と聴覚をやられて行動不能となる。ここぞとばかりに駆けてきた敵の足音などはもはや聞こえず、無防備な状態の彼女に攻撃が加えられた。
 腹部に一撃、膝蹴りが炸裂。サラは内臓が口から出るかと思うくらいの衝撃で倒れる。脳天に拳銃の9ミリ弾が3発撃ち込まれ、頭部を失った彼女は力なく崩れ落ちた。
 フランシスカは運良くフランベルジュの巨体に隠れていたために閃光を直視せずに済んだが、強烈な爆発音だけは耳の神経を一時的に麻痺させていた。彼女はすぐさまフランベルジュに命令を下す。
「敵勢確認。撃破せよフランベルジュ」
 鎧のゴーレムが敵の方へ向いた。杖をもった魔術師と思われる男が3名、サブマシンガンを装備した男が4名。
 白魔術至上主義者のくせに銃を使ってくるとは予想外だった。彼らは基本的に現代戦闘を好まないはずなのだ。
 状況としては思わしくないもので、フランシスカは無線機で娼婦隊に報告する。
「こちらフランシスカ……、北ゲート付近で侵入者発見。応援を要請する」
 本部はフランシスカに増援を送ると応答した。しかし耳の麻痺した彼女には聞こえない。
 敵はフランシスカに向かって牽制射撃。フランベルジュがその甲冑で銃弾を弾き飛ばし防御する。その間に敵の魔術師達は杖を構えて魔法の詠唱を開始。フランシスカが箒に取り付けられた回転式投擲銃を構えるころには、火炎放射の魔法が成立していた。
 迫り来る炎。しかしフランシスカは動じずに、投擲銃をその炎の向かってくる方向へ向け、魔法的に強化されたグレネードを打ち込んだ。爆発、爆風が迫り来る火炎とぶつかって相殺される。
 前方に炎の煙幕が形成され、フランベルジュは装備したガトリングガンを掃射。毎分数千発の銃弾が敵に浴びせられた。血飛沫が舞う。
 最低一人は殺せた。舞い上がる血しぶきの量から推測することが出来る。残りは恐らく6人。
 フランシスカは次弾を懐から取り出した弾で手動装填。敵集団が居ると思われる方向へ発射。爆発し、濃い煙があっという間に広がった。煙幕弾である。
 フランベルジュはガトリングガンによる掃射を再開。フランシスカはその間に頭部を失ったサラの体を取りに行く。見ると首から上が綺麗に吹き飛んでいるようだ。
「……大丈夫?」こんな状態の人間に掛ける言葉としては不適切な言葉をかけるが、サラは普通の人間ではないので問題ない。しかし耳が無いので聞こえているかは疑問だ。
 サラの体はそれなりの重量があった。鍛えられた軍人特有の筋肉質が重量を増している。小柄な少女であるフランシスカが運ぶには多少骨が折れる作業だ。
 彼女がサラを運ぼうとした、その時。敵の一人が物陰から姿を現し、銃口をフランシスカに向けた。
 回避するにも身の回りに銃弾を防げそうな遮蔽物は無い。引き金が引かれる前に彼女は驚くべき行動を取った。
「ごめんなさい」一言そう呟き、サラの体を起き上がらせた。
 銃弾がサラの体を蹂躙した。なんとフランシスカはサラの体を盾に使ったのだ。ボディーアーマーのおかげで銃弾は貫通せず、フランシスカは無傷のまま敵に反撃する。
 照準を敵に向け発射。グレネードが発射され着弾、炸裂。金属片が敵の肉体をぼろ雑巾のように仕立て上げる。
 敵はさらに増援をよこした様だ。監視カメラに写っていた人影はほんの一部だったのだろう。
「お嬢様、ただいま参りました!」建物の屋根から人影が現れる。
 その影は羽毛のように軽く地面に着地すると、その薄汚いローブを放り投げる。その正体は娼婦隊だった。
 全身は鴉の如く真っ黒なBDUに包まれ、首には重そうな極太の首輪がはめられている。背中には藁箒を背負っている。恐らくその首輪にこそ呪術的な意味があるのだろうが、雌犬の証ともとれた。
 彼女等が到着すると同時に敵も新たな増援が現れた。娼婦隊は手に持ったM84「スコーピオン・サブマシンガン」のコッキングレバーを引いて次弾を装填。ある者は箒を構え、魔法の使用体勢を取る。
「下がってくださいお嬢様。その者は不死なのでしょう?」
「不死……そうだった……」
 どうせサラは死なないんだから大丈夫、と判断したフランシスカは彼女の体を置いて娼婦隊の下へ後退した。
 可哀想ではあるが命に限りのある自分の身には代えられないし、放っておけばそのうち起き上がるだろう。
 娼婦隊が弾幕を張りながらじりじりと敵に近づいてゆき、箒を構えた隊員がごく短い呪文を唱える。
『ヘマト・フィリア。滴り落ちよ』
 彼女等がそう唱えると、藁箒を形作っている藁の一本一本が敵に向かって飛び出してゆき、そのまま敵の体に突き刺さった。激痛が敵を襲い、とにかく刺さった藁を抜こうともがく。しかし、やっとの思いで藁が抜けたと思ったら、新たなる悲劇が待ち構えていた。
 藁を抜いた傷口からおびただしい量の血液が噴き出したのだ。致命傷は避けているはずで、本来それほど太い血管が通っていないような個所から、まるで大動脈を切ったかのように出血している。明らかに異常な事態だ。
 あわてて傷口を手で押さえつけようとするが、全く止血の効果がない。足もとに血の池ができ、やがて出血多量のショック死に陥った。
 ヘマトフィリア人体破壊術。その魔法をかけられた藁箒は、人体をより効率的に破壊する殺人兵器になるというものだ。残忍な魔法が特徴のベスディーロイヤらしい魔術である。
「気をつけろ。奴等の箒を食らったら、絶対に出血が止まらないぞ!」敵が仲間にそう伝える。
 娼婦隊の隊員が箒をもって敵の懐へもぐりこむ。そして箒の柄で足元を華麗にすくい、倒れたところに藁の部分を胸部に突き刺した。魔法の掛けられた藁の一本一本は、鋭利なナイフのようにするりと丈夫な防弾チョッキを貫通し、肉をえぐるように突き刺さる。そして傷口からまるでシャワーのように鮮血が吹き出した。隊員の体が返り血で赤に染まる。
 箒の枝一本一本に魔力は付与されているため、ひっかき傷程度でも大量の出血を強いていた。
 そしてフランシスカも負けじと敵に接近。勢いをつけるために助走をして、まるでスケートボードに乗るように箒に乗って飛行。そのまま突撃して敵の脳天に箒の柄をぶつける。
 衝突した瞬間鈍い音がした。頭がい骨陥没。しかしフランシスカは間髪いれずに次の攻撃を仕掛けた。
『露出せよ、己の真の姿を。快楽はそこにある、エキシヴィジョニズム』
 非常に早口で呪文を唱え、敵の胸に手を当てる。すると、服が破けて裸になり、同時に皮膚に亀裂が入る。
 ワンテンポ置いた後で、服に引っ張られるように全身の皮膚がまるでオレンジの皮のように剥けた。
 フランシスカは魔法を使って、触れただけで人の生皮を剥いだのだ。敵はそのまま人体模型のような惨い姿で崩れ落ちる。彼女は最後に懐から取り出した拳銃で、痛みに悶える敵の脳天を打ち抜いて止めを刺した。
 それにしても敵は巧みなフォーメーションを形成して、あくまで冷静に対処してくる。これは全くもって素人のなせる業ではない。真っ当な戦闘訓練をつんだ兵士の動きだった。
 しかしそんなことは今さら重要ではなく、目の前の脅威を排除することに集中する。次々に娼婦隊とフランシスカは極めて残虐なやり方で侵入者どもを殺戮し、その数を減らすと共に戦意さえも削り取っていった。
 魔女の釜の底とはよく言ったものだ。
「あらら、ホワイティストも大したことないわね」娼婦隊隊員の一人がそう呟く。
「死体の中に良い男が居るよー。食っちゃっていいかな」
「やめときな。どんな病気持ってるかわからないよ」
 娼婦隊は相変わらずの様子。余りにもあっけない戦闘に拍子抜けしてしまったようだ。しかし、フランシスカは未だ緊張の糸を解いていない。念のためにフランベルジュを近くに置く。
「気をつけて……魔術師が居ない」
 彼女は妙な事態に気がつく。転がっている死体はどれも銃を持った前衛であり、杖を持って後方支援をしていた魔術師達が居ないのだ。戦闘中のどさくさにまぎれて何処かへと隠れたのだろうか。
「残存勢力を捜索。残りはひ弱な魔術師だけだ」
 娼婦隊とフランシスカは隠れている魔術師達を建物の影からゴミ箱の中までくまなく探す。最低でも一人は拘束しろとアリスに言われているが、先ほどまで戦っていた体格のいい男相手ではさすがのフランシスカも取り押さえることができない。しかし魔術師相手であればスタンガンでも当てておけば大人しくなるだろう。フランシスカはポケットに携帯したスタンガンが使える状態にあることを確かめる。
 それにしても全く見つからなかった。本当に猫一匹見つからないくらいの静寂に包まれている。パブへの入り口周辺の住民には別に用意した避難場所を設けているため、一帯の家屋には誰一人として残っていない。
 積年の恨みを晴らそうと立ち向かってくる彼らが、圧倒的なまでの力量差を見せ付けられて怖気づくとは考えられない。
 しかしその静寂は、予想外の形で打ち破られた。
「敵を発見! いや、これはっ――」通信途絶。何処からともなく断末魔が聞こえた。
 フランシスカは断末魔のした方向へ駆け出す。高度な訓練を受けた魔女がこうも簡単にやられるはずがない。
 魔法の中では異端となる対人魔術の前に、白魔術師ごときが対抗できるはずがないのだ。
 しかし彼女の脳裏にある可能性が浮上した。まさかとは思ったが、奴等は最後の切り札を残している。
 箒に乗って全速力、夜の洞窟内を飛翔。すぐさま声のした場所へ到着したが、目の前の光景にフランシスカは戦慄を覚える。
 死体に群がり肉をむさぼる異形の獣達。その獣達は四足歩行の犬にも似た姿をしているが、全身を毛皮の変わりに燃え盛る炎をまとっていた。
 生物と呼ぶにはあまりにも歪で、熱すぎる。狼のような殺意を持った炎が、熱く眩しい光をばら撒いていた。
 少なくともその獣共はこの世のものではなく、それと同時に、”お手”などはしてくれそうになかった。
「こちらフランシスカ、敵召喚獣発見。『ファイアウルフ型』と断定……」
 ファイアウルフは白魔術の召喚魔法により顕現する召喚獣で、その狂暴な性質と生命力で人間の肉を焼き、むさぼる凶悪な獣である。間違いなくこれはホワイティスト達の差し向けたものに違いなかった。
 フランシスカに続いて娼婦隊もその場に合流。それに気がついたファイアウルフたちが爆音にも似た唸り声を上げて、明らかな敵意を向けてくる。銃による攻撃を試みるが、通常の拳銃弾では圧倒的高温の所為で融解し効果が無い。勿論箒を叩きつけようものなら一瞬にして炭になるだけだろう。それは人間達も例外ではなかった。
 明らかに動揺する娼婦隊。無理も無かった。何故ならベスディーロイヤ魔術は『人間を殺すため』の魔術なので、『人間ではない者』に対してはさほど高い戦闘的優位性を持っていないのだ。
「シット! 生意気な犬共め」
 娼婦隊の一人が死体から抽出した水分を箒にまとわせ、ファイアドッグにそれを叩きつける。しかしそれは焼け石に水のようなもので、その炎に触れるや否や水分が蒸発してしまった。おまけに箒にも火がついて、もはや使い物にならなくなる。黒魔術も触媒がなければ魔法は使えない。
 次の瞬間。黒く焦げた地面を蹴り、ファイアウルフが隊員に飛びつき、一瞬にして彼女は火だるまになった。悲痛な悲鳴が上がる
 黒こげになる前にとフランシスカがフランベルジュに命令し、彼女に飛びついたファイアウルフを引き離し救出。
 民家の近くにあった水道の蛇口を破壊して、噴出した水で消火する。隊員は一命を取り留めたが、ただでは済まないだろう。
 計10匹のファイアウルフ達が隊員達に襲い掛かる。対抗手段を持たぬ彼女等は、ただただその炎を防ぐことに手一杯となり、苦しい防戦一方の戦況となった。
『こちら娼婦隊、召喚獣相手じゃ分が悪すぎる。対召喚獣用装備を要請する!』
『駄目だ。今引いたらパブ内への侵入を許してしまう。なんとか持ちこたえられないか』
『無理、無理無理。このままじゃ消し炭になる!』
 情けないが手も足も出ない。銃弾は効かず、炸薬は効かず、打撃は効かず、対抗できる魔法は無い。
 唯一ゴーレムであるフランベルジュのみが互角に戦えるが、それもまたファイアウルフに対する決定打を与えることは出来ずにいる。
 フランシスカも投擲銃に装填した『氷結魔法付与炸薬弾』を使って、ファイアウルフたちに辛うじてダメージを与えている。だがこれも決定打にはならない。比熱の問題で着弾しても火勢が弱まることは無かった。
 民家に備え付けられたいた家庭用の消火器を引っ張り出し、消火剤を噴射してみるものの、魔力による炎は酸素を絶ったところで絶えることは無い。
 やがて彼女の周りに複数のファイアウルフが集まってきている。絶体絶命の状況。無線通信からは弱気な発言ばかりが聞こえた。もうだめだ、手遅れ、終わりだ、逃げよう。そんな言葉ばかりが溢れている。
 だが次の瞬間、銃声と共に一匹のファイアウルフが消火された。
「情けないわね娼婦隊。こんな犬共を落とせないなんて、雌犬の名が廃るわよ」
 華奢な少女の声が響く。
 ひらりと舞い降りたフリルのスカート。こんな状況では似つかわしくない清楚で可愛らしいワンピースと、幼い顔立ちの少女。しかしその右手に存在感を示すサブマシンガン「トミーガン」は、ロリータな外見とはあまりにもミスマッチである。
 アリスがその姿を現したのだ。黒魔術宗派ベスディーロイヤの総代が、自ら銃を持って戦いに来たのだ。
 彼女はドラムマガジンを装着したトミーガンの引き金を引きながら、ファイアウルフの一団に突撃して行く。
 発射薬を少なめにした実包を使用しているため反動が低減されており、その華奢な腕でもまともな射撃をすることができる。しかしその銃弾にはとある魔法が付与されており、ファイアウルフたちに効率よくダメージを与えられているようだ。
 懐から緑黄色の液体の入った試験管を取り出し、軽く羽毛のように跳躍しながらそれを地に叩きつける。
 叩きつけられた試験官は当然の如く割れて散り、緑黄色の液体があたりに飛び散った。するとどうだろうか、その液体はたちまち黒い霧に変わり、ファイアウルフ達を取り囲むように広がったではないか。
「娼婦隊、所詮こいつらは召喚獣よ。魔力供給さえ遮断してしまえばすぐに燃え尽きる。前線で戦かう兵隊も、補給部隊なくして継続戦闘はありえない」
「魔力を遮断……そうか、ヨウ化銀の雲を使えば継続的に魔力を遮断できる!」
 錬金術や魔術において重要な意味を持つ銀は、魔力を吸収する働きがある。そのため吸血鬼などの魔物に対して有効な攻撃手段であり、無論魔力をエネルギー源とする召喚獣も例外ではない。
 アリスの持ってきたトミーガンには銀の含有率925パーミルのスターリングシルバー弾(SS弾)が装填されており、それは魔力吸収効果と含有される銅の毒性で、特に魔術師を殺すための特殊弾薬だ。もちろん銀の退魔効果は召喚獣にも有効で、娼婦隊も携帯はしているものの、先の戦闘で全弾を使い切ってしまっていたのだ。
 そして試験官に入っていた謎の液体。それはヨウ化銀と呼ばれる銀とヨウ素の化合物で、大気中に放出されるとそれが核になって雲が発生する。もちろん化合物であっても銀としての魔法的特性は失われておらず、魔力を吸収する雲となるのだ。
 娼婦隊は緊急時のためにこれを常備していたが、使った本人も魔法が使えなくなるという諸刃の剣であるため、あくまで撤退時の緊急用としてのみ一人一ビンのみ携帯していた。隊員たちは慣れない対召喚獣戦闘によって冷静な判断ができなくなり、大人しく引けば良いものの、精鋭部隊というプライドと義務感から引くにも引けずにいたのだ。
「申し訳ありませんリデル様。私どもが不甲斐ないばかりに」
「いいえ、簡単にはあなた達を責めないわ。私にだってこの事態は予測できなかった」
 爆音のようだった唸り声が徐々に大人しくなり、やがて子犬の鳴き声のようなよわよわしいものに変わる。
 アリスは持ってきたSS弾装填済みのマガジンを娼婦隊の面々に渡し、弱ったファイアウルフどもを蹴散らしにかかった。
 引き金を引き、発砲。マズルフラッシュが薄暗いベチケレクの街を照らし、ファイアウルフは急速に火勢を弱めてゆく。やがてその火は消えかけの蝋燭の如く小さくなり、わずかな風で消え去った。
 隊員達は安堵の表情を浮かべる。しかし、ことはそう簡単には終わらなかった。
「引き金から指を離すな。敵はまだ生きているぞ」
 そう、召喚獣をけしかけた魔術師たちの姿は未だ発見していない。彼らが生きている限り召喚獣はまた襲ってくるに違いないのだ。
 隊員たちが魔術師を探そうとした矢先、それは来た。
 民家を燃やして踏み倒し、近づいてくる巨大な光。火花が散り、周囲5メートルくらいにある燃える物は燃え、熱で熔ける物は赤熱し溶けた。
 召喚獣の姿は今までのものとはケタ違いだった、まるで狼の群れを束ねるリーダーのような、子分の数倍はある巨大な炎。それの足もとから火を分けるように現れるファイアウルフ達。炎の煉獄かと見間違えるかのような光景。圧倒される火勢。銀の雲などその強大な魔力の前には無意味だった。
「馬鹿な……巨大すぎる。大きさも、魔力も、何もかも……」
 その場にいた隊員が銃を下した。あまりにも圧倒的な力の前に、銃口を向けることさえ馬鹿馬鹿しく思えた。
 今度こそ手立てがない。黒い霧で切り裂いたはずの活路は、再び眩しいほどの光で遮られた。
 しかしそんな中でも諦めない二人が居た。フランシスカとアリスである。
「……近くで見ると……結構可愛い」
「噛みついてこなければ飼っていたところね」
 二人は引き金に指をかけることを止めてはいなかった。あえて前面に立ち、ファイアウルフの注意を引くことで他の隊員たちへ攻撃が行くのを防いでいる。単に巨大なだけではなく知能も高いようで、只者ではないこの二人に対しては一層強い警戒心を抱いているようだ。だからこそ飛び掛ってくるような真似はしない。歩くような速さでにじり寄り、慎重に二人を熱し殺そうとしている。
 巨大ファイアウルフの吐く息は数千度。二人は魔法障壁を展開してなんとかやり過ごしているが、直接噛みつかれたら晴れて木炭となることは確定的に明らかだった。
 じわじわとにじり寄ってくるファイアウルフ。汗が頬を伝う。もはや一時退却を余儀なくされるかと思ったその時、ふとフランシスカは銃を持つ右手に違和感を感じた。見ると一匹の芋虫が跳ねている。違う、それは芋虫にしては大きすぎる、グロテスク且つ巨大なウジ虫だった。
 ウジ虫というキーワードで彼女はあることを思い出す。「そういえば”あの人”はどうしたのだ」、と。
 あの人は動きだしていた。彼女の復活を祝うようにか、足元には無数のウジ虫がファイアウルフに向かって長い河を作っていたのだ。
 ファイアウルフに向かっていくウジ虫達だが、決して焼身自殺を図っているわけではない。この巨大ウジ虫「ソルジャーマゴッツ」は、1200度以上の高温で成体へと羽化する、ウジ虫の悪魔なのだ。
「私を……忘れるなぁあああああ!」
 見覚えのある声と共に一斉に羽化した蝿の大群が、辺り一帯を黒く覆い尽くした。そして蠅達は6つほどの分隊に分かれ散開、街のあちこちに飛んで行った。するとやがて黒い塊が空を飛んで近づいてくる。
 そして、民家の影から悲惨な姿をした人が姿を現す。
 ずたずたに引き裂かれたBDUは血に汚れ、模様がよく見えないほどに赤く染まっている。手足の傷口、および飛び出た目玉の眼窩からは無数のウジ虫が湧いて出ている。だが腐乱死体とも考えられない彼女は、ゆっくりではあるが自分の足で歩いてきている。
 空を飛んできた黒い塊は彼女の下へと降りて行き、その本来の姿を現した。それは大量のハエに運ばれてきたホワイティストの魔術師だった。
 彼女は体内から湧き出るウジ虫を魔術師の体にある穴という穴から侵入させ、異物挿入のショックで気絶させると共に魔力を貪欲に食い荒らす。声にならない悲鳴が上がった。他にも5体の魔術師がハエによって運ばれ、彼女によってことごとく魔力を吸収された。まるで悪魔の食事である。
 やがて巨大ホワイトウルフは術者の魔力喪失と共に消滅、洞窟内にあった無駄に大きい松明は居なくなった。
「フランシスカちゃん、盾は酷いよ盾は……」
 サラは体内にソルジャーマゴッツと、その長である悪魔ベルゼブブを寄生させている。彼女は不死身の体を持っているが、それを維持しているのはウジ虫たちが有機物を分解して発生させる魔力である。すなわち彼女とウジ虫は理想的な共生関係にあるというわけだ。
 瀕死のダメージを負ったサラの体を修復するために、ウジ虫達は戦闘で死亡したホワイティスト達の死体を食し、魔力を発生。その魔力によって新たなウジ虫を発生させて、成体に羽化できるほどの熱を持つファイアウルフに接近。羽化して飛行能力を得た蠅がホワイティストの残党を探し出し、サラがウジ虫を使ってそれを無力化。事態は彼女の活躍によって鎮静化を迎えるのであった。
「なるほど、やはりヴェーデルハイム様が見込んだだけのことはあるわね」
 サラの仕事に素直な関心をするアリス。
「いやぁそれほどでも。それよりも私はこのまま雇ってもらえるのでしょうか……?」
「何の問題もないわ、合格よ。まさかファイアウルフの高熱を利用して、ウジを羽化させるとは思わなかったわ」
 小さくガッツポーズを決めて喜ぶサラ。これでクリスマスまでにまとまったお金が手に入って、いつもより豪華な料理を用意できることに幸せを感じている。
 娼婦隊は放心状態の魔術師達を乾いた麻縄で拘束し、パブの拷問ルームへ連れてゆく。見るとホワイティストの魔術師達は若者で、売っても金になりそうな上物が揃っていた。
「リデル様、この者達の処理はどういたしましょう?」
「何としても情報を吐かせるのよ。三角木馬でも何でも使って拷問しなさい」
「いえ、その後の処理です」
「薬を飲ませて調教しなさい。特に女は心体共に壊れるまで雌奴隷としてこき使ってやるわ」
 アリスは怒りを込めてそう命ずる。ホワイティストの魔女達には、もはや真っ当な未来など送る権利すら残されていないだろう。
 一行はパブの地下へと帰っていく。しかし、一人身動きができない状況に陥っていた。
「待ってフランシスカちゃん! せめて……服を貸してー」
 魔法が解けてBDUが無くなり、サラは全裸でその場に立たされていた。高温との戦いでかいた汗が洞窟の冷気で冷やされ、彼女は小さなくしゃみをした。フランシスカはすでに居ない。

 アリスはヴァンの待つ黒聖堂の地下に戻った。彼女の頭の中には、今回の襲撃に関する不審な点が渦巻いている。
 それを現すように、彼女の顔はどこか憂鬱な影を感じられた。
 ヴァンは地下の大食堂で椅子に座りくつろいでいた。巨大なダイニングテーブルから白いテーブルクロスは剥がされており、複数の魔法陣が描かれていることから、彼も約束通りベチケレクとパブ周辺に結界を展開していたと見える。他にも無線機が置いてあるところから見ると、戦況は彼にも筒抜けなのだろう。
 そう考えるとアリスはさらに憂鬱な表情を浮かべた。
「おお、戻ったか。”パルチザンの魔女”と呼ばれたお前の雄姿、私も見たかったぞ」
「そんな滅相もない。あの程度の戦力に手こずるなど、お恥ずかしい限りでございます」
 ヴァンは笑った。その笑みは人をあざ笑うものではなく、気のせいかもしれないがどこか彼女を慰めるかのような慈悲が感じられた。予想外な反応に、アリスはその表情の意味を理解できなかった。
「無理をするな、アリス。あの兵士たちといい、あの召喚獣といい、我々はどうやら見事に意表を突かれたようだ」
「ただいま部下に奴等の拷問をさせております。必ずや情報を引き出して見せましょう」
 ヴァンは椅子から立ち上がり、帽子のつばを触りながら何やら考え事をしだした。時折テーブルの上に書かれた
 魔法陣に目を向けながら、眉間にしわを寄せている。
「どうされました?」
「お前も不審に思っているのだろう? あの召喚獣は、たかが6人の魔力程度で召喚できる代物では無いことくらい」
 アリスが不審に思っていたことの一つ、それは敵の魔術師が召喚したあのファイアウルフである。
 召喚魔法は多くの魔力を消費し、なおかつ大量の触媒を必要とする。あの類の獣を召還するためには魔法との相性のいいハイオクタンのガソリンと、相応の人数の魔術師が要るだろう。しかしあの巨大ファイアウルフといい、6人の魔術師が持つ魔力を合わせたところで召喚できるはずがない。いくら優秀な魔術師だとしても、個人が持てる魔力の限界値はどんな人間も大差は無い。
 しかしそれを可能にする方法が一つある。
「私は戦闘中にあの召喚獣を召還するための術式を解析していた。このテーブルに描かれている魔法陣はその時に使用したとみられる魔法陣だ」
「術式の解析ができたのですか? とにかく拝見させていただきます」
 アリスはテーブルに書かれた魔法陣を見て、その構造解析をしてみる。すると、一つの決定的な理由が解ってきた。
「魔力吸蔵触媒ですって……? こんなハイコストな魔法触媒を彼らごときが持てるはずがない」
 魔力吸蔵触媒は極めて複雑な工程を踏んで、大量の稀少物質を精製して作られると言われる触媒。近年の科学技術の発達によって生み出された新しい魔法技術で、人間の体の代わりに魔力を大量に備蓄してくれるという夢の触媒であるが、真相は定かではない。しかしこれを生成するためには膨大なコストがかかるらしく、たかがテロリストの持てる資金では到底捻出することはできないと聞く。
「どこからか盗んだか、あるいは巨大なバックボーンがついているか」
「何者かによって提供されているのだとすれば、バックボーンはとてつもなく大きいわ。国際的な……いや、国家といってもいいかも知れない」
 ファイアウルフの召喚術式は比較的難易度が低く、低級の魔術師でも人数と物さえ集められれば簡単に召喚できる。その程度の魔術師たちに貴重な魔法吸蔵触媒を安易に渡せるはずがないが、現に彼等はそれを使用している。
 つまりそれは安易に捨てられるだけの触媒があり、それを作るための潤沢な資金が提供されているということなのだ。
 そのためには国家レベルのバックボーンが必要だろう。
「彼らが諸外国のまわし者だとするならば、これは明らかな侵略行為。見逃してはおけないだろう」
「ええ、由々しき事態ですわ」
 アリスは思わず爪を噛んだ。するとそこに、ドアを開けてメフィストが大食堂に入ってきた。
 彼女の手には数枚の書類があり、それをテーブルの上に広げて見せる。
「由々しき事態なのはこちらもね」
 アリスはその書類の内容を見て驚いた。まるで見られてはいけないものを見られてしまったかのように。
「結界の反応で解ったんだけど、実はパブ内から何者かが、どさくさに紛れてとある資料を持って脱出したの。恐らくはホワイティストの内通者なんじゃないかと睨んでるけど、とりあえずは何が取られたのかを確認しようと思って資料室を漁らせてもらったわ。それには一体なんて書いてあるの?」
「……不老細胞の研究資料と、私の体細胞サンプル」
 アリスはメフィストと「受胎能力を失う代わりに、肉体の老化を停止する」という契約を行っている。
 不老とは誰しもが憧れる永遠の若さで、それのメカニズムを解析しようとするのは至極当然の興味である。
 リデルファミリアは数年前から不老であるアリスの体を研究していた。それはまさに悪魔と人間の契約違反になりかねない事であり、アリスがメフィストに隠していた秘密の一つである。
 これに対してメフィストはどうこう言うつもりはなかった。彼女が不幸になるとならまいと、今になってはどうでも良かったのだ。
 しかし、事はそういう問題ではない。
「これは重大な越権行為だが、これも魔神長の命令の一つなのか?」
「はい……あのお方の命令でございます」
 ヴァンはその鋭い魔眼をアリスの瞳に向ける。彼女は決して目をそむけず、毅然とした態度を取り、そして嘘はついていないようだった。
「まあいい、しかし今回のホワイティストの一件は大きいな。シナゴーグサミットも数百年ぶりの危機かも知れないぞ」
「ええ、決して無視はできないでしょう。早急に何らかの対策を取る必要があります」
 ヴァンの顔が笑みで歪んだ。今度は楽しみに心躍らせるような笑みだ。
 果たしてホワイティストの狙いとは一体何なのだろうか。果たして魔神長の意図は何なのだろうか。
 全ての答えは開催以来最大の危機に瀕したシナゴーグサミットにある。
 RHKの出番かもしれないと、彼はそう考えた。